㉞ 平安京 34代 通算83代 土御門天皇
在位 1198年~1210年
業績(事件) 承久の変に慎重姿勢
父 後鳥羽天皇
別称 土佐院、阿波院
死因 不明
御陵 金原陵
宝算 37歳
㉟ 平安京 35代 通算84代 順徳天皇
在位 1210年~1221年
業績(事件) 承久の変に積極姿勢
父 後鳥羽天皇
別称 佐渡院
死因 自害
御陵 大原陵
宝算 46歳
今回は、偉大なる父天皇を持つ二人の天皇を同時に取り上げる。異母兄弟ではあるが、性格が全く違った。極めて温和な性格で世情に疎い兄と、何事にも聡明で激しい気性の弟であった。当然後鳥羽上皇の寵愛は弟順徳帝に向く。まず、時代背景を確認する。頼朝の鎌倉幕府の発足は、極めて危うく頼朝の死と共に大混乱に陥る。2代将軍頼家の政務停止、その後の北条氏の権力争い。そして、頼家も3代実朝も暗殺で命を落とす。一方、宗教界も比叡山の寺門派、山門派の争い、新興勢力の法然や親鸞の台頭では「建永の法難」により遠島処分に至る。禅宗では、栄西が建仁寺を創建している。また、文化的には、藤原定家が歌壇のトップに君臨し、彫刻師では運慶・快慶の全盛期でもあった。あらゆる事が、平安の太平から源氏平家の戦乱を越えて、転換期を迎えていた。
天皇史には、突然誠に正直な善人の天皇が出現する。土御門天皇は、承久の変では主役ではない。父後鳥羽上皇と弟順徳天皇のお二人に従っただけだ。しかし自ら遠島を申し出て土佐に流された。父の隠岐、弟の佐渡と比べれば温暖な地で、その後阿波・鳴門に移る。世間はその境遇からいずれ許されて還幸するとのうわさが常にあった。しかしその様な過酷な状況でも旺盛な生殖活動の結果21人以上の皇女・皇子を残している。しかし、遂に都の地を踏むことはなかった。御陵も都に遠く現在の長岡京市の金原陵に葬られている。別名、土佐院・阿波院ともいう。
一方順徳天皇の治世は同時に父後鳥羽上皇の院政時になるが。自らも「禁秘抄」を著すなど積極的に宮中儀式の定式化(今で言うマニュアル化)に尽力した。倒幕を考えていただけではなかった。また、藤原定家との交流も深く、百人一首の最後は、順徳院の「百敷(ももしき)や古(ふる)き軒端(のきば)のしのぶにも猶(なほ)あまりある昔(むかし)なりけり」である。因みに、第1番の 天智天皇「秋(あき)の田(た)のかりほの庵(いほ)のとまをあらみわが衣手(ころもで)は露(つゆ)にぬれつつ」は、あまりに有名だ。順徳天皇は、承久の変の第二の首謀者で、佐渡への遠島は仕方がない事であった。20年に及ぶ長い長い隠遁生活であった。最後は自害とも言われる。新潟の地で火葬された後、大原に葬られる。
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