ビーンの不定期日記

その日の事や思ったことを…

 「思いつき
   いかげん日記」

【父の戦争体験⑪】

2020-10-13 02:58:07 | 日記
私の父は大正4年生まれ。91歳の天寿を全うした。農家の三男として生まれ兵役後そのまま軍隊に残り職業軍人として終戦まで満州に駐留した。中学出の父だったが准尉まで出世し下士官となった。終戦時ソ連軍の捕虜となりシベリアに抑留され昭和24年に帰国。
戦争のことはあまり話したがらない父だったが私(現在64歳)が子供の頃に時々話してくれたいくつかの戦争の話を書き留めておきたい。
戦争体験者が少なくなってきている日本で貴重な体験談を受け継ぎ次の世代に伝えていくことは私達子供の役目ではないかと思う。私は平和主義を蔑(ないがし)ろにする今の日本の風潮に危機感を持っている。
「戦争は絶対してはならない」の立場から父が話してくれた戦争の話をお伝えしようと思う。



【父の戦争体験⑪】

戦友会。
私が20歳頃(昭和50年頃)、父に誘われて戦友会の打ち合わせに同席したことがある。父が60歳くらいだったと思う。
打ち合わせの場所は東京、椿山荘。
父が言うには由緒あるホテルで戦前は皇族方が利用されたそうだ。
子供を打ち合わせの席に同席させるなど常識的には考えられないことだと思うが、父は成人した末息子を戦友達に見せたかったのか、または私に豪華な椿山荘を一度見せたかったのか、そんなところではなかっただろうか。実際、私は後にも先にも椿山荘へ行ったのはその時の一度きりだ。

打ち合わせには10名くらい来ていた。
戦友会は毎年行われており、毎回違った県で開かれていた。だから幹事は持ち回りで開催する県の人達がその年の戦友会の準備をすることになっていた。
その年は東京が開催地で、それで東京に住む戦友達が集まって打ち合わせをしたのだった。
予算とか、お土産をどうするかとか、戦友会が終わった次の日に東京の観光案内を企画しようか等、話していたことを覚えている。
落ち着いた和室の部屋で食事をしながら皆和やかな雰囲気で話をしていた。
ひとりだけ声が大きくてとても賑やかな人がいた。そして対照的に物静かな人もいた。
兵隊の時の階級が誰が上で誰が下か私の知るところではなかったが、威勢がよくて父を呼び捨てにしていた人は恐らく父の上官だろうなと思った。

家に帰ってから父が教えてくれた。
賑やかだった人は八百屋をしていて父の部下だった。物静かな人は中隊長で1番偉い人だった。
戦争が終わって皆それぞれの戦後の人生を歩んでいるんだなと二十歳そこそこの私はそう感じた。

それから数年後、父が私に言った。
「椿山荘に行ったとき声のデカい賑やかな人がいたでしょ。あの人、自殺したよ」
私はそれを聞いてとてもショックだった。
70近くまで生きてきて、それも戦争の中を生き抜いてきた命なのに何で自ら命を絶たなければならなかったんだろう?
折角ここまで生きてきたのに・・・

とても信じられなかった。

戦争のない時代でも生きていくのは大変だ。


【父の戦争体験⑩】

2020-10-04 00:03:05 | 日記
私の父は大正4年生まれ。91歳の天寿を全うした。農家の三男として生まれ兵役後そのまま軍隊に残り職業軍人として終戦まで満州に駐留した。中学出の父だったが准尉まで出世し下士官となった。終戦時ソ連軍の捕虜となりシベリアに抑留され昭和24年に帰国。
戦争のことはあまり話したがらない父だったが私(現在64歳)が子供の頃に時々話してくれたいくつかの戦争の話を書き留めておきたい。
戦争体験者が少なくなってきている日本で貴重な体験談を受け継ぎ次の世代に伝えていくことは私達子供の役目ではないかと思う。私は平和主義を蔑(ないがし)ろにする今の日本の風潮に危機感を持っている。
「戦争は絶対してはならない」の立場から父が話してくれた戦争の話をお伝えしようと思う。



【父の戦争体験⑩】

これも母から聞いた話。
母は大正10年生まれ。病弱の父親に代わってわずかばかりの土地で農業をしていた。
まだ父と結婚する前の終戦直後の話。
母は近所の人からあることを聞いた。神田の市場に野菜を持って行けばいい値段で野菜が売れると。
「そんなに野菜が売れるなら直ぐにでも神田市場に行こう」と決めた。
母は家で採れた胡瓜や茄子等たくさんリヤカーに積んで市場に向かった。
市場まで3時間は有に掛かる。若い女一人でリヤカーを引き続けるのは辛かった。しかし野菜が売れれば生活の足しになると頑張って引いた。
ようやく市場に着いた。市場に来るのは初めてだ。どのように売ったらいいのか分からない。そこで近くの人に聞いてみた。
「野菜を市場で売ろうと思って来たのですが、どうしたらいいでしょうか?」
その人は言った。
「あんた、権利を持っていないと市場では売れないよ」とつっけんどんに言われてしまった。
母はそれを聞くとビックリし、そしてとても落胆した。リヤカーを何時間も引いてきた身体からみるみるうちに力が抜けていった。

母は無知だった。それも当然だった。
小学校は4年生までしか行かせてもらえなかった。そして幼い妹弟達の子守をし奉公にも出された。学も無く世間にも無知だった。
だから市場に行けば誰でも持ってきた野菜を売れると思ったのだ。
野菜を積んだままのリヤカーを力なく引いてまた何時間もかけて家に帰るしかなかった。

私は母が不満を言っているのを見たことが無い。地味な人で黙々と農作業をする姿が私が子供の頃の母の印象だ。
私は60半ばの歳になったが、今母のことを思うと母は偉い人だったと思う。

【父の戦争体験⑨】

2020-10-03 21:01:49 | 日記
私の父は大正4年生まれ。91歳の天寿を全うした。農家の三男として生まれ兵役後そのまま軍隊に残り職業軍人として終戦まで満州に駐留した。中学出の父だったが准尉まで出世し下士官となった。終戦時ソ連軍の捕虜となりシベリアに抑留され昭和24年に帰国。
戦争のことはあまり話したがらない父だったが私(現在64歳)が子供の頃に時々話してくれたいくつかの戦争の話を書き留めておきたい。
戦争体験者が少なくなってきている日本で貴重な体験談を受け継ぎ次の世代に伝えていくことは私達子供の役目ではないかと思う。私は平和主義を蔑(ないがし)ろにする今の日本の風潮に危機感を持っている。
「戦争は絶対してはならない」の立場から父が話してくれた戦争の話をお伝えしようと思う。



【父の戦争体験⑨】

これは母から聞いた戦時中の話。
母は大正10年生まれ。農家の長女として一家を支えた。母親は早くに亡くなり父親は身体が不自由だった。その為農作業をする傍ら3人の妹弟達の世話もした。
末弟が少年飛行兵に志願し山梨の兵学校に入った。或る日その弟から手紙が届いた。面会の日を知らせる手紙で、会いに来て欲しいと書いてあった。面会の日付を見ると明日だった。母は取るものも取り敢えず急いで山梨に向かった。
リュックに餅米だけを入れて。弟にぼた餅を食べさせてあげようと思ったのだ。
一昼夜かけてやっと山梨の駅に着いた。そこからは寄宿舎まで歩きだ。母は歩きながら思っていた。「この餅米を炊かなければならない。台所を使わしてくれる家はないだろうか」
一件の家を見つけた。母はその家の人に事情を話すと快く承諾してくれた。その家で餅米を炊くことが出来た。
面会できる時間は迫っていた。母は道を急いだ。しかし寄宿舎に着いたとき面会時間は終わっていた。弟に会うことは出来なかった。母は門番の兵隊に事情を話し作ったぼた餅を弟に渡してくれるようにお願いし東京に帰った。
その弟(私の叔父)は戦後グレて家を飛び出し度々警察の厄介になった。近所で評判の悪になった。母も父も相当苦労していた。叔父は住所不定無職のまま路上で倒れて亡くなっているところを発見された。
私が中学生の頃だった。

【父の戦争体験⑧】

2020-10-03 04:22:20 | 日記
私の父は大正4年生まれ。91歳の天寿を全うした。農家の三男として生まれ兵役後そのまま軍隊に残り職業軍人として終戦まで満州に駐留した。中学出の父だったが准尉まで出世し下士官となった。終戦時ソ連軍の捕虜となりシベリアに抑留され昭和24年に帰国。
戦争のことはあまり話したがらない父だったが私(現在64歳)が子供の頃に時々話してくれたいくつかの戦争の話を書き留めておきたい。
戦争体験者が少なくなってきている日本で貴重な体験談を受け継ぎ次の世代に伝えていくことは私達子供の役目ではないかと思う。私は平和主義を蔑(ないがし)ろにする今の日本の風潮に危機感を持っている。
「戦争は絶対してはならない」の立場から父が話してくれた戦争の話をお伝えしようと思う。



【父の戦争体験⑧】

アヒル事件。
これは父がシベリヤから帰国してからの話。
アメリカ人はクリスマスに七面鳥を食べるという話を聞いた父は一儲けしようと考えた。七面鳥は手に入らないので代わりにアヒルを売ったら駐留軍のアメリカ兵に飛ぶように売れるのではないかと思った。
早速、父は子供のアヒルをたくさん買ってきてクリスマスまでに大きく育てて売ることにした。東京の田舎のことである。アヒルを育てるには場所も餌も困らなかった。
クリスマスが近づきいよいよ市場に持って行こうとした或る日。
父がアヒルの飼い場に行ってみるとアヒルがみんな倒れていた。父の言葉を借りると「虫の息でグロッキーになっていた」そうだ。
父は言った。
「イタチにみんな血を吸われてしまったんだ」
当時はここ東京の江戸川区にもイタチが普通にいたのだ。
父の儲けの企みはこうして見事に失敗した。アヒルは売れず損しただけ。

生き物を飼うのが好きな父だった。
犬、ネコ、鶏、キジ、うさぎ、熱帯魚、鶯等々。私達子供もよく世話をさせられた。
私が動物に愛着があるのは父の影響だ。


【父の戦争体験⑦】

2020-10-01 11:02:58 | 日記
私の父は大正4年生まれ。91歳の天寿を全うした。農家の三男として生まれ兵役後そのまま軍隊に残り職業軍人として終戦まで満州に駐留した。中学出の父だったが准尉まで出世し下士官となった。終戦時ソ連軍の捕虜となりシベリアに抑留され昭和24年に帰国。
戦争のことはあまり話したがらない父だったが私(現在64歳)が子供の頃に時々話してくれたいくつかの戦争の話を書き留めておきたい。
戦争体験者が少なくなってきている日本で貴重な体験談を受け継ぎ次の世代に伝えていくことは私達子供の役目ではないかと思う。私は平和主義を蔑(ないがし)ろにする今の日本の風潮に危機感を持っている。
「戦争は絶対してはならない」の立場から父が話してくれた戦争の話をお伝えしようと思う。



【父の戦争体験⑦】

父は自動車の運転が出来た。自分で勉強して免許を取った。軍隊でも自動車を運転した。
或る日、自動車2台で上官を乗せて目的地に向かっていた。先頭の自動車は1番運転の上手い兵隊が運転することになっていた。父は先頭の自動車を運転することが出来なかった。先頭の次の2台目の自動車を運転することになった。
自動車を走らせていると突然敵の戦闘機がやって来て攻撃を受けた。
真っ先に先頭の自動車が狙われた。先頭を走る自動車には1番偉い人物が乗ることを敵は知っているので最初に狙われたのだ。爆弾が落とされ先頭の自動車は跡形もなく破壊された。乗っていた者は皆死んだ。
父の運転する自動車は攻撃から何とか逃げ切ることが出来た。
「俺が運転が1番上手くて先頭の自動車を運転していたら俺が死んでいた」
と父は言っていた。

戦場では何が生と死を分けるか解らない。
いつも死と隣り合わせだ。