逆順でたどる平安京の天皇たち
108代 後水尾天皇 存在感が別格の天皇 上
父 |
後陽成天皇 母は、近衛前子 |
l 在位中元号 |
l 慶長・元和・寛永 |
l 生年・崩御 |
l 1596年6日29日~1680年9月11日 |
l 在位 |
l 1611年5月9日~1629年12月22日 |
l 朝廷 |
l 京都御所 土御門東洞院 |
中宮 |
徳川和子 |
l 皇子・皇女 |
l 多数(約36名) |
l 先代 |
l 後陽成天皇 |
l 次代 |
l 明正天皇 |
l 陵墓 |
l 月輪陵 |
いよいよ江戸時代の天皇の主役登場だ。幕府が江戸に開かれ、まだ、その基盤が確立されていない中で、幕府にとっては京都の朝廷対策は最重要事案であった。家康は硬軟交えて施策を考えていた。それが金地院崇伝の献策で「禁中並びに公家緒法度」に集約され、結果朝廷の独自政治力は大きく削られた。
一方将軍秀忠の娘、和子を天皇の御台所として御所に送り込んできた。そのいずれもが後水尾天皇の逆鱗に触れる。
ここから話が始まる。
因みに、後水尾の水尾とは、京都の三尾(高尾・栂尾・槙尾)に加え、愛宕山の南山麓を水尾と呼び、清らかな水が湧き出ていた地域で、平安初期の天皇である清和天皇がこよなく愛した地域である。従って、清和を水尾天皇とも呼ぶ。それにあこがれた天皇が後水尾天皇で、その思いが強く天皇は生前にこの諡号を希望したのである。まさに御意思の強い天皇である事がうかがえる。
加えて、父後陽成天皇と生涯不仲であった事も、有名だ。
その事で、先ほどの清和天皇の息子が陽成天皇であったにも関わらず、父に後陽成の諡号を送り、自らはその親の後水尾を希望する父子逆転の命名を行った。その執念たるやすさまじい。因みに平安時代の陽成天皇は心身尋常ではない狂乱の天皇であったとされる。その天皇の諡号を父に贈った。
恐ろしい・・・・。
続く
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