私の父は大正4年生まれ。91歳の天寿を全うした。農家の三男として生まれ兵役後そのまま軍隊に残り職業軍人として終戦まで満州に駐留した。中学出の父だったが准尉まで出世し下士官となった。終戦時ソ連軍の捕虜となりシベリアに抑留され昭和24年に帰国。
戦争のことはあまり話したがらない父だったが私(現在64歳)が子供の頃に時々話してくれたいくつかの戦争の話を書き留めておきたい。
戦争体験者が少なくなってきている日本で貴重な体験談を受け継ぎ次の世代に伝えていくことは私達子供の役目ではないかと思う。私は平和主義を蔑(ないがし)ろにする今の日本の風潮に危機感を持っている。
「戦争は絶対してはならない」の立場から父が話してくれた戦争の話をお伝えしようと思う。
【父の戦争体験⑩】
これも母から聞いた話。
母は大正10年生まれ。病弱の父親に代わってわずかばかりの土地で農業をしていた。
まだ父と結婚する前の終戦直後の話。
母は近所の人からあることを聞いた。神田の市場に野菜を持って行けばいい値段で野菜が売れると。
「そんなに野菜が売れるなら直ぐにでも神田市場に行こう」と決めた。
母は家で採れた胡瓜や茄子等たくさんリヤカーに積んで市場に向かった。
市場まで3時間は有に掛かる。若い女一人でリヤカーを引き続けるのは辛かった。しかし野菜が売れれば生活の足しになると頑張って引いた。
ようやく市場に着いた。市場に来るのは初めてだ。どのように売ったらいいのか分からない。そこで近くの人に聞いてみた。
「野菜を市場で売ろうと思って来たのですが、どうしたらいいでしょうか?」
その人は言った。
「あんた、権利を持っていないと市場では売れないよ」とつっけんどんに言われてしまった。
母はそれを聞くとビックリし、そしてとても落胆した。リヤカーを何時間も引いてきた身体からみるみるうちに力が抜けていった。
母は無知だった。それも当然だった。
小学校は4年生までしか行かせてもらえなかった。そして幼い妹弟達の子守をし奉公にも出された。学も無く世間にも無知だった。
だから市場に行けば誰でも持ってきた野菜を売れると思ったのだ。
野菜を積んだままのリヤカーを力なく引いてまた何時間もかけて家に帰るしかなかった。
私は母が不満を言っているのを見たことが無い。地味な人で黙々と農作業をする姿が私が子供の頃の母の印象だ。
私は60半ばの歳になったが、今母のことを思うと母は偉い人だったと思う。
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