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全館輻射熱冷暖房住宅システムの開発者・福地建装・代表取締役会長
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感謝を言える時にその人は亡き…北斗市

2006年12月08日 17時46分26秒 | Weblog
昭和42年4月、私が21歳の時、数人の仲間と一緒に津軽海峡を渡り、東京へ出て現在の福地建装を設立しました。
自分のお金と餞別で戴いたお金が6万円ありました。
しかし、実際に仕事を請け負って得るお金の時期を考えると何とも心もとない資金でした。
その出かける間際に、二番目の姉が15万円のお金をそっと渡してくれました。
その時の姉の職業は高卒で勤めた農協職員で、農協の経理を一手に任されており、職場と自宅を往復するのが日課で、働く事しか知らない聡明でとても働き者の姉でした。

私は東京に出て、6人の住めるアパートを借り、最初の請負金を受け取るまで3ヶ月がかかり、その間の生活費、交通費、生活用品購入などで使ったお金が20万円、あの姉の15万円が無ければ、現在の福地建装は存在しなかった事でしょう。そしてその延長線で出来上がったファースの家も誕生しなかったと思われます。

姉は晩婚でしたが心優しい義兄に嫁ぎ、一男一女の子供を懸命に育て上げ、その子供たちに囲まれて、穏やかで幸福な人生を歩む事が出来ました。しかし、何の資金的な裏付けも持たないで船出した私の事業を事のほか心配し、苦しい時には何も言わずにお金を工面してくれたのでした。日頃、お金を借りているとついつい足が遠のくもので、心の中で毎日のように感謝をしていながらも日々、不義理をしておりました。

いつも元気な姉だったのですが、今年の7月に体調に異変を感じて入院検査をしたところ、肺の細胞にガンらしきものがあり、そのガンが脳細胞に転移しており、既に末期状態であるとの診断でした。私達にとってはまさに晴天の霹靂のような出来事でした。
それでも最初に見舞いに訪れた時、ガン告知されていない姉は、照れ臭そうに笑い顔で「直ぐに治るよ」と自分に言い聞かせているようでした。
状況を知っている我々にとっては何とも辛い心情でした。
私は2週間に一度の割合で札幌の病院を見舞うのですが日々、弱ってゆく姉の姿に、心労を一番かけた自分の責任を沈痛な気持ちで受けとめざるを得ません。

先週、土曜日の夜に容態が深刻な状態になり、月曜日の午前、家族や親族全員に見守られながら眠るように息を引きとりました。平均年齢を大きく下回る満69歳の人生でした。
最後の2週間は、姉に24時間付きっ切りで必死に看護する義兄の姿に心打たれ、二人の子供も1分でも1秒でも母親を長生きさせようと看護師さんと連携して懸命に呼吸補助や血流補助などを行う姿があり、姉の生前における家族との関わり方を知る事が出来ます。

弊社の副社長である私の妻も、普段から亡くなった姉の事を「母として生きる手本」と話しておりましたが、その意味を深く理解する事が出来ました。
姉の逝去は、我々に人生とは何か、母とはどうあるべきか、妻とはどうあるべきかなど、多くの教訓を与え、足早に旅立って逝きました。

元気な時に感謝の言葉を伝えたかった…感謝している時は心に仕舞い込む事無く、態度で表現する事がとても大切であると痛感し、同時に悔やまれてなりません。
まさに、感謝を言える時にその人は亡き…

月曜日は姉が入院している札幌でファース工務店の有志などが集って工務店情報交流会を行っており、私も講義のために参加しておりました。姉の様態が緊迫した状態となり、私や親戚の関係者に連絡が入るなど不自然な状況となったので、交流会に参加していた皆さんに事情をお話しせざるえませんでした。交流会で告知した以上、情報が偏って伝わる事を憂慮し、弊社総務一同の判断で関係者に伝達した事を後で知りました。

結果として多くの方々に多大なお気遣いを戴く事になり、大変に心苦しく思っております。
しかし、亡くなった姉も、ファースの家の健全な発展を心から祈っておりました。
ファース・グループの皆さんの温かい心遣いにきっと感謝している事と思います。

写真は私の住んでいる家の庭に父親が遺した松の木です。
亡くなった姉がこの松の木が好きだったのか、嫁ぐまでは丹精込め手入れをしておりました。
当時、姉はまだ20歳台の若さだったと思うんですが枝切りバサミを持って懸命に剪定作業を行う姿が思い浮かびます。
これからも、この松を見るたびに姉を思い出すのでしょう。

昨日、木曜日に札幌から本社に帰社して今日、金曜日から通常業務に入っています。
また、これからも「住まいのお役立ち日誌」も中身を充実させ続けて参ります。
ブログコメント、メール、電話などで弔文、弔問をよせて戴いた方々にもこのブログ画面を借りて重ねて御礼を申し上げます。本当にありがとうございました。