アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

988回 あちゃこの京都日誌  新シリーズ「新天皇国紀」㊸

2023-03-08 09:35:28 | 日記

⑤         高氏との関係「尊氏の人物像と後醍醐との関係」

足利尊氏とはどんな人物? どこで幕府を開いた? 家系・性格 ...尊氏とされる肖像

足利尊氏は、天皇から後醍醐天皇の諱である「尊治」の一文字を下賜されて「尊氏」と名乗った。従って、建武政権当初の二人は良好な関係であったことは間違いがない。鎌倉で幕府を倒したのは新田義貞だが、倒幕の第一功労者は尊氏その人であった。しかし、歴史的に尊氏の評判は最悪だ。幕府執権の北条家の一族に連なる足利家は、北条得宗家に次ぐ待遇を受けていた名門であった。しかも源義家を源流に持つ源氏の総帥でもあった。(そのあたりは諸説あり怪しいが)要するに北条家を除くと一番幕府に近い家柄のはずだったのだ。それが裏切ったのだ。足利家菩提寺「鑁阿寺」に残っていた※「願文」には三代後には天下を束ねると書いてあり尊氏がその三代目であったとか、当時の征夷大将軍は宮将軍(皇族から将軍を迎えていた)だったのでそれを狙ったとか諸説あるが、裏切った事実は間違いない。さらに、その後、後醍醐とも決別し北朝を立てるが、それも一時裏切る。最後は最愛の弟直義を裏切り殺害する。

話を建武政権に戻す。鎌倉幕府崩壊後、尊氏は、最後の執権と言われた高時の遺児時行(ときつら)の反乱である「中先代の乱」の鎮圧の為鎌倉に転戦後、後醍醐の要請を受けて京都に戻る際、弟直義に「京都は危ない。殺される。」と進言され出家し籠ってしまう。その後、あろうことか足利討伐の院宣を受けて新田義貞が鎌倉に攻め込んできた時、劣勢の弟直義を見殺しに出来ないと再び出陣する。このように数々のエピソードや経緯を見て行くと英雄のかけらもない。歴史的研究でも、優柔不断なところが多く、八方美人とも言われている。室町幕府設立という武家社会の英雄なのだが、計画的に物事をすすめ「野望」を「勝ち取った」とは到底思えない。それでも後醍醐政権である建武政権の一番の侍大将は尊氏だったし、そのままでもいずれ征夷大将軍の称号も望めたかも知れなかった。

実際、後醍醐天皇はかなりの数の御家人を登用している。結果として、お二人とも時代の英雄なのだが、時代を見通す眼力とバランスある政治力を有していれば二人の関係性には違う姿もあったのではないか。また、素朴な疑問として後醍醐天皇が完全に武士を敵視するのなら尊氏に諱を与えるほど重用しないだろうとも思う。後醍醐天皇は、持明院統の背後にある鎌倉幕府を敵視したのであって、武士そのものを敵視したものではなかったのではないか。

 

※       八幡太郎源義家が「自分は七代の子孫に生まれ変わって天下を取る」という内容の置文を残している。義家の七代の子孫にあたる足利家時は、自分の代では達成できない事を悔い、八幡大菩薩にさらに三代後の子孫には天下を取らせよと「願文」を残して自害した。三代の子孫とは足利尊氏・直義兄弟だ。

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987回 あちゃこの京都日誌  新シリーズ「新天皇国紀」㊷

2023-03-07 11:23:41 | 日記

④         建武の新政「狂気の政権だったか。」

後醍醐天皇と吉野 | 深掘り!歴史文化資源 | 奈良県歴史文化資源 ...の画像後醍醐天皇

 さて、今回のテーマは「いかに皇統をつないだか」である。従って、何故後醍醐は倒幕にこだわったかを書いて来たが、その前に「建武政権」と「足利高氏」について考えなければその真相にたどり着けない。

 まず、建武の新政のイメージというものは、「後醍醐天皇が、時代に合わない非現実的な施策を独裁的に行った。」「公家に厚く武士に薄い論功行賞だった為、武士に不満がたまった。」という政治的な批判や、「怪僧文観をそばに置き妖術を駆使した異形の天皇だった。」というのも代表的印象だろう。これはやはり、『太平記』の影響が大きいと思われる。この「太平記史観」により、後醍醐は三種の神器を保有する正当な君主であるが、暗愚で不徳の天皇で自らの血統で皇室を独占したいと考えた。それを必死に支える「忠臣」の存在が、日本人の精神構造上「判官贔屓」のようなものになって、新田義貞や楠木正成という英雄を生んだ。さらに、不公平な恩賞配分、無謀な内裏建造計画、御家人たちへの重税などの批判が、現代までの普遍的イメージとなったものだ。

 また、『神皇正統記』を記した南朝の重鎮である北畠親房や子の顕家でさえも、建武の新政については強く批判をしている。さらに、江戸時代に入って「正徳の治」として有名な新井白石なども、著書の中で他と同様の厳しい評価を下している。それが明治になり「皇国史観」のもと、南朝を正式に正統と定め、さらに楠木正成を「大楠公」と崇め、建武の新政の失敗を「逆賊」足利尊氏の悪行に責任を押し付けても、後醍醐への批判的見方は太平記史観の域を脱せなかった。

太平記』(平岩 弓枝)|講談社BOOK倶楽部講談社

 そして、太平洋戦争以降、一時隆盛を極めたマルクス主義的思考方法が歴史研究にも波及し、建武の新政は、古代への復古を目指した「反動的政権」と見なされた。加えて、網野善彦氏が『異形の王権』論を唱えることで後醍醐の「異常人格」像が一層後醍醐のイメージを定着させることになった。また、亀田俊和氏『南朝研究の最前線(建武の新政は、反動的なのか、進歩的なのか?)』には、すべての研究は太平記史観の申し子であり、新政も後醍醐も正統には評価されていないとした。その根本は「同政権が短命に終わったという事実」の為、すぐに倒された政権は政策に間違いがあったという先入観がることを強調した。従って、「政権の寿命と政策の善悪は必ずしも比例しない。」と主張した。

 現在では、建武政権の諸政策を積極的に評価し、その先進性に着目する説が多く出されている。鎌倉幕府から室町幕府の中間に位置する建武政権は、決して反動的なものではなく政策的には連続したもので、むしろ建武政権の諸施策が室町幕府で花開いたとする見方も出てきている。

 後醍醐天皇像も、今後若手の研究者により決して「異形の天皇」ではなく生き生きとした生身の人間であることが見えて来るのかも知れない。

 

 

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986回 あちゃこの京都日誌  新シリーズ「新天皇国紀」㊶

2023-03-06 08:36:11 | 日記
  • 幕府の実情 元寇以降の幕府衰弱と各名門家の分裂

建武の新政イメージ

 さて、この間の幕府の事情を確認する。承久の変で完全に朝廷を抑え込んだ幕府だったが、鎌倉時代の中ごろに、結果として幕府滅亡に至る大事件が起こった。「元寇」である。文永11年(1274年)の文永の役、弘安4年(1281年)の弘安の役である。まさに、後嵯峨天皇から後深草天皇を経て亀山天皇に至る「両統迭立」の起因となった時点と重なる。幕府を揺るがす「萌芽が二つ」芽生えた時期であったのだ。元寇は、「神風」をもって守ったが、我々現代の人間は、その後元が衰弱することを知っている訳だが、当時の鎌倉幕府にとっては最大の政治課題が、「九州の防備」となった。外敵に対する備えは、内戦と違って勝者はいない。従って、論考行賞(ご褒美)がない。御家人たちは疲弊するのみであった。さらに、幕府の西国支配が強くなったおかげで、東国の幕府官僚たちが京都の公家との関りを持ったことは大きい。「国難」と言われた当時は一致団結したが、徐々に脅威が去り政治闘争の時代となり、それに朝廷内の2流派の争いが微妙に重なって来る。現在想像する以上に、東西の御家人の交流も増えたと考える。東国支配の鎌倉幕府、西国支配の朝廷という関係から始まった鎌倉時代は、中盤から大きく変化した。

 元寇からわずか50年後には、後醍醐天皇が登場し倒幕に至るのであるが、幕府支配は、将軍独裁(3代実朝まで)、執権の絶対権力(義時から時宗までか)、そして北条得宗家支配へと変化し、その取り巻きと北条家とは距離のある反北条家の御家人たちに分かれて行く。そして、放蕩執権高時が登場し完全に無力化する。有力御家人の離反が相次ぎ、「敵の敵は味方」とばかりに朝廷(後醍醐)に期待が集まる。足利高氏と後醍醐の合流はこのような背景の中で、誠に危うい、あやふやなものであった。

 また、源氏である足利家も新田家との確執があり、平氏である北条家も分裂に分裂を繰り返し、藤原家も皇室もそれぞれ分家を繰り返していた。収拾がつかないそれぞれの細分化した名門家を完全に統括する「聖主・賢王待望」の気運が高まっていた。『太平記』序文にあるように、「天の徳を体し、知の道に従う」ものが世を治め太平の世を迎えるのだ、という庶民感情も高まっていた。そこに現れた、延喜・天暦の時代(平安中期、醍醐天皇・村上天皇)の天皇親政を目指す後醍醐天皇に一瞬「聖主・賢王」の幻影を見たのかも知れない。

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985回 あちゃこの京都日誌  新シリーズ「新天皇国紀」㊵

2023-03-04 10:07:16 | 日記

②       倒幕の必要性  後醍醐の倒幕計画に時間の猶予がなくなっていた。

 

後醍醐天皇 - Wikipedia

さて、大覚寺統の後醍醐天皇は、持明院統の花園天皇から譲位されたが、大覚寺統内部では、後醍醐の異母兄の後二条天皇の皇子(邦良)へのつなぎの天皇と考えられていた。(系図①参照)従って、当時後醍醐は「一代(限り)の主」と言われた。政治的野望のある後醍醐天皇にすれば、自らが地位にあるうちに天皇親政を成し遂げる為には、持明院統に戻すわけにはいかず、その背景には幕府の存在が大きく立ちはだかり、必然的に「倒幕」が現実的になって来るのである。 

刀剣ワールド】護良親王(もりよししんのう)

そのあたりを、森茂暁氏『後醍醐天皇』から詳しく見る。系図を参考に理解したい。まず亀山上皇だが、この方は非常に魅力的な方であったようで、両親に可愛がられ兄の後深草から譲位をされて践祚した。本来なら天皇になれなかったはずであるが、さらに自らの子に譲位した。後宇多天皇である。さらに女性たちにも恵まれ、記録に残るだけでも16人の女性から23人の皇女・皇子を残している。高貴な方は子孫繁栄が最大の使命だから決して好色と言ってはならない。恋多き天皇だったのだ。とりわけ晩年の50歳半ばでできた恒明親王を何とか皇位につかせようと必死に動いた。政治力を駆使し持明院統とも幕府とも約束を取り付けた。しかし、その約束が実行される事はなかった。持明院統の伏見・後伏見を経て後宇多上皇は弟恒明ではなく自分の子の後二条天皇に即位させる。従って、冒頭に書いたように後二条の弟の後醍醐天皇に即位させても決してその後は後二条の子の邦良親王でなければならなかった。父亀山との約束を守らなかった後宇多にすれば、やはり実行されないかも知れないと危機感をもっていた。一方、後醍醐は実行する気は毛頭無かったのだ。因みに、邦良親王の妃は、後宇多上皇の皇女である。孫に自らの愛娘を与えるという念の入れようであった。読者にはこの複雑さがご理解いただけているだろうか。古代・中世の歴史はドロドロなのだ。

 そんな状況の最中に、後宇多・邦良親子が相ついで崩御する。すでに後宇多上皇の院政を停止させて自ら親政を行っていた後醍醐の敵は、持明院統とそのバックにある幕府だけとなった。早々に東宮(次期天皇)争いが起こって、邦良の同母弟、先にかいた後宇多の遺児恒明、持明院統の後伏見の子などが候補となった。そして両統迭立の原則で、新しい東宮は持明院統の量仁親王(光厳天皇)となった。当然、幕府にすれば大覚寺統内の分裂抗争も判断材料になったと思われる。

 ただし、後醍醐と父後宇多との関係は、近年の研究ではむしろ良好であったとの説が有力になっている。中井裕子氏『室町・戦国 天皇列伝』を参考に若干触れると、後醍醐の生母五辻忠子は、途中から夫である後宇多から舅(親)である亀山の寵愛へと移っていく。このあたりは現代では理解不能だが昔は性について大らかであったことを理解せねばならない。そのお陰で母を通じて遅まきながら後醍醐は宮廷内の地位が上昇している。しかも、父後宇多と同居していた時期もあり、兄の後二条同様に可愛がられ兄の死後は、大覚寺統に伝わる荘園の相続も受けていたのである。後醍醐が東宮(尊治)時代に荘園に関する決定を行っていたことを権力志向の強さとする説があるが、むしろ後宇多に信頼されていた証だという。それまでの通説は覆されつつある。

 いずれにしても、後醍醐の倒幕計画に時間の猶予がなくなっていたのは事実だ。

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984回 あちゃこの京都日誌  新シリーズ「新天皇国紀」㊴

2023-03-03 09:57:33 | 日記

第2章 後醍醐天皇

 

①         時代背景 両統迭立までの経緯

 

第88代「後嵯峨天皇」 |20人の天皇で読み解く日本史 | Discover ...

 

後醍醐天皇の登場までの鎌倉時代は前章と重複するが、承久の変以降の皇統の変遷から見る。後鳥羽上皇の御謀反(倒幕計画)の失敗で、当然鎌倉幕府は皇位の継承に関して神経質になった。後鳥羽上皇は隠岐へ遠島となり、皇子である土御門、順徳の両上皇も島流しとなる。ただ、お二人の皇子の立ち位置はかなり違ったものだった。積極的に倒幕計画を推進した弟順徳(佐渡へ遠島)に対して、兄土御門は終始関りがない。それでも土御門は自ら遠島を申し出て土佐に流され、その後阿波に移されている。

さて、変の後の天皇を誰にするかは、慎重に検討された。まず、順徳の皇子ですでに即位していた仲恭天皇は廃止(九条廃帝・承久廃帝とも言う)し、高倉天皇の血統にまでさかのぼりその孫にあたる後堀河天皇を即位させた。ところが、その皇子である次の四条天皇が早世した。再び後継問題が浮上する。承久の変の記憶がまだ残る幕府は、順徳ではなくせめて土御門の血統ならば許せるとし、後嵯峨天皇の即位と決まった。

この後嵯峨天皇が2系統の南北朝時代の原因である「両統迭立」のきっかけをつくる。個々の天皇の経緯は別項に書くが、天皇の継承も長子相続が原則とは言え、時には、兄より弟、本妻の子より後妻の子の方が可愛いのは庶民も天皇も同じである。特に年老いてからの愛妾に「最後の一滴?」で出来た子は別格だろう。その様なことが皇室ではとんでもない抗争を生む。後嵯峨天皇の後は、長兄の後深草(持明院統)、そして弟の亀山(大覚寺統)とつなぎ、それぞれの血統から交互に東宮(皇太子)を選んでいった。持明院統(大覚寺統)の天皇なら大覚寺統(持明院統)から東宮を決める。ただ、ややこしいのは天皇の実父が上皇として院政を行う。これを「治天の君」という。上皇であっても子が天皇でなければただの上皇であり、実際は「治天の君」が実権を持つので、両統迭立が単純に1回ずつ交互に行かないところがややこしい。

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