「光格天皇とその時代」 論文掲載 令和2年2月8日
序章
令和の新しい時代が始まり4年が経つ、その間多くの研究者が「天皇」「皇室」についてコメントしている。中でも、光格天皇については、現皇室の直系の祖であるという事からしばしば話に出て来る。しかし、江戸時代の天皇については、始まりの後水尾天皇と、幕末の孝明天皇のお二人は印象深いが、途中はあまりイメージがわかない。そこで、この度、光格天皇を研究することで江戸時代における天皇・皇室について自分なりの理解を得たいと思った。
☆光格天皇登場
本論に入る前に、光格天皇登場までの時代背景を簡単におさえる。後陽成天皇が子の後水尾天皇に譲位したのが、慶長16年(1611年)であり江戸時代の天皇の歴史はここから始まる。
「禁中並公家諸法度」の発布が、慶長20年(1615年)である。その後天皇は、4代に亘り後水尾天皇の皇子・皇女が継ぐ時代が続き、85歳まで長生きした後水尾上皇は霊元天皇の途中まで院政を敷き強い影響力を発揮する。その霊元天皇も79歳の長寿で、孫の桜町天皇の途中まで約45年間上皇(院政)として皇室を率いた。霊元天皇の皇子の東山天皇の即位が貞享4年(1687年)で、それ以降比較的早世の天皇が続き、上皇となられるのは、事実上、後桜町女帝までいない。かろうじて直系で天皇を繋いで、後桃園天皇崩御の安永8年(1779年)をもって皇統の危機をむかえる。以上は、(講演会「近世天皇の即位儀式と本学図書館の貴重書」若松正志氏 2019年11月12日)
また、光格天皇登場の直前に、「宝暦事件」と「明和事件」という事件があった。いずれも竹内式部や山県大弐などの国学者が、朝廷の権威や地位の復権を目論んだ事件で、朝廷の権限の回復を目指そうとする若手公家衆が先導したものである。これは18世紀半ばにおいて、明確に幕府と朝廷の在り方について、ある種の変化が生じていて、天皇・朝廷に期待が高まっていたものである。以上は、『幕末の朝廷』(家近良樹 中公業書 2007年)を参考にした。
さらに、家近氏は、飛鳥井雅道氏の研究を紹介し、節分などの御所内侍所での宮中行事に民衆が、禁裏に自由に出入りし賽銭を上げていたことをあげ、天皇への「庶民の民族的信仰」から、天皇が、政治的権威として上昇するに至るという見通しを述べた事を、「江戸中期において天皇・朝廷が将来の飛翔に向けて胎動し始めた。」と、考えた。
そのような時代の中に、図らずも「不測の天運」に導かれ光格天皇が登場する。
第1章 ☆天明7年(1787年)の御所お千度参り
光格天皇の時代を前期(即位から御所千度参り・寛政度御所再建・尊号一件まで)中期(本格的復古への取り組み)後期(譲位後の文化的功績と天皇号復活)とし、まずは、「御所千度参り」を詳しく調べる事で初期の光格天皇が君主思想(帝王学)をどのように学び実践したかを考察して見た。
その結果、①「お千度参り」は、当時、普段からの御所と京都の民衆の関りからすると極自然なことであった。(つまり朝廷の存在が現在より圧倒的に身近なものであったこと)②光格天皇17歳のことであり、叔父の関白鷹司輔平が主体的に動いていたこと、また義理の大叔母である後桜町上皇の影響が伺え、光格天皇の実像には十分には迫れなかった。③一方、天皇を「生神視」する尊王思想の台頭傾向が見受けられた。以上3点が判明した。
従って、その後の「寛政度御所再建」と「尊号一件」を詳しく研究することで、さらに「光格天皇とその時代」の実態を探る。
108代 | 後水尾天皇 | ごみずのお | 1611年 | 徳川秀忠の子である和子が入内した |
109代 | 明正天皇 | めいしょう | 1629年 | 徳川秀忠の外孫 |
110代 | 後光明天皇 | ごこうみょう | 1643年 | |
111代 | 後西天皇 | ごさい | 1654年 | |
112代 | 霊元天皇 | れいげん | 1663年 | |
113代 | 東山天皇 | ひがしやま | 1687年 | |
114代 | 中御門天皇 | なかみかど | 1709年 | |
115代 | 桜町天皇 | さくらまち | 1735年 | |
116代 | 桃園天皇 | ももぞの | 1747年 | |
117代 | 後桜町天皇 | ごさくらまち | 1762年 | |
118代 | 後桃園天皇 | ごももぞの | 1770年 | |
119代 | 光格天皇 | こうかく | 1779年 | 生前退位をした(1817年5月7日) |
120代 | 仁孝天皇 | にんこう | 1817年 | |
121代 | 孝明天皇 | こうめい | 1846年 | 天然痘が原因で35歳で逝去 他殺説もあり。 |
江戸時代の天皇一覧
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