私の父は大正4年生まれ。91歳の天寿を全うした。農家の三男として生まれ兵役後そのまま軍隊に残り職業軍人として終戦まで満州に駐留した。中学出の父だったが准尉まで出世し下士官となった。終戦時ソ連軍の捕虜となりシベリアに抑留され昭和24年に帰国。
戦争のことはあまり話したがらない父だったが私(現在64歳)が子供の頃に時々話してくれたいくつかの戦争の話を書き留めておきたい。
戦争体験者が少なくなってきている日本で貴重な体験談を受け継ぎ次の世代に伝えていくことは私達子供の役目ではないかと思う。私は平和主義を蔑(ないがし)ろにする今の日本の風潮に危機感を持っている。
「戦争は絶対してはならない」の立場から父が話してくれた戦争の話をお伝えしようと思う。
【父の戦争体験⑨】
これは母から聞いた戦時中の話。
母は大正10年生まれ。農家の長女として一家を支えた。母親は早くに亡くなり父親は身体が不自由だった。その為農作業をする傍ら3人の妹弟達の世話もした。
末弟が少年飛行兵に志願し山梨の兵学校に入った。或る日その弟から手紙が届いた。面会の日を知らせる手紙で、会いに来て欲しいと書いてあった。面会の日付を見ると明日だった。母は取るものも取り敢えず急いで山梨に向かった。
リュックに餅米だけを入れて。弟にぼた餅を食べさせてあげようと思ったのだ。
一昼夜かけてやっと山梨の駅に着いた。そこからは寄宿舎まで歩きだ。母は歩きながら思っていた。「この餅米を炊かなければならない。台所を使わしてくれる家はないだろうか」
一件の家を見つけた。母はその家の人に事情を話すと快く承諾してくれた。その家で餅米を炊くことが出来た。
面会できる時間は迫っていた。母は道を急いだ。しかし寄宿舎に着いたとき面会時間は終わっていた。弟に会うことは出来なかった。母は門番の兵隊に事情を話し作ったぼた餅を弟に渡してくれるようにお願いし東京に帰った。
その弟(私の叔父)は戦後グレて家を飛び出し度々警察の厄介になった。近所で評判の悪になった。母も父も相当苦労していた。叔父は住所不定無職のまま路上で倒れて亡くなっているところを発見された。
私が中学生の頃だった。
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