しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <エリフ登場>

2021-05-03 | ヨブ記

「私はあなたがたに細心の注意を払っていた。しかし、あなたがたのうちには、ヨブを叱責する者も、彼のことばに答える者もいなかった。」(ヨブ記32:12新改訳)

ここで、今まで沈黙を守っていた青年エリフが話し出す。三人の友人がヨブを説得できずに話すのをやめたからであった。▼彼の弁論をよく聞くと、三人とはちがった視点から語っていることがわかる。すなわち彼は、ヨブが何か大きな罪を犯したからこの災難が起きたにちがいない、というような推定で語ることはしない。そうでなく、エリフはヨブの神に対する抗議が生じている内面的な動機、心のあり方を問題にしている。加えて、彼はヨブと神のあいだに立つ仲介者の存在を暗示し、その方が身代金を払って下さるはずだ、とも指摘している。これはまさにイエス・キリストと十字架のことにほかならない。▼エリフはまもなくご自身をヨブに示される神のために、その先備えとして現れたかのような人物で、バプテスマのヨハネに似ている。


朝の露 <自分の正しさを主張するヨブ>

2021-04-29 | ヨブ記

「あるいは、私が門のところに助け手を見て、みなしごに向かって手を振り上げたことがあったなら、私の肩の骨が肩から落ち、私の腕がつけ根から折れてもよい。」(ヨブ記31:21,22新改訳)

ヨブは生涯において罪を犯さないよう、細心の注意をもって歩んで来た。その総括ともいうべき言葉が本章。姦淫、弱い者いじめ、偶像礼拝、ねたみや不親切などの罪を犯さず、正義と公正を実行してきてひとつもやましいことはしていない。胸を張ってこのように証言できる人間がいたとは驚嘆に値する。▼この事実に鑑みて気づくのは、彼に下った苦難の意味は、人知では測り知れない深さを持っていたということである。三友人たちのあやまりはそこにあった。つまり、あまりにも安易に結論を出し、ヨブに迫ったのである。それではどうすればよかったのだろうか。私は共に祈ること、共にひざまずいて神の前に出ることが最善ではなかったか、と思う。人に臨む苦難はかぎりなく深い神の御心から出ている。外側の状況だけを見て、軽々に結論を下すべきでない、ということであろう。

さて、ヨブは友人たちへの最後の証しとして、自分の生涯の正しさを堂々と語り、三人を沈黙させてしまうのであるが、ではなぜ彼がこのあと神に直接対面したとき、次の言葉を吐いたのであろうか。「あなたは言われます。『知識もなしに摂理をおおい隠す者はだれか』と。確かに私は、自分の理解できないことを告げてしまいました。自分では知り得ない、あまりにも不思議なことを。あなたは言われます。『さあ、聞け。わたしが語る。わたしがあなたに尋ねる。わたしに示せ』と。私はあなたのことを耳で聞いていました。しかし今、私の目があなたを見ました。それで、私は自分を蔑み、悔いています。ちりと灰の中で。」(ヨブ記42:3~6同)▼ヨブにもし誤りがあったとすれば、それは「知識もなしに摂理をおおい隠した」という誤りである。自分に降りかかった苦難があまりに大きいものであったため、彼は神を「残酷でむごい方」と表現してしまった。友人たちが推定でものを言い、ヨブは罪深い行為をしたにちがいないと判定をくだしたが、ヨブもまた「神は残酷でむごい方」と推断する誤りを犯したのであった。神に直接お会いしていないのに、神を(そして、その摂理の御手を)被造物が断定することはあきらかに越権行為である。ヨブは42章に至り、はじめてその真理に目が開かれたのであった。

これは私たちにとってもおなじである。なぜなら、私たちはイエス・キリストが再びおいでになったとき、その栄光の御姿に接見する。そして、パウロが記したことが起きるのだ。「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」(Ⅰコリント13:12同)▼それゆえ、人は「そのとき」が来るまで、先だって神をも人をもさばいてはならない。自分も苦しみ、人をも苦しめることになるからである(Ⅰコリント4:5)。

 

 


朝の露 <苦しみの日が>

2021-04-28 | ヨブ記

「私のはらわたは、休みなくかき回され、苦しみの日が私に立ち向かっている。私は日にも当たらず、泣き悲しんで歩き回り、集いの中に立って助けを叫び求める。」(ヨブ記30:27,28新改訳)

バビロン軍によるエルサレム崩壊の日、エレミヤは火のくすぶる瓦礫の中で涙を滝のように流して泣いた。神への背きの罪がこの悲劇をもたらしたのだ、と。▼だが、ヨブの苦しみはとつぜんやって来たのである。預言者がヨブに警告することもなかったし、彼を厳しく咎める神の御声もなかった。ある日、巨大ダムが決壊し、大洪水のように不幸がおそいかかり、全財産と十人の子どもたちがなくなった。その上重病に冒され、見るも無残な姿に変わり果てたのである。▼家族や知人から見放され、おろおろ歩き回るヨブの姿をだれが責められよう。だれがあざ笑うことが出来よう。そして彼は叫ぶ、なぜどうしてなのか。神はなぜ沈黙しておられるのか。誰も答えることができない。いかなる人もこの問いに解答できない。ただ一つの場所を除いては・・・。▼そう、それはナザレのイエスである。このお方こそ、私たちに対する神からの最終にして唯一の解答だ。「神は昔、預言者たちによって、多くの部分に分け、多くの方法で先祖たちに語られましたが、この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました。」(ヘブル1:1、2同)▼イエス・キリストの後に、神の解答、メッセージは存在しない。それほどにキリストは私たちにとってすべて、父なる神にとってもすべてである。


朝の露 <ああ、昔の日が>

2021-04-27 | ヨブ記

「ああ、できることなら、昔の月日のようであったらよいのに。神が私を守ってくださった日々のようであったらよいのに。」(ヨブ記29:2新改訳)

ヨブはここで、神の満ち足りた祝福にあった過去をなつかしむ。▼富、名声、人々の賞賛、あらゆるものが彼を取り囲み、同時にそれらに溺れることなく、弱い者や貧しい者を助け、不正な人々を譴責(けんせき)し、正義と公正の守護者としてふるまったヨブ、東の人々で彼を知らない者はなかった。それがあまりにも輝いていたため、彼は突然やって来た恐ろしい苦難を受け入れることができなかったのであろう。たしかに「私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいも受けるべきではないか」と、妻の非難をたしなめた(2:10)が、少なくとも神の自分に対する扱いを賛美し、ほめたたえることはできなくなったのである。▼イエス・キリストは十字架の御苦しみの中にあって、なおも神をほめたたえられたお方であった(詩篇22:11~26)。ヨブの完全は地から出た完全であり、主イエスの完全は天から出た完全であった。そこに違いがある。もし私たちが天の完全にあずかりたいと願うなら、新しく生まれ変わり、御霊を宿すことが絶対的に必要である。「私たちをご自身の栄光と栄誉によって召してくださった神を、私たちが知ったことにより、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔をもたらすすべてのものを、私たちに与えました。その栄光と栄誉を通して、尊く大いなる約束が私たちに与えられています。それは、その約束によってあなたがたが、欲望がもたらすこの世の腐敗を免れ、神の御性質にあずかる者となるためです。」(Ⅱペテロ1:3,4同)

 


朝の露 <知恵の道>

2021-04-26 | ヨブ記

「神は知恵の道をご存じであり、神こそ、それがある道を知っておられる。それは、神が地の隅々までを見渡し、天の下をことごとく見ておられるからだ。」(ヨブ記28:23,24新改訳)

自分に臨んだ苦難の意味を悟ることができないヨブは、いったい「ほんとうの知恵、悟りはどこにあり、どのようにして得るのか」と、本章で自問(12節)自答(28節)した。▼その答えはイエス・キリストである。パウロは、「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています」(コロサイ2:9同)と記した。ヨブに与えられた苦しみは神の測り知れない御知恵から出ているが、その知恵が誰の目にも見えるかたちで現れたお方こそナザレのイエスであった。形をとって宿っているとは、それを言う。▼といっても、キリストの十字架像を壁に飾り、拝んだからといって、知恵を得たことにはならない。内住の御聖霊がみことばによって主イエスの栄光を示す時、人は初めて真の知恵を知り、喜びと満足を味わう。ヨブが新約の福音時代に生きていたら、喜び踊り、主を賛美したと思う。「すべての聖徒たちのうちで最も小さな私に、この恵みが与えられたのは、キリストの測り知れない富(無限の、底知れない、想像もつかない、使い尽くせない富、いまだかつて、人類が捜し出すことのできなかった富)を福音として異邦人に宣べ伝えるためであり、また、万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義の実現がどのようなものなのかを、すべての人に明らかにするためです。これは、今、天上にある支配と権威に、教会を通して神のきわめて豊かな知恵が知らされるためであり、私たちの主キリスト・イエスにおいて成し遂げられた、永遠のご計画によるものです。」(エペソ3:8~11同、カッコ内は詳訳)▼下線部分は、旧約時代には神の奥義的知恵であるイエス・キリストがその御ふところにおられ、人の目に現されていなかったということにちがいない。だからヨブは「いったい知恵はどこに行けば見つかるのか」と悩み苦しんだのであった。ところがその知恵が神の御ふところから、人間となって地にお出でになったのだ。もしヨブがナザレのイエスに面と向かってお会いしていたら、喜びとおどろきで気絶していたかもしれない。御子の受肉はそれほどのことである。特に異邦人キリスト者の置かれた立場は、その祝福と幸せにおいて空前絶後のものであることを知りたい。ほんとうは、日曜日ごとに持たれている礼拝は賛美と感謝にあふれて当たり前である。なんと私たちは「心の目が開かれる」必要のあることか。