アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

842 あちゃこの京都日誌 戦う天皇たち 光格天皇  ⑥

2021-05-08 09:19:47 | 日記

⑥ 譲位後の院政と追号・諡号

Q&A】 天皇の退位と即位、あなたの疑問に答えます - BBCニュース生前退位の先例となった。

光格天皇は、文化14年(1817年)に譲位し上皇となった。ちなみにその後生前に譲位する例が今日までなく、今回の平成天皇の退位を切っ掛けに光格天皇が話題となった。時に47歳となっていたが、さらに23年間、院政を行う。光格天皇の復古活動の締めくくりは、院政の復活だった。しかし、平安の昔に白河上皇が始めた「院政」であるが、それは院庁(いんのちょう)を設けて朝廷政治の主たる決定権を発揮するものである。一方、光格院政は全く違うものであった。現代に例えると、以前の院政は「代表取締役会長」のようなもので、社長は引退したものの会長室ですべての施策は決定するものである。一方、光格上皇の院政は、「代表権のない相談役」と言うべきだろう。重要事項については天皇から相談を受けるが、成人した子である仁孝天皇があくまでも朝廷政治の主導権をもっていた。ただ、在位が長く圧倒的存在感の光格上皇には自然に多くのことが事前に相談された。そういう意味では実質的には決定過程に関わっていたようだが、あくまでも統治権は子に譲っていた。

では何故、院政にこだわったか。一つは現代で言う定年としての天皇の引退を重視したこと、またさらに文化的復古活動に専念したかった、などが考えられる。実際に、修学院離宮にしばしば行幸したり、後水尾上皇の遺徳を偲びながら余生を楽しんでいる。そして、遂に天保11年中風の発作が原因で崩御する。後水尾上皇には及ばなかったが、70歳の長寿を全うした。

 

光格天皇の本当の最後の戦いは、天皇号である。ここでは諡号と追号、天皇号と院号を理解せねばならない。まず、桓武とか光格、光孝というのは、諡号であり生前の功績を称えた言わば美称である。一方、追号は、醍醐・冷泉など天皇に因む地名などをつけたもので美称ではない。例外的に、崇徳や安徳のように怨念を生む懸念があった場合には特別な尊号を贈った例がある。しかしいずれも院号であり天皇ではない。村上天皇を最後に子の円融院からは、単に院号を贈っている。その後この時まで、諡号も天皇号もなかったのである。我々は便宜的に、後醍醐天皇とか後水尾天皇とか言っているが、当時では後醍醐院、後水尾院と言っていた。その意味では極位にありながら、国民の戒名と変わらず院号だったのである。因みに、将軍家斉は「文恭院」であり将軍も天皇も同じ扱いだ。

実際は、子の仁孝天皇が贈ったものだが、光格上皇が生前からその復活を強く望んでいたことは間違いがない。当たり前に使っている天皇号だが、平安時代後半以降、鎌倉・室町・江戸時代と使用されていなかったことを考えると非常に違和感がある。なお、光格もそうだが、仁孝など二文字自体に意味はない。(もちろん一文字ずつには深い意味が込められているが)年号と同じである。また、現在は年号と天皇号の名が同じなので、諡号というべきかと思う。今回のコロナ騒動で、改元の議論が出ているが天皇の諡号と共に議論すべきである。

徳川家斉の性格、特徴、趣味、嗜好や女性関係などの雑学的プロフィール11代将軍 家斉

この章の最後に象徴的エピソードを書く。光格天皇譲位後、文政10年(1827年)に将軍家斉が太政大臣に昇進している。その時の仁孝天皇の「御内慮書」が残っている。それには、「徳川家斉の文武両面にわたる功労はぼう大である。」とし、将軍在位40年に及ぶあいだ、「天下泰平を維持し、将軍の徳はくまなく行き渡っている。」と称え、その功績を理由に、武官の長である征夷大将軍に加えて、「文官の長である太政大臣に任じたい。」とした主旨を書いている。歴史上はじめて生前に幕府将軍職と太政大臣をともに給わるという栄誉である。これを見れば、誰が読んでも朝廷が幕府に申し入れ、それを受け入れた結果としか思えない。しかし、近年の研究で事実は、将軍家斉が天皇・上皇に「おねだり」したもので、しかもあくまでも朝廷が決めたことにして欲しいというものであったことが分かった。さらに、一度は、「御辞退これあるべし、再応のうえ御請け」と、ご丁寧に一度は「断る振り」をすることまで打ち合わせしている。家斉が、「随分と遠慮がちな、謙虚の美徳を備えた人物」と見えるようにしたのである。重要なのは、この結果、朝廷が幕府に恩を売ったことになり、その後幕府から経済的援助や新たな朝議の再興を引きだすことに成功し実を得ていることである。これは光格上皇から仁孝天皇の時代には、すでに朝廷は幕府と対等かむしろ有利な駆け引きを行っていることを示している。「御所千度参り」の時に、恐る恐る幕府の機嫌を気にしながら交渉した時とは、大きく朝幕関係は変化している。

終身制”は変えず特例法で:天皇退位実現までの経緯 | nippon.com

このように光格天皇の戦いは、武力を行使せず、したがって死者が出るわけでもなく静かに深く続いて来た。遂に朝幕関係を逆転し幕末の朝廷主導の政治体制への画期となった。そして、現代に続く朝廷の儀式や習慣の復興と新常識を構築した。言うまでもなく血統としても今の皇室の直系の祖となっているのだが、上皇という地位や儀式も現平成上皇陛下が見習ったことは間違いがない。我々は、光格天皇とそれを訓育し援助した後桜町天皇という偉大な二人の天皇の、人徳と戦略のお陰で皇室の存続と発展がなされた事を知らねばならない。

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841 あちゃこの京都日誌 戦う天皇たち 光格天皇  ⑤

2021-05-07 09:46:47 | 日記

⑤ 朝儀復興と文化的継承への戦い  「天下万民を先とし、」

蘆山寺・慶光天皇蘆山寺陵がある。

 

 このように光格天皇の即位直後の3事件を通じて、天皇が幕府と対等の関係を獲得していく過程がよく分かった。つまり武器は持たないが天皇の戦闘能力の向上とも言える。

一つ象徴的なエピソードを書く。当時、松平定信の「寛政の改革」の節約令は朝廷にも影響していた。しかし、「この節御省略の儀仰せ出さる。」と、ある公家の日記に書かれてあるように、幕府に関係なく朝廷では光格天皇の独自の判断で倹約に努めていた。従って寛政2年、幕府の指示が来た時も関白始め側近は、「恐れ多い」として光格天皇には伝えなかった。翌寛政3年になって幕府から一定の成果が出て余剰が発生したとして、「給物(たまわりもの)」を配ると言って来た時、初めてこれを聞いた光格天皇は、「幕府の指示で倹約したのではない。」と、激怒し「会釈(えしゃく)」(褒美)はあり得ないとした。関白がこれを京都所司代に伝えたところ、時の所司代は大いに恐縮し切腹もやむなしと覚悟した。それを聞いた天皇は、憐憫の情をもってかろうじて受け取りを許した。結果、幕府所司代は自らの不行き届きだとして、「以降このような時は事前に相談してから行う。」と約束している。この事は、大きな意味がある。光格天皇以前にはあり得ない事で、すでに天皇の意向を無視してはならない空気感が幕府にあった決定的証(あかし)である。まことに痛快な逸話である。

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令和の御世の大嘗祭(天皇皇后両陛下)

そして、この頃から譲位するまで、多くの「朝儀再興の戦い」に勝利を続ける。まず、大嘗会の復古復活だ。新天皇の即位後最初の新嘗祭である大嘗会は、天皇の神秘性を獲得する朝廷では最も重要な儀式である。江戸中期、東山天皇の時代に復活していたが、十分に古式に則ったものではなかった。それをしっかり復古復活したのである。当然、莫大な資金援助を幕府から得なければ出来ない事である。また、石清水八幡宮と賀茂社の「臨時祭」の再興などを果たしているが、これは応仁の乱以降全く途絶えていたもので、このように100年・200年を経て再興した儀式は枚挙にいとまがない。いずれも、朝廷自らの権威を高める為のものだが、根底には「国家と人民の安寧」を願ったものであることは間違いない。

そのような光格天皇の君主意識は、大叔母にあたる後桜町上皇が訓育の為に何事か教訓を与えた時の返書に現れている。「仰せの通り、天下万民をのみ慈悲仁恵に存じ候(中略)何分自身を後にし、天下万民を先とし」と言い、いつも天下万民を意識している。女性であり人徳豊かな上皇の教えは重要な要素だが、光格天皇自身のこの様に強い君主意識はどの様に構築されたのだろうか。

大江磐代君(おおえいわしろのきみ) - 倉吉観光情報公式ホームページ実母磐代君を祀る神社(倉吉市)

因みに、閑院宮典仁親王と実母磐代君という血筋でつながったお二人の両親の人間性を調べてみた。資料は少ないが、誠に孝行心の篤い人柄を感じる。父典仁親王にとって尊号事件は、正に当事者である。それにも関わらず一切発言は残っていない。その他政治的影響力を発揮した形跡もない。自分の子ではあるが時の天皇への配慮を強く感じる。ひたすら文化的継承に努め、親王宮家の血統の維持に努力した人生であったようだ。なお、明治維新後、尊号を与えられて慶光天皇という。また、実母磐代君(いわしろぎみ)は倉吉の出身で身分は低い為、形式上の母は後桃園天皇の皇后近衛維子で、その実態は長く歴史上の記録からは消されていた。倉吉博物館所蔵の「大江磐代君顕彰展 図録」にわずかに残る「手書きの書状」には、自らの母や子に対しての細やかな気遣いが伝わる豊かな人格がうかがえる。また、皇室につながる子を産んだことへの戸惑いを述べている。一方で幼くして亡くなった他の子への悲しみを控えめながらも伝える母の愛情を強く感じる文面である。現在は地元倉吉で、国母として神社に祀られている。一方、光格天皇は、崩御後、生前親孝行も出来なかったからと、両親の眠る蘆山寺に自らの位牌も並べるよう遺言している。ホッとする話だ。

 そして、光格天皇の戦いは譲位後さらに崩御後も続く。

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840 あちゃこの京都日誌 戦う天皇たち 光格天皇  ④

2021-05-06 09:14:57 | 日記

 ④ 尊号一件 天皇の願いは叶わなかったが戦いは大勝利?

閑院宮典仁親王 - Wikipedia

 写真 ウキペディア 閑院宮典仁親王 

 尊号事件とは、光格天皇の実の父君である閑院宮典仁親王が、天皇の実父でありながら朝廷での席順が、古来より三公(※)の下であり、さらに、「禁中並公家諸法度」によってそのように定められていたことを光格天皇が問題視したことだ。これを解決するためには、禁中並公家諸法度の改定か典仁親王に尊号を贈るしかなかった。尊号とは、太上天皇の事で、普通は譲位した後の天皇に与えられるものである。因みに天皇にならず尊号を贈られた例は2例しかなく、承久の時代の後高倉院(守貞親王)が、子の茂仁親王が後堀河天皇になったことで贈られた例(第1章参照)と、南北朝時代に北朝の後崇光院(貞成親王)が、後小松天皇の猶子となり子の彦仁親王が後花園天皇となったことにより贈られた2例のみである。光格天皇は、前例があることを理由に執拗に幕府に対して尊号宣下を許可するよう迫ったのである。強硬な交渉という言わば戦いと言うより、執拗な心理戦が繰り広げられた。

光格天皇 - Wikipedia光格天皇 ウキペディア

引き続き藤田覚氏の『光格天皇』を中心に見て行くと、光格天皇は、即位後早い段階から尊号宣下への強い思いを示されていて、天明2年、天皇12歳の時にその意向を表明されている。天皇が幼い事もあり、幕府は事実上無視した。そして、寛政元年2月、天皇の意思を受けて武家伝奏(※)が京都所司代に伝え、さらにそれを江戸老中に伝わった事で、遂に表向きの戦いが始まる。寛政元年は光格天皇19歳の時である。

蘆山寺 閑院宮輔典親王の墓地がある。

この事件で注目すべきは、「寛政度御所再建」の時以降、関白鷹司輔平と老中松平定信がしばしば書面でやり取りしている事である。従って、この時までの光格天皇の様子はかなり定信に伝わっていたようで、幕府(定信)は、予期していたように早々に体よく拒絶している。以降幕府は同様の回答を繰り返す。

遂に、寛政3年8月、天皇は関白輔平を事実上解任する。交渉における天皇への御不興を被った形で辞職に追い込んだのだ。後任は幕府に不満を持つ一条輝良となり、その直後、光格天皇は自ら参議以上の諸公卿に諮問(勅問)した。今で言うアンケート形式の答申の結果は、反対は2名だけでそれはすでに前関白となっていた鷹司輔平親子のみだった。一方、賛成派は、「その鼻息概して荒きもの多い。」という状況だった。光格天皇はこの結果、一層その意を強くしたのだ。

その天皇の強い戦いの意志に対して、定信は最終判断を迫られる。京都所司代に返答し、「もし、宣下の儀(強行)すれば、関白・議奏の類は誅罰取り計らう。そして閑院宮にはご辞退いただく。」こと、つまり、無理に行えば関白始め天皇周辺の公家を罰する事、さらに父君である閑院宮ご本人には自ら辞退していただくと通告してきた。そしてそれは「極意の事なり」と強い意志を伝えて来た。それでも、光格天皇は武家伝奏を通じて京都所司代に宣下を強く督促する。その内容には、父閑院宮典仁親王が、「昨年冬に中風を発症し改善しつつも此の節再び発症した。」ことを伝えて、尊号宣下の件を「猶更御心急ぎに思し召され候」と、閑院宮の高齢(59歳)と病気を理由に天皇の本気度と焦る気持ちを伝えている。しかし、すでに方針を固めていた幕府はこれに対しても、肝心の返事はしなかった。そこで遂に、朝廷(天皇)は期限を区切り高圧的に尊号実行を宣言した。宣戦布告のようなものである。それに対して幕府は、尊号宣下について議論するより、尊号論の天皇側近の巨魁・急先鋒を江戸に呼び出し、それを処分する方針を決める。

 ここに至り遂に、やむなく朝廷(天皇)は尊号宣下を見合わせる。光格天皇が、「万斛の恨みを呑む。」その代わりに、処罰されるであろう3卿の江戸下向の拒否で、「御憤懣の万が一を癒させ給う。」としたもので、つまりは尊号宣下のみを諦める事で決着しようとした。また、ここで後桜町上皇が、側近を通じて、「御機嫌よく、穏やかに、御代御長久に在らせられ候が、第一の御孝行さまと覚しめし候故」(機嫌よく穏やかに長く天皇の勤めを果たすことが親孝行ですよ。)と、間接的ではあるが光格天皇を諭している。光格天皇への後桜町上皇の関係性と影響力の大きいことが分かる。

結果として、光格天皇の願いは実現せず戦いは敗北したように見える。しかし、いくつか注目点がある。まず定信の出方である。彼は尊号事件については、朝幕関係の問題であり幕府の許可を得ず尊号宣下を強行すれば、承久の変で後鳥羽上皇を処分したような最悪の事態も致し方ないと考えていた。尊王心の強い彼でも全面戦争を覚悟していたのである。つまり、幕府が認めないと言っている尊号宣下を強行するという「諸法度」違反を危険視したものだった。要は、光格天皇を戦う相手として手強いと警戒したのだ。

 

さらには、3名の公卿に処罰を与える時に「解官」(※)の手続きをせず処罰した際の、「天下の人は皆王臣、武家も公家も同様である。」という考え方を示した。これは、天皇と大名の間の君臣関係を幕府自らが認めたことになる。これにより、以降幕府は「最大限に朝廷を崇拝」することが必要となって行く。そのように朝廷への崇拝を通じて「幕府の威光・威信を維持せねばならないこと」となった。すでに定信は、天皇の地位を「天皇は人民の親であり、国家と国民の興廃に関する地位である。」と解釈していた。さらに、将軍家斉へ示した「御心得の箇条」には、「将軍は人民の生活する国土を天皇から預かり征夷大将軍として統治している」としていたのだ。つまり、幕府が天皇こそが国土と国民の真の支配者だと解釈したことになる、これは、幕末の勤王の志士たちの考え方であり、「大政奉還」の論理根拠になるものである。以上のように光格天皇は思想内面的には、大勝利したことになる。

 なお、最終的には、3名の公卿は「閉門」と「逼塞」という重い処分となったが、その後、「中山大納言物」という史実とは違って、処分された中山愛親が将軍の前で自説を述べて論破するという読み物が出回っている。幕府と言う権力者の鼻を明かすという庶民(読者)には痛快な読み物が流行ったのである。当時の朝廷への庶民感情が伝わる。武力を行使しない戦いは続く。

 

 

※ 三公とは、太政大臣・左大臣・右大臣のこと。従来から親王より上位に位置付けられていた。

※ 武家伝奏 室町~江戸時代に武家から朝廷に願い出ることを伝達奏聞する朝廷の役職名。江戸時代には定員2名で,納言,参議から選任された。慶応3 (1867) 年廃止。

※ 解官(げかん) 現職の官人が解任されることだが、高級公卿の場合処分を下す前に、朝廷による解官の手続きを経たうえで、平民として処分するのが慣例であった。

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839 あちゃこの京都日誌 戦う天皇たち 光格天皇  ③

2021-05-05 08:59:47 | 日記

③ 寛政度御所再建  思想的背景という武力を徐々に備えて行った。

京都御所 - Wikipedia

現在の御所は寛政の再建をもとに建てられた。

 天明8年(1788年)御所千度参りの翌年に、京都中心地で大火事があった。後に天明の大火(団栗焼け)と呼ばれる火事で、御所は全焼する。その御所を、財政上の理由から小規模の再建で済まそうとする幕府に対して、平安時代の古式に則って大規模に再建したいという朝廷の意向が対立した。結果は、朝廷の主張通りになった件である。

ここから光格天皇が具体的に戦う相手として、老中松平定信が重要な人物として登場する。「寛政の改革」の推進者として緊縮政策を進める彼は、御所造営については小規模で臨時的仮御所程度に留める意向であった。天皇の実の叔父、関白鷹司輔平との交渉を通じて以下の2点が明確になる。

松平定信 - Wikipedia松平定信

まずは、天皇がいよいよ自らの考えを積極的に発言し、親政の第一歩を歩みだしたという事だ。さらに、天皇の朝議復興と権威回復への並々ならぬ強い思いが明確になった事だ。大火後早々に、朝廷(天皇)は、4月1日には裏松光世に対して正式に諮問をしている。つまり光格天皇から(御所再建には)「古儀」を用いる事への「勅問」が下され、それに対して「御尤」(もっともである)とされたのが4月3日で、朝廷では早い段階で平安朝の古儀を用いた新内裏建設は決まっていたのである。すぐに4月中には幕府に伝えている。朝幕間の見解の決定的対立の中、5月には、定信が上京し輔平と交渉の会談に至っている。この一連の素早い対応を見ていると光格天皇にとって、御所再建の戦いは、朝議祭祀の再興や復興・朝廷権威強化の努力の一環である事がよく分かる。また、天皇の親裁については、関白鷹司輔平が老中松平定信に送った書状に、「天皇が早くから近臣を補佐にして諸事を親裁する。」という朝廷の状況を詳しく書き送っていることで分かる。

尊皇論者・竹内式部の像(にいがた百景)竹内式部

ここで注目したいのは、御所建設の設計図を書いた裏松(光世)固禅である。実は、光格天皇登場の直前に、「宝暦事件」と「明和事件」という事件があった。いずれも竹内式部や山県大弐などの国学者が、朝廷の権威や地位の復権を目論んだ事件で、朝廷の若手公家衆が先導したものである。裏松固禅は有職故実家だったが、竹内式部などと交際があり、※「宝暦事件」に連座し処分を受け永蟄居を命ぜられ出家した。しかし、その後の30年の蟄居生活の間に『大内裏図考證』を書いていた。まさに執念が実り、御所再建にあたりそれが採用されることとなった。彼はその功により、勅命により赦免される。つまり、これはこの頃、幕府と朝廷の在り方について、はっきりとある種の変化が生じていて、天皇・朝廷に期待が高まっていた証である。一方、幕府は政権の権力維持・回復の為に、むしろ朝廷の権威を認めて大規模再建の要求をのむことを選択したのである。戦いは高次元のレベルで激しく行われていた。

光格天皇は、武器は持たないが思想的背景という武力を徐々に備えて行ったのだ。

 

 

※ 宝暦事件(ほうれきじけん)は、江戸時代中期に尊王論者が弾圧された最初の事件。首謀者と目された人物の名前から竹内式部一件(たけのうちしきぶいっけん)とも呼ばれる。

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838 あちゃこの京都日誌 戦う天皇たち 光格天皇  ②

2021-05-04 09:56:57 | 日記

②            御所千度参り

ぶらり京都-179 [京都仙洞御所] - 御所千度参り - : 感性の時代屋 Vol.3

「お百度を踏む」というと、特定の神仏に「百度」参詣して祈願し「ご利益(ごりやく)」の実現を一層強く願うものだ。平安末期から始まった参詣形態らしく、始めは「毎日百度(百日)」行ったのもが、後には「一日に百度」参る形式になったらしい。一度二度より百度参ることで、「信仰心の篤さ」と「祈願の切実さ」を訴える事で、神仏の加護をさらに確実なものにしたいとの願いである。「御所千度参り」は、それが「御所(天皇)」を神仏に見立てて、「百度参り」よりもさらに強力な「千度参り」として出現した江戸時代後期に突然起こった画期的事件である。

京都御所 - Wikipedia

当時、天明の大飢饉を発端にした米の高騰から、「打ちこわし」や「一揆」が全国的な広がりを見せる中、天明7年(1787年)6月頃、どこからともなく、誰が言うともなく当初100人ほどが御所の周りを「お千度参り」と言って巡り始めた。その後京都以外からも年齢・性別・身分の別なく参加するようになり、遂には紫宸殿に面した南門や清涼殿正面の唐門前などに賽銭(投げ銭)する者も現れた。賽銭を包む紙には「願い事」などを書いていた。当初は幕府から差し止めの要求があったが、光格天皇の指導役でもあった女性の後桜町上皇から、「信心でやっているのでそのままに」との指示が出る。さらに朝廷は酷暑の時期なので、御所周辺の溝をさらえてきれいな湧水を流して使わせたりもした。また、公家衆からはお茶の接待などあり、さらに後桜町上皇からはなんとリンゴ3万個などの差し入れが行われる。全国的には打ちこわしなどの騒動が起こっている物騒な中、京都はこのように御所へ粛々と千度参りするという「平和的なのは悦ばしい事だ。」と噂されたという。そのうち、米価も下がって千度参りもおさまったという。

後桜町天皇 - Wikipedia後桜町上皇

以上が、大まかな「御所千度参り」の経緯だが、光格天皇は幕府とどう戦ったか。藤田覚氏『光格天皇』を参考に見て行く。まず、後桜町上皇と相談し関白の鷹司輔平(実の叔父)を通じて京都所司代(幕府)に対し何か対策出来ないか、その交渉をする方法を考えるよう指示している。それに対して、関白は参内した所司代に直接口頭ではなく「書付」として恐る恐る手渡している。幕府はすでに対応していたものの、朝廷の配慮を理解し、さらに「救い米」を放出し不足なら追加するように手当している。実は、この様に窮民救済を朝廷が申し入れて幕府が応えるというのは、「それ以前にない異例の事態。」なのであり、これは当時の統治体系である大政委任論を覆すことであった。

さらに事件の後半には「御所千度参りは天皇への直訴」に変化した。しかも天皇は「不憫のことなので追い散らしもうしまじ」と参加者に深い理解を示した。その事でまた参加者が増えるという事態になっている。このように庶民が「千度参り」という宗教的な形をもって天皇や朝廷に直接行動し、しかもそれを受けて、朝廷・天皇が行動したという事は、江戸時代においては、朝廷は決して政治に一切の口出しをしない原則に反するもので、その時代においては、幕府に対する立派な戦いであった。また、その背景には庶民が一定の親近感をもって御所の存在を容認していた事も重要だ。文献を調べると、大嘗祭や即位式には、御所の中に入って来て、かなり近い距離で式典を見物していたらしいことが最近の研究で明らかになっている。天皇は、決して御簾の中の奥深い存在だけでもなかったのだ。特に、京都では幕府よりも御所(天皇)により崇敬の念をもっていたのかも知れない。

この「御所千度参り」は、注目すべき特異な事件ではあるが、武力も政治的権限も持たない光格天皇の戦いとしてはまだまだ序章に過ぎない。

 

※             江戸幕府が国内支配の正当化のために主張した理論で、将軍は天皇より大政(国政)を委任されてその職任として日本国を統治している、とするものである。

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