「私たちが見出すことのできない全能者は、力にすぐれた方。さばきと正義に富み、苦しめることをなさらない。だから、人々は神を恐れなければならない。神は心に知恵ある者を顧みられないだろうか。」(ヨブ記37:23,24新改訳)
前章に続き、深刻な病状のヨブを目の前にしながらも、エリフは「全能者は苦しめることをなさらない」と断言する。▼そもそも試練の最初、ヨブは「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」(1:21)と、すばらしい信仰の言葉を告白した。そこでこの告白どおり生き続ければ、彼は苦しまないですんだといえる。ところが三友人の挑発に議論が次第にエスカレートし、神の自分に対する扱い方に抗議、つぎつぎに疑問を提示し、結果として自分で自分を苦しめる結果になった。▼パウロはコリント教会に、「あなたがたに対する私たちの愛の心は、狭くなってはいません。むしろ、あなたがたの思いの中で狭くなっているのです」(Ⅱコリント6:12同)と書き送った。自分で自分を呪縛する罪から自由にされたい。そのためには、エリフが「神の奇しいみわざを、立ち止まって考えよ」(14同)と述べたとおりに生活すべきではなかろうか。主イエスは30年をナザレでお過ごしになり、現代人のように世界中を旅されたお方ではなかった。広い太平洋を行かれたこともなく、南極の氷山も北極のオーロラも見られたことはなかった。しかし主は御父が造り、支配されたこの世界を心行くまで喜び、父の愛を堪能されたに違いないと私は思う。▼主は一輪の野百合に、ソロモンの豪華さなど遠く及ばない栄光の美を御父と共に備えられた方である。一羽の雀さえ喜んで生きることができる生を与えられた方である。私たちは主の御眼差しが、自分のまなざしとなるまで、この世界で立ち止まり、じっと万物に見入ったことがあるだろうか。いわんや、エリフがいうように、我が身におそいかかった激動の苦難が、神の深い御愛以外のなにものでもないと感じられるまで、じっと考え、ながめ続けたことが一度でもあるだろうか。ヨブよ、それをしないで、なぜ貴方は騒ぎまわるのか?なぜあなたは怒りで心をあふれさせ、骨身を削ってまで、全能者に抗議するのか?静かに立ち止まって、神の御手のわざを見つめ、考えようではないか。▼エリフのメッセージは私たち現代人へのそれである。イエス・キリストの御生涯とみわざ、そして十字架の死を「立ち止まって考えよ」と。