アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

983回 あちゃこの京都日誌  新シリーズ「新天皇国紀」㊳

2023-03-03 09:57:33 | 日記

次回は、以降それぞれのケースで問題点など整理すると、

皇室の構成図 - 宮内庁

  • 男系男子

日本の国体を維持するために考えた大原則である。唯一血統を即位の条件にし神秘性を保ってきた。男系とは父親を遡ると天皇に辿り着くとする。ならば、さかのぼるのは何代目まで許すのか?継体天皇は応神天皇の6世の子孫である。時代を経て江戸時代後期の光格天皇は東山天皇の4世である。このあたりが限界である。親子でなければ、あとはほとんどが親の親(つまりは孫)か、親の兄弟(叔父・めい)の関係性がほとんどである。

悠仁親王殿下が御健康に成人いただきご結婚後、無事男子をももうけることを望むが、年齢的に男系男子を残すことの出来るは殿下一人であることを考えるとあらゆる事態を想定せねばならない。ただ、現在でも戦後臣籍降下した3世・4世の元皇族男子はいらっしゃる。しかし、それら旧宮家の御子息たちはすでに長く庶民生活を経験し、自らの価値観もお持ちでいらっしゃる。従って、皇室にお戻りいただくにしても慎重な議論が必要である。因みに自らが皇室ご出身の竹田恒泰氏の著書には様々な打開策が紹介されているのでいずれ紹介する。

  • 男系女子

ここは愛子天皇待望論を考えながら議論する。男系女子の天皇は歴史上8名10代の例がある。特に奈良時代に多く、推古天皇持統天皇などは天皇のお后であった。あとは天皇の内親王が次世代へのつなぎとして即位している。平安以降は長くその例がなく、江戸時代になってお二人いらっしゃる。

まず、初の女性天皇である推古天皇は配偶者(敏達天皇)も父親(欽明天皇)も天皇である。皇極天皇(重祚して斉明天皇)は男系女子だが舒明天皇のお后で、持統天皇は父が天智天皇でさらに天武天皇のお后である。元明天皇は天智天皇の子で、そのお子が元正天皇であり父は天武と持統の子である。孝謙天皇(重祚し称徳天皇)は聖武天皇の子である。時代は下って江戸時代、明正天皇は後水尾天皇と徳川和子の内親王だ。歴史上最後の女性天皇の後桜町天皇は桜町天皇の内親王である。このように男系女子だけではなく皇后のケースや中には血族内の結婚などで血を守って来た。女性天皇を赤字を書いたがご理解いただけるだろうか。

大事なのは皇后でない限り原則お子様はいらっしゃらない事だ。さらに多くは配偶者も持たない。神秘性の強い皇室行事には「穢れ」は禁忌であり生理や出産は避けねばならなかったと思われる。現在でも御所内では穢れを避けることを厳格に守っている。そのような中、もし愛子さまが女性天皇になったとしてもその結婚については相当な議論になるだろう。婚姻の自由が求められる現代では自由恋愛が原則だが、お相手を軽々に決める訳には行かない。民間人と結婚したらそのお子様に皇位継承権を認めるかどうかの議論もしておかねばならない。男子ならば女系男子、女性ならば女系女子である。

  • 女系男子

すでに述べたように愛子さまが天皇になった場合の男のお子様が女系男子である。佳子さま眞子さまの男子のお子様を女系男子と言うかどうかは微妙だが、ここは天皇に繋がらないとしたい。

  • 女系女子

すでに述べたように愛子さまが天皇になった場合の女子のお子様が女系女子である。

日本の女帝は決して「つなぎ」ではなかった | 特集 | 東洋経済 ...

まとめ

ここまででご理解いただきたいのは、男系男子以外を皇位継承者に認めるとかなり幅広になること、女系まで広げると国民全員の子孫が天皇の系統になるかも知れないと言う事だ。

小室圭氏のように皇室の女性と結婚して天皇の父となるかも知れない。留学などで外国人と結婚する宮様が出てきたら米系や中国系の天皇家になるかも知れないのである。そのような皇室に象徴天皇として崇敬の念を持ち得るか。

さらに、女性天皇も可能とした場合、悠仁親王殿下の皇位継承順位をどうするかという悩ましい問題もある。愛子さまを優先すれば秋篠宮皇嗣殿下の継承権を廃止することになりかねない。天皇家と秋篠宮家との争い(令和の壬申の乱?)に発展するかも知れない。

このように簡単に女性天皇と言うと様々な解決すべき問題があることを是非理解頂きたい。男系男子を2000年間守って来た意義はあだやおろそかに出来ないのである。

 

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982回 あちゃこの京都日誌  新シリーズ「新天皇国紀」㊲

2023-03-02 08:53:09 | 日記

コラム 箸休め  女性天皇と女系天皇

最近、愛子さまの人気が急上昇している。女性天皇も「良し」とする識者も多い。そこで男系男子とそれ以外のケースを整理して論じたい。

皇室の構成図 - 宮内庁

現在の皇室のケースで分かりやすく書いて行く。上記の図を参考にしてもらいたい。

  • 男系男子 

父親をたどれば天皇に繋がる男子である。これは皇位継承権のある方たちなので順に書くと、第1位秋篠宮様 第2位悠仁親王殿下 第3位常陸宮様のお三方である。継承資格のある方が3名であるが年齢的には2名しかいないのが現状だ。もちろん上皇陛下と今上陛下は当然にして男系男子だ。当然この方たちが誰と結婚しようが生まれた男子は男系男子である。

  • 男系女子

父親をたどれば天皇に繋がる女性の方たちで愛子さま始め眞子さま佳子さまなど天皇家や宮家に生まれた女王たちである。もちろんその方たちが男系男子の皇族と結婚すればそのお子様は男系になるが、お相手が一般男性ならお子様は男女ともに女系(だが、もはや一般人)である。

  • 女系男子

母親をたどれば天皇に繋がる男子である。従って今の皇室にはいらっしゃらない。学術的解釈は諸説あるが、どこまでさかのぼるか解釈あるが、女帝から生まれた男子を女系男子だと解釈すれば存在自体考えにくい。

  • 女系女子

母親をたどれば天皇に繋がる女子である。当然今の皇室にはいらっしゃらない。③と同様女帝から生まれた女子を女系女子だと解釈する。

 

次回は、以降それぞれのケースで問題点など整理する

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981回 あちゃこの京都日誌  新シリーズ「新天皇国紀」㊱

2023-03-01 08:22:58 | 日記

7.着眼点の2

日本史で必須の年号・年表22個!・語呂合わせつき(歴史は「流れ ...

最近、鎌倉幕府の成立の年代がいつなのか議論になったが、一方、そもそも鎌倉時代の名称についても疑問が呈されている。奈良時代・平安(京都)時代・室町時代・安土桃山時代・江戸時代と時の政権のあった場所で時代の名称を決めて来た。しかし、鎌倉時代に政権の中心が鎌倉にだけあったのか?幕府と言っても3代までで、その間京都の朝廷の権威・権限は明確に存在した。しかも4代目以降の将軍は宮家から招へいしたもので北条政権はその権威の下で執権として政治をしたに過ぎない。後鳥羽上皇以降、ほとんど実権はなく後継天皇も自ら決められない皇室になってしまったが、まだまだ無視できない権威を備えていたのだ。さらに鎌倉幕府の京の出先機関である六波羅探題の存在も大きく、鎌倉にだけ政権の中心地があったように解釈する鎌倉時代という呼称は実情に合わないと言うのだ。そこで教科書には「京・鎌倉時代」という時代呼称に近々なるらしい。

しかし京都以外の地に政権が存在した事実は大きい。そのような大きな時代の節目に後鳥羽上皇の闘いは、天皇の復古活動の初見であろう。「主上ご謀反」と言われたのは後醍醐天皇だが、謀反とは本来奉公する親分に刃向かう場合に使う言葉だ。権力の頂点に立つはずの天皇に「謀反」は当てはまらないはずだ。しかし後醍醐に対してご謀反と言う。それ以前に後鳥羽上皇の仕掛けた戦いは鎌倉から見れば「ご謀反」と解釈したのだろう。以降、武力で政権に謀反?する天皇は後醍醐以外に出て来ない。一方で武士たちは犯しがたい皇室の権威を敬いつつ利用した。男系男子という父親をたどれば必ず天皇に繋がる継承形態は、単純だが庶民には決して真似できない。犯しがたい神秘性は壊さなかったのだ。ここまで古代の昔には皇室に成り代わる皇統の危機はあったかも知れないが、この時代以降現在に至るまでの「国体」はここに定まったとみる。

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