しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <バアナとレカブ>

2025-02-03 | Ⅱサムエル記
「かつて私に『ご覧ください。サウルは死にました』と告げて、自分では良い知らせをもたらしたつもりでいた者を、私は捕らえて、ツィクラグで殺した。それが、その良い知らせへの報いであった。」(Ⅱサムエル4:10新改訳)

サウルの下にいた略奪隊(りゃくだつたい)の隊長、バアナとレカブはアブネルの死を見て、ダビデに頼ろうとサウルの息子イシュ・ボシェテを暗殺、その首を贈り物としてダビデの所に持って来た。こうすれば喜んで部下にしてくれるだろうと思ったのである。▼ふつうの支配者ならそうしただろうが、二人は高潔(こうけつ)なダビデの人柄(ひとがら)を知らなかった。ダビデは怒り、無罪のイシュ・ボシェテを殺した彼らを死刑にして木につるした(12)。その怒りのはげしさが伝わってくる。▼人は自分の道徳レベルで他人を判断し、同じように考えているにちがいない、と錯覚(さっかく)しがちである。まして聖なる神が人をどのように見ているかは聖書以外に知ることはできない。最後の審判を思い、恐れおののいて生きるべきではなかろうか。「また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。」(黙示録20:12同)

聖日の朝に <沈黙という罪>

2025-02-02 | みことば静想
「もし、あなたがこのようなときに沈黙を守るなら、別のところから助けと救いがユダヤ人のために起こるだろう。しかし、あなたも、あなたの父の家も滅びるだろう。」(エステル4:14新改訳)

奸臣(かんしん)ハマンの計略により、ユダヤ人絶滅計画が立てられた時、エステルは王妃(おうひ)であった。自分がユダヤ人であることを黙(だま)っていれば、彼女はただひとり王宮で助かっていたかもしれない。しかしそれではいけない、神があなたに何を求めているかを考えなければならない、と養父(ようふ)モルデカイは諭(さと)した。その結果、エステルは文字通り自分のいのちをかけ、王に近づき、同族のため命乞い(いのちごい)をしたのであった。▼時と場合により、沈黙(ちんもく)は大きな罪になる。それは自己愛の最も卑怯(ひきょう)な現れとなって、多くの犠牲者(ぎせいしゃ)を生むかもしれない。主イエスがゲッセマネからゴルゴタへ進まれたとき、弟子たちをはじめすべての人々が沈黙し、見捨ててしまった。いっしょに十字架につこうと名乗り出る者は一人もいなかったのである。▼ああ私たち人間はなんと卑怯で罪深い存在なのであろう!恥ずかしさにふるえ、涙にむせびつつ刑場を去り、暗がりの中でひれ伏すことがほんとうの礼拝ではないだろうか。「召使いの女はペテロを見て、そばに立っていた人たちに再び言い始めた。『この人はあの人たちの仲間です。』すると、ペテロは再び否定した。しばらくすると、そばに立っていた人たちが、またペテロに言った。『確かに、あなたはあの人たちの仲間だ。ガリラヤ人だから。』するとペテロは、嘘ならのろわれてもよいと誓い始め、『私は、あなたがたが話しているその人を知らない』と言った。すると鶏がもう一度鳴いた。ペテロは、『鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います』と、イエスが自分に話されたことを思い出した。そして(外に出て行って・・・マタイとルカにはこの語がある)彼は泣き崩れた。」(マルコ14:69~72同)

朝の露 <茨やあざみを>

2025-02-01 | ヘブル書
「たびたび降り注ぐ雨を吸い込んで、耕す人たちに有用な作物を生じる土地は、神の祝福にあずかりますが、茨やあざみを生えさせる土地は無用で、やがてのろわれ、最後は焼かれてしますのです。」(ヘブル6:7,8新改訳)

ヘブル書が送られた初代の教会、それはエルサレムを中心としたユダヤ人キリスト者から構成されていたが、うち続く迫害やききんその他の理由によって、初めの純粋で燃える信仰を失いつつあった。それで記者はずいぶん厳しい内容の表現を使っているが、決して非難するのではなく、愛をもって励ます意図でそうしたのであった。▼信仰生涯は山あり谷ありの長い旅路である。喜びもあれば苦しみ、悲しみもあり、歌いながら跳(と)んで歩くときもあるし、悲しみうなだれてトボトボ行くときもある。憩(いこ)いの水際(みぎわ)に休むときだけではない、死の陰(かげ)におおわれた谷間(たにま)を越えなければ対岸にたどり着けない時もある。▼大切なのは、信仰の完成者であるイエスから目を離さないことにつきる。そうさせてくださるお方こそ、共にいます御霊であられる。「それは、前に置かれている希望を捕らえようとして逃れて来た私たちが、約束と誓いという変わらない二つのものによって、力強い励ましを受けるためです。その二つについて、神が偽ることはありません。」(ヘブル6:18同)


朝の露 <大祭司キリスト>

2025-01-31 | ヘブル書
「大祭司はみな、人々の中から選ばれ、人々のために神に仕えるように、すなわち、ささげ物といけにえを罪のために献げるように、任命されています。」(ヘブル5:1新改訳)

ここには大祭司の職分(しょくぶん)が簡潔(かんけつ)にまとめられている。ところが、この定義(ていぎ」)にかなう「大祭司にふさわしい人間」を神は一人も見出すことができなかった。理由は「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず」(ローマ3:23同)とあるのが人間の真相だからである。▼そこで神は、罪なき完全な人を得るため、ご自分の唯一(ゆいいつ)の子に肉体を与え、地上に遣わされた。これがナザレのイエスである。しかもただ一度のささげ物で人類とこの全世界を完全にあがなうため、ご自分のいのちをそなえものとして十字架にささげるために来られたのだ。▼ナザレのイエスが私たちにとり、どれほどありがたい存在かをよく思わなければならない。もし神がひとり子に受肉を命じ、ひとり子がそれに喜んで従うことがなかったら、私たち人間は一人残らず永遠のゲヘナに投げまれていた。文字通り間一髪(かんいっぱつ)の差で救われたのである。

朝の露 <アブネルの死>

2025-01-30 | Ⅱサムエル記
「アブネルはイシュ・ボシェテのことばを聞くと、激しく怒って言った。『この私がユダの犬のかしらだとでも言うのか。今日、私はあなたの父サウルの家と、その兄弟と友人たちに真実を尽くして、あなたをダビデの手に渡さないでいる。それなのに今日、あなたは、あの女のことで私をとがめるのか。』」(Ⅱサムエル3:8新改訳)

アブネルは優(すぐ)れた武人(ぶじん)だったが、敬虔(けいけん)な信仰はなく、亡き主君サウルの側女(そばめ)と不倫(ふりん)の罪を犯し、それを息子イシュ・ボシェテにとがめられると激昂(げきこう)した。あなたは誰のおかげでサウルの後継者(こうけいしゃ)としてとどまっていられるのか、というわけである。▼アブネルはこの傲慢(ごうまん)さのゆえに、やがていのちを失った。すなわち、ダビデの家来ヨアブに暗殺されたのである(27)。ただし、ヨアブは私恨(しこん)からアブネルを討(う)ったので、それはそれで神の前に大きな罪であった。どんなに大きな力を持った武将(ぶしょう)でも、神を恐れず自らの力を誇り、欲望のまま行動すれば最後は墓穴(ぼけつ)を掘る。アブネルもヨアブ(→Ⅰ列王記2:28~34)もダビデの下にいながら、みじめな死をとげた。