しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <最後の勧告をするエリフ>

2021-05-11 | ヨブ記

「私たちが見出すことのできない全能者は、力にすぐれた方。さばきと正義に富み、苦しめることをなさらない。だから、人々は神を恐れなければならない。神は心に知恵ある者を顧みられないだろうか。」(ヨブ記37:23,24新改訳)

前章に続き、深刻な病状のヨブを目の前にしながらも、エリフは「全能者は苦しめることをなさらない」と断言する。▼そもそも試練の最初、ヨブは「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」(1:21)と、すばらしい信仰の言葉を告白した。そこでこの告白どおり生き続ければ、彼は苦しまないですんだといえる。ところが三友人の挑発に議論が次第にエスカレートし、神の自分に対する扱い方に抗議、つぎつぎに疑問を提示し、結果として自分で自分を苦しめる結果になった。▼パウロはコリント教会に、「あなたがたに対する私たちの愛の心は、狭くなってはいません。むしろ、あなたがたの思いの中で狭くなっているのです」(Ⅱコリント6:12同)と書き送った。自分で自分を呪縛する罪から自由にされたい。そのためには、エリフが「神の奇しいみわざを、立ち止まって考えよ」(14同)と述べたとおりに生活すべきではなかろうか。主イエスは30年をナザレでお過ごしになり、現代人のように世界中を旅されたお方ではなかった。広い太平洋を行かれたこともなく、南極の氷山も北極のオーロラも見られたことはなかった。しかし主は御父が造り、支配されたこの世界を心行くまで喜び、父の愛を堪能されたに違いないと私は思う。▼主は一輪の野百合に、ソロモンの豪華さなど遠く及ばない栄光の美を御父と共に備えられた方である。一羽の雀さえ喜んで生きることができる生を与えられた方である。私たちは主の御眼差しが、自分のまなざしとなるまで、この世界で立ち止まり、じっと万物に見入ったことがあるだろうか。いわんや、エリフがいうように、我が身におそいかかった激動の苦難が、神の深い御愛以外のなにものでもないと感じられるまで、じっと考え、ながめ続けたことが一度でもあるだろうか。ヨブよ、それをしないで、なぜ貴方は騒ぎまわるのか?なぜあなたは怒りで心をあふれさせ、骨身を削ってまで、全能者に抗議するのか?静かに立ち止まって、神の御手のわざを見つめ、考えようではないか。▼エリフのメッセージは私たち現代人へのそれである。イエス・キリストの御生涯とみわざ、そして十字架の死を「立ち止まって考えよ」と。

 


朝の露 <神はヨブを蔑まれない>

2021-05-10 | ヨブ記

「見よ。神は強いが、だれをも蔑まれない。その理解の力は強い。」(ヨブ記36:5新改訳)

エリフはヨブに対し、きびしく語っているように見えるが、じつはあたたかい心を抱いていることが、言葉の端々から感じられる。たとえば5節を意訳するなら、「あなたの受けた苦しみは想像を絶するものだが、神はあなたを蔑んでおられない。今や、妻と親族、友人知人、使用人や下男下女まであなたを軽蔑し、あいさつどころか声もかけない、じつに惨めな姿になったが、神はそうではない。あなたのすべてを理解し、知り尽くし、守り支えておられるのである。そうでなければ、とっくに死んでいるはずではないか」ということになる。▼前にも述べたが、エリフはヨブの大試練には何か大きな目的と遠大な計画があることを感じ取っている。もちろんそれが何か、周囲の人間にはわからない。わからないが、尋常一様ではない扱いがヨブに対してなされていることを見抜いたエリフは、決してヨブを蔑まない。むしろ敬意を払いながら、苦しみを正しく受け止め、はやまるな、といさめるのであった。▼苦難の下に置かれている人にどう接すればよいか、エリフの態度と言葉は私たちに大切な示唆を与える。むやみに慰めのことばを並べるのでも、反対にやたらと叱りつけるのでもない。その人が神の深い取り扱いのなかにあることを心から認め、おそれと敬虔を共にする態度で臨む、結局のところ「あなたの隣人を貴方自身のように愛せよ」というみことばに、全てが収斂(しゅうれん)するのではないだろうか。私たちの主が、12弟子をはじめ当時の人々に接したのはまさにそれであった、と思う。


朝の露 <真相を知らないヨブ>

2021-05-06 | ヨブ記

「あなたが正しかったとしても、神が何を与えられるのか。神は、あなたの手から何を受けられるのか。あなたの悪は、ただあなたのような人間に、あなたの正しさは、人の子に関わるだけだ。」(ヨブ記35:7,8新改訳)

自分にふりかかった災厄の大きさと、神が沈黙しておられる理不尽さをなげくヨブ。だが彼は霊界の真相を知らない。本当は神がヨブの誠実で敬虔な歩みを御使いたちに自慢しておられること、サタンがそれをねたみ、無理やり願って苦難と試練に遭わせたこと、そして神がそれを許したのはヨブの信仰をさらに飛躍させるためだった、という事実を。▼そもそもこのドラマは、神の深い御心に秘められた遠大なご計画から発していて、世々の信仰たちを励ますという目的をもっていた。「見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いだと私たちは思います。あなたがたはヨブの忍耐のことを聞き、主によるその結末を知っています。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられます。」(ヤコブ5:11同)▼ヨブはそれを知らないし、告げられても理解できなかったろう。それなのに、自分は正しい、何もあやまちを犯していないと抗議し、神の扱いを不正よばわりする。なんと無知で不完全な知識の人よ、とエリフは言うのである。さて、エリフの弁論は37章まで続くのだが、ヨブの反論などは記されていない。彼はほんとうにエリフの考えに納得し、黙ったのであろうか。どうもそうではないような気がする。なぜかといえば、エリフがヨブの反論しようとする気配を抑えた、とみられるからである。「黙れ。この私が語る」(ヨブ記33:31同)とエリフは言い、「黙れ。私はあなたに知恵を教えよう」(33)とも言い、「しばらく待て。あなたに示そう。まだ神のために言い分があるからだ」(36:2同)とも言う。これはあきらかに、何かを言おうとするヨブを抑えた態度と考えてよい。▼つまり、整然たるエリフの議論が展開され、力強くヨブは説得されたにちがいないと我々は思うのだが、必ずしもそうではなかったのだ。そしてとうとう神ご自身が38章において嵐の中から直接ヨブに語りかける。息もつかせぬ創造主のことばが一人の人間に襲い掛かり、その人格を怒涛か津波のように打ち砕き、吞んで行く。我々はここに、被造物にすぎない人間であるが、人格というものの神秘を感じざるをえないのである。神のかたちに造られた人の霊魂は、お造りになった神ご自身が本気になってぶつかるに値する存在である、という不思議さである。人間が神の前に持っている(というか、持たされている)本質的価値は我々すら自覚できないぐらい貴いものである、ということではないだろうか。なぜ神はそのひとり子を失うほど私たちを愛して、惜しまれるのか。その解答こそまさにヨブ記なのではないだろうか。

 

 


朝の露 <よく聴け、ヨブよ>

2021-05-05 | ヨブ記

「良識のある人々や、私に聞く、知恵のある人は私に言うだろう。『ヨブは知識もなしに語る。彼のことばは聡明さに欠けている』と。」(ヨブ記34:34,35新改訳)

ヨブは自分に臨んだ苦難の深刻さから、神に叫び続け、抗議し続けた。「私はなぜ思い当たることがひとつも無いのに、ここまで苦しまなければならないのか」と。▼しかしヨブよ、あなたはそれほど完璧な知識を持っているのか。神の無限に深い思慮深さ、永遠から永遠に至る御計画の長さと高さ、精妙さから出ているあなたへの思い計りを告げられたとき、それを理解できるのか。にもかかわらず、自分はそれだけの知識を持っていると確信して、神と一対一で議論したいとうそぶく。もしそうだとしたら、そのこと自体があなたの知識の致命的欠如を証明している。よく聴け、ヨブよ。つかのまに息絶え、土に帰る肉にすぎないあなたが、自分の限られた知識をもって、全能者の公正・不公正を論じていいのか。一粒のチリが永遠者に抗議するのか。▼青年エリフの論陣は鋭く、適確であった。そして彼の弁論を聞いて思うことは、エリファズたち三人の友人のそれとちがって、ヨブに対する「一種のあたたかさ」を感じることである。どうしてなのだろう。たぶんそれは、彼が上からの目線で語っていないからだと思う。もちろんヨブに対し、遠慮なくきびしい表現を用いている。それなのにエリフは冷たく、非難の嵐をぶつけているのではない。心に三友のごとき「さばきの心」が感じられないのである。私たちが人に接してもの言う時、さばきの心をもたないでそうすることほど大切なことはないであろう。それは全能者への謙遜の霊を所有しているかどうか、ということになってくる。パウロはコロサイの人々に勧めた。「あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味の効いたものであるようにしなさい。そうすれば、一人ひとりにどのように答えたらよいかが分かります」(コロサイ4:6同)と・・・。▼これは主イエスがお語りになったことの敷衍(ふえん)であるのはあきらかである。「人はみな、火によって塩気をつけられます。塩は良いものです。しかし、塩に塩気がなくなったら、あなたがたは何によってそれに味をつけるでしょうか。あなたがたは自分自身のうちに塩気を保ち、互いに平和に過ごしなさい。」(マルコ9:49,50同)

 


朝の露 <エリフの主張>

2021-05-04 | ヨブ記

「彼は人々を見つめて言う。『私は罪ある者で、真っ直ぐなことを曲げてきた。しかし私は、当然の報いを受けなかった。神は、私が滅びの穴に下らないように、私のたましいを贖い出してくださった。私のいのちは光を見ることができる』と。」(ヨブ記33:27,28新改訳)

エリフはヨブの傍らにおられる贖い主キリストを預言的に示す。そしてその方が贖って下さるゆえに彼の罪はゆるされ、やがて祝福の光に入ると断言する。▼エリフと三人の友人たちの明らかな違いは、三人が罪を責め、悔い改めよと迫ったのに対し、エリフは贖い主がおればこそヨブがゆるされるのだ、と指摘したことにある。それにしても25~28節は、まもなく訪れる幸せなヨブの後半生をあざやかに描いている点で、エリフの弁論を際立たせている。▼知らなかったとはいえ、ヨブが全能者に向かって吐いた数々の無礼な言葉は、真の仲介者キリストの贖いがあればこそゆるされるものであった。それをもっとも強く知ることになるのが、まもなく神にお会いするヨブ本人なのである。▼いずれにせよ、本章エリフの言葉は私たちキリスト者に大切なことを教えている。それは、苦しむ人をほんとうに慰めたいと思うなら、いたずらに罪を責め、悔い改めを迫るのではなく、あがない主・キリストを指し示すことが重要だ、と言う点であろう。人は自らの罪を真に赦す権威を持ち給うお方に出会った時、はじめて苦しみから解き放たれ、平安を体験するのであり、それは神の子キリストに出あうことしかないのである。百万の慰めに満ちた美辞麗句をならべても、それは意味をもたない。酒を飲むのとおなじで、一時的に酔っても、正気に戻れば元の木阿弥なのだ。そしてこのようなアプローチが世界中に溢れている。◆「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28同)と仰せられる方のところに行こうではないか。