ビーンの不定期日記

その日の事や思ったことを…

 「思いつき
   いかげん日記」

【父の戦争体験①】

2020-09-18 04:33:47 | 日記
私の父は大正4年生まれ。91歳の天寿を全うした。農家の三男として生まれ兵役後そのまま軍隊に残り職業軍人として終戦まで満州に駐留した。
中学出の父は准尉まで出世し下士官となった。終戦時ソ連軍の捕虜となりシベリアに抑留され昭和24年に帰国。
戦争のことはあまり話したがらない父だったが私(現在64歳)が子供の頃に時々話してくれたいくつかの戦争の話を書き留めておきたい。
戦争体験者が少なくなってきている日本で貴重な体験談を受け継ぎ次世代に伝えていくことは私達子供の役目ではないかと思う。私達には平和な日本を子孫に受け渡す義務があると思うからだ。
そして今の日本の国情に今後平和を維持していけるのか国や国民の方向性に危機感を持っているからだ。
私が聞いた戦争の話を皆さんにも知って欲しい思う。


【父の戦争体験①】

20年くらい前だと思う。
お正月に私達子供3人が実家に集まった席で父は突然にそして何気なく話し出した。それは私達子供にとっては衝撃的なことだった。父は戦時中に満州で結婚していたと言ったのだ。母とは再婚だったのだ。
本土の女性と見合い結婚し満州で暮らしたのだ。子供も一人生まれた。だが子供はすぐに亡くなった。暫くして妻も病気で亡くなった。母とはシベリアから帰国後再婚したのだ。満州には亡くなった妻と子供のお墓がある。
私は父に尋ねた。「満州に行ってみたいと思わないの?お墓があるんでしょ?」
父は言った。「行ってみたいとは思わない。悲しい嫌なことを思い出してしまうから」
80歳を超えた父の心の痛みが如何ばかりであったか、私には到底想像もつかない父の悲しみを見た気がした。

父の日

2020-06-22 11:16:43 | 日記
先日の日曜日は父の日でした。
私は父が91歳で亡くなるまで誕生日と父の日にはお祝いをしていました。

私には息子が一人います。 
娘もいましたが亡くなりました。
息子から誕生日祝や父の日のプレゼントを貰うことはごく稀で数年に一度しかありません。
今年は誕生日も父の日も何もありませんでした。 

私は感謝されない父親です。
10年前に借金を背負って死のうと思い家出をしたのです。  
会社はクビです。 
神戸でホームレスをしていたところを息子に発見され東京に連れ戻されました。 

その後、苦労をかけた妻は末期がんで亡くなり、娘は結婚を前に自死しました。 

そんな私を息子が感謝するはずはありません。
 
今、私が生きているだけでも私は感謝しなければいけませんね。


娘の命日

2020-05-26 12:31:17 | 日記
今日で娘が亡くなってから丸2年になります。
仏壇に豪華な花を飾りました。 
花屋さんに言って、娘の好きだったヒマワリを沢山入れてもらいました。
果物も買ってきてお供えしました。

家には誰も来ないけど、お花や果物に娘が喜んでくれたら、それで、いいです。


我が家のネコが亡くなりました

2020-05-22 02:32:07 | 日記
昨夜我が家のネコが亡くなりました。
22年間家族と共に、否家族の一員として我が家の皆を和ませてくれました。

22年前、雨の日、当時中学生だった息子が悲痛な顔をして産まれたばかりの子猫を拾ってきました。
「ダンボール箱に入れられて道端に捨てられていた!」
コロン(娘がつけたネコの名前)はあっという間に我が家の人気者になりました。

時は流れ、息子は結婚し家を出、一番世話をしていた妻は2年半前に亡くなり、とても可愛がっていた娘も妻が亡くなって半年後に亡くなりました。
その後今日まで、これまで一番世話をしなかった私が彼コロンの世話をしてきました。
私とコロンの二人だけの生活です。

1年ほど前からコロンは体調が優れなくなり度々病院のお世話になるようになりました。
何と言っても人間の年齢でいったら有に100歳は超えているのですから身体に悪い所が出てきて当たり前です。
この1ヶ月は毎日病院へ通いました。
食事をしなくなり、立つことが出来なくなりました。
最期は寝床で眠るように静かに息を引き取りました。

コロンの最期を看取ることが出来て私は幸せだったと思います。
そして亡くなった娘の遺言を果たせたことに正直なところ安堵しています。

実は娘は自死したのです。
遺書があり、そこには「コロンをよろしくお願いします」と書いてありました。

娘に何もしてあげられなかった私はその言葉がずっと心に重くのしかかっていました。
娘の最期の願いだけでも責任を果たさなければ、と思いコロンと生活を共にしてきました。

最期は大往生してくれて、これで娘にも報告できます。

今、私の心の中にポッカリと穴が空いた感じです。
私にとっても次々と家族が亡くなっていくのは寂しいものです。 
22年もの間、一つ屋根の下で暮らしたのです。