「あるいは、私が門のところに助け手を見て、みなしごに向かって手を振り上げたことがあったなら、私の肩の骨が肩から落ち、私の腕がつけ根から折れてもよい。」(ヨブ記31:21,22新改訳)
ヨブは生涯において罪を犯さないよう、細心の注意をもって歩んで来た。その総括ともいうべき言葉が本章。姦淫、弱い者いじめ、偶像礼拝、ねたみや不親切などの罪を犯さず、正義と公正を実行してきてひとつもやましいことはしていない。胸を張ってこのように証言できる人間がいたとは驚嘆に値する。▼この事実に鑑みて気づくのは、彼に下った苦難の意味は、人知では測り知れない深さを持っていたということである。三友人たちのあやまりはそこにあった。つまり、あまりにも安易に結論を出し、ヨブに迫ったのである。それではどうすればよかったのだろうか。私は共に祈ること、共にひざまずいて神の前に出ることが最善ではなかったか、と思う。人に臨む苦難はかぎりなく深い神の御心から出ている。外側の状況だけを見て、軽々に結論を下すべきでない、ということであろう。
さて、ヨブは友人たちへの最後の証しとして、自分の生涯の正しさを堂々と語り、三人を沈黙させてしまうのであるが、ではなぜ彼がこのあと神に直接対面したとき、次の言葉を吐いたのであろうか。「あなたは言われます。『知識もなしに摂理をおおい隠す者はだれか』と。確かに私は、自分の理解できないことを告げてしまいました。自分では知り得ない、あまりにも不思議なことを。あなたは言われます。『さあ、聞け。わたしが語る。わたしがあなたに尋ねる。わたしに示せ』と。私はあなたのことを耳で聞いていました。しかし今、私の目があなたを見ました。それで、私は自分を蔑み、悔いています。ちりと灰の中で。」(ヨブ記42:3~6同)▼ヨブにもし誤りがあったとすれば、それは「知識もなしに摂理をおおい隠した」という誤りである。自分に降りかかった苦難があまりに大きいものであったため、彼は神を「残酷でむごい方」と表現してしまった。友人たちが推定でものを言い、ヨブは罪深い行為をしたにちがいないと判定をくだしたが、ヨブもまた「神は残酷でむごい方」と推断する誤りを犯したのであった。神に直接お会いしていないのに、神を(そして、その摂理の御手を)被造物が断定することはあきらかに越権行為である。ヨブは42章に至り、はじめてその真理に目が開かれたのであった。
これは私たちにとってもおなじである。なぜなら、私たちはイエス・キリストが再びおいでになったとき、その栄光の御姿に接見する。そして、パウロが記したことが起きるのだ。「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」(Ⅰコリント13:12同)▼それゆえ、人は「そのとき」が来るまで、先だって神をも人をもさばいてはならない。自分も苦しみ、人をも苦しめることになるからである(Ⅰコリント4:5)。