『いつも、いつでも元気炸裂!』

どんな環境やどんな状況でも、どんな人とでも明るく元気な笑顔で交流するよう心がければ自他ともに更に元気な心が増幅します。

ぎんなんを食べる度に亡き友人の姿が思い出される。

2020-12-04 10:17:58 | 喜怒哀楽をポジティブに
先日、妻千恵子選手の絵手紙仲間から「ぎんなん」をたくさんいただいた。
何かのきっかけで「ぎんなん」が私の好物だということを覚えていて
いただいたようで去年に続き今年もまたこんなにたくさん・・・と
思うほどの数・・・。

妻千恵子選手は食べてもせいぜい3~4個、息子夫婦や娘夫婦に
声をかけても要らない・・・という。
その理由はあまり好きではない・・・そして面倒くさいということらしい
時には臭いなどと失礼な事まで・・・。

私はいつのころからか紙の封筒に数個入れて電子レンジで「チン」と
いう簡単な方法で、あの透き通ったような綺麗な緑色の宝石のように
なった実を食べるのが一番だと思っている。

以前は3年前に亡くなった友人が毎年、自ら拾った実を綺麗に洗い、
乾燥させたものをこの時期に仲間のみんなに持ってきてくれていた。
その友人の命日が今日なのだ。
時々記事に登場する私たちの仲良し仲間『爺さんカルテット』が以前は
この友人を含め5人の『爺さんクインテット』だったのだ。

いずれも私が社会人として最初に勤務し、20年後に退社した会社の
どこかの支店や事業所などで一緒に仕事をした仲間達で、その彼は
私より3歳年上だが5人の中で一番健康的な生活をしていたのでは
ないかとみんなからも言われていたのに・・・・

彼のエピソードはたくさんあるが、まだ若い頃に出身地である新潟まで
普通の自転車で帰省したことも語り草に・・いや、武勇伝になっている。

またクインテットの集まりの時には彼の住まいである東京の練馬区から
私たちの住む埼玉県のさいたま市や川越市、ふじみ野市、三芳町
などへも早朝に出発し、幾つもの駅の距離を歩く・・・ということで
歩くことがあまり好きではない私にとっては考えられない驚きの健脚だった。

彼は誰もが驚くほどの倹約家であったが決して「ケチ」という印象ではなく
使うべきところにはお金の出し惜しみはせず、出すべきところと出さない
ところの区別、基準をしっかりと決めて無駄を省き上手にお金を使う・・・
という私には到底まねのできない人だった。

私たちの勤めていた会社では当時(若い頃)、20代後半には多くの人が
家を購入するという風潮があり、彼も早くから都内に家を購入し、倹約家の
本領を発揮しながらその後、中古だが御殿のような大きな家に買い換え、
リフォームして2番目の娘夫婦と同居・・・ということで私たち「埼玉組」
からすると驚くほどお金の有効活用に長けた人だった。

仕事には厳しく、仕事が終わった後の時間は人が変ったように部下を
フォローしたり時には大好きな酒で酔い潰れ、ベンチに寝たり、転んで
怪我をしたりと言う意外な面も多かったが私たち『爺さんクインテット』の
本当にいい仲間だった。

他の4人も若くして家を建てたのは会社のお陰もあったが彼がお手本
だったり、彼の助言なども有効に活用できたからかもしれない。
余談だが・・私も最初に建てた志木市の家から上福岡市(現在のふじみ野市)に
移り、順風満帆な生活だったが自分の我が儘で会社を辞めて、起業
した結果、いろんな事があり、結局は家を手放すことにもなり、家族にも
心配をかける結果を招いたのだ。
その後再就職した会社のお陰(信用度)で再び家(マンション)を購入
することができたのだが・・・

彼は普段は誰もが知る名だたる倹約家であったが休日には東京や
近県ではつけ麺で有名な「大勝軒」のつけ麺を食べることを最大の喜び
とし『昨日は◯◯の大勝軒に行ってきた』などと子供のように喜ぶ姿が
今も目に浮かんでくる。

私はいつも『125歳まで生きる・・・』と豪語しているが彼こそが
最高齢になるのでは・・・とみんなで話していたのにメンバー最年長
とはいえ、一番早く逝ってしまうとは・・・
酒は呑んでも暴食はせず、毎日かなりの距離を歩き、私たちにはできない
健康的な生活で仲間のお手本のような人だったのに・・・

これから電話で『爺さんカルテット』の仲間とともにそれぞれに懐かしい
思い出を語り合いたいと思う。

そして私は今夜は一人、「キンキンに冷えたビール」と「ぎんなん」で
彼のことを思い出しながら優しい先輩を思い、心は温かく過ごそうと思う。


コメント (3)
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