④ 春日の局 遂に幕府に宣戦布告した。
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従来からの通説では、差し迫った事情というのは、天皇の腫物による「鍼灸治療問題」だと言われている。腫物とは、腫瘍のことで民間では、「でんぼ・おでき」とも言う。現代なら外科手術で切除できるが、良性のものでも熱や痛みを伴ったりすると命の危険を伴い厄介なものだった。当時は、針灸がよく効くとされたが、玉体(天皇の体)には鍼灸はタブーとされた。従って、譲位して自由な身となって治療を受けたかったというのだ。後水尾天皇は、基本的にはとても健康だったのだが、腫物ができやすい体質だったらしく、よほど悩ましい状況だったのだろう。因みに、叔父の八条宮智仁親王が同じ病で死去している。
しかし、最近の研究ではそれは、譲位する「口実」であり、便宜的な理由でしかないという見方が有力だ。やはり本当の理由は前項で述べた「紫衣事件」である。しかし加えて、さらに許しがたい事件が重なった。それが「春日の局」参内問題である。以下、緊迫感ある経緯を時系列で書くと。
寛永6年 8月 幕府、天皇へ譲位の延期を要請
8月27日 和子女子出産(またしても徳川家血統の男子誕生の夢破れる)
これを受けて、家光の乳母「お福」を使者にして天皇の実情を伺いに派遣決定
10月10日 お福改め「春日の局」 天皇に拝謁し天盃を賜る
10月15日 後水尾天皇から土御門泰重に密命降る
10月24日 宮中で神楽 春日の局のみ見学(後水尾参加せず重大決心をする)
10月27日 土御門泰重に女一宮を内親王に叙すことでの調査指示
10月29日 女一宮(東福門院和子長女・明正天皇)を内親王に叙す
11月 2日 中院通村を大納言に昇任
11月 8日 公家衆に伺候命令 その場で譲位伝える。
以上の経緯を眺めると、そこまでの許しがたい状況に加えて、無位無官の武家の娘「お福」が幕府の使いとして参内することがきっかけになって、後水尾天皇がにわかに行動に移していることが分かる。因みに、お福とは、本能寺の変における明智光秀の第一の侍大将であった斉藤利光の子である。本来なら、「謀反人の子」なのだが、家光の乳母として大奥に揺るぎない地位を築いた女性である。簾内とは言え無位無官では天皇に拝謁できない為、急きょ「従三位春日の局 藤原福子」の称号を与えた。何故、これほど光秀ゆかりの人物を重用したのだろうか。「本能寺の変」を徳川家康の陰謀とする説は、このような事実から出ている。話を戻す。従来なら、このような重大決定は幕府に許可を取るか、せめて事前に伝えなければならない。その様な手続きも飛ばしている。
遂に、幕府に宣戦布告したようなものだった。最後は、一人の公家とも相談せずおひとりで決断したようだ。しかし、もっと許せないことがあった。