月刊パントマイムファン編集部電子支局

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『パントマイムの歴史を巡る旅』第11回(清水きよしさん(1))

2012-11-12 06:29:48 | スペシャルインタビュー
1950~60年代のパントマイムの開拓期。パントマイムが日本に入ってきてまだ間もなかった頃の状況は、どうだったのであろうか?その当時に活動を始め、今やヨネヤマママコ氏、あらい汎氏らとともに、日本のパントマイム界の第一人者として活躍する、清水きよし氏に、氏の長年にわたる活動や作品、当時のパントマイムの状況にかけて語って頂いた。
※インタビューは何十年も昔のことも触れているため、100%正確でない可能性があります。ご了承ください。

■清水きよし氏 プロフィール
1947年 東京・吉祥寺にて生まれる
1968~70年 日本マイム研究所にて佐々木博康氏に師事
1970年 東京銀座・東芝ホールで、仲間と初の自主公演「1+1プラス1 et une『マイム市』」を上演
1970年 並木孝雄氏と「舞無羅」を結成(72年に解散)
1978年 マイムシアターぴえろ館を結成(99年に解散)
1979年 「幻の蝶」を東京・労音会館で初演
主な作品には、これまで125回上演した「幻の蝶」のほか、「KAMEN」「マイム・ファンタジア」などがある。

佐々木 まず、清水先生がマイムに出会ったきっかけは何でしょうか?
清水 僕がパントマイムに出会ったきっかけは、映画「天井桟敷の人々」ですね。僕の時代は、生でマイムを観るなんていう幸せがまずなかったですから。活動している人は何人かいましたが、一般にはほとんど知られていませんでした。僕は、元々セリフのある舞台をやろうとして、演劇の研究所に行っていましたが、自分の肌に合わず、何をしようかと迷っていたときに、子どもの時に観た「天井桟敷の人々」のパントマイムを思い出して、もしかしたら、僕はマイムが合っているかなと思って探していたら、たまたま演劇雑誌に日本マイム研究所の生徒募集広告があって訪ねていきました。当時の日本マイム研究所のスタジオは、日本にいながらにして、パリの雰囲気があるようなモダンなスタジオでした。
佐々木 スタジオはどんな様子でしたか。
清水 スタジオは、虎ノ門と新橋の中間くらいのところで、1階の道路際に面したところが看板屋さんの作業所、奥が先生の住居になっていて、2階がスタジオでした。看板屋さんの作業所の向かって右側に薄いグリーンのガラスのドアがあって、そのドアのガラスにチャップリンの絵が描いてあったのです。看板屋さんだから絵が得意で、入る時と出る時にチャップリンの表と裏が見られるようなオシャレな絵でした。その扉を開けて階段を上っていくと、両側にパントマイムや舞踏のポスターが貼ってあって、正面にマルソーの写真が貼ってあって、「おおっ、パントマイムだ」って思いました。二十歳ぐらいの若造には、それだけでパントマイムの気分に浸れてしまうようなものがありましたね。

佐々木
 当時の日本マイム研究所についてお聞きしたいのですが、初代所長の及川廣信さんは、どんな方ですか?
清水 クラシックバレエの方からお聞きしたのですが、及川さんは、元々クラシックバレエをやっていらしたと聞きました。それから、マイムと並行して、舞踏の方に入っていかれたそうです。
佐々木 そもそも佐々木博康先生のお父様が日本マイム研究所の設立に関わっていたそうですね。
清水 スポンサーというかパトロンで、銀座や新橋で何店かキャバレーを持っていて、お金持ちで芸事がお好きだったのでしょうね。息子さんの佐々木先生がパントマイムに興味があるので、及川さんを初代の日本マイム研究所の所長ということで新橋のスタジオを作ったそうです。その間、佐々木先生はフランスに渡って、ドゥクルーのところで1年か2年勉強されて、佐々木先生が帰国した時に、経緯は定かではないのですが、及川さんはスタジオを出ていかれて、佐々木先生が研究所を引き継いだそうです。及川さんは、その後にご自分のグループのアルトー館を作りました。及川さんは、アルトー館ではマイムと舞踏の中間の作品を作られていました。及川さんが日本マイム研究所にいらっしゃった時には、舞踏家との関わりが非常に深かったそうです。
佐々木 及川さんは、日本マイム研究所の時に、舞踏と関わりがあったのですか。
清水 及川さんは、その頃は、マイムをやっていたのだけど、その時代に舞踏家と交流があって、その中で及川先生は、舞踏というジャンルにすごく興味を持って舞踏に傾斜していかれたと思います。一方、佐々木先生もフランスに行く前には舞踏の舞台に出られたそうで、交流も深かったようですが、1年か2年のパリ留学でマイムの比重が大きくなり、帰国してすぐに日本マイム研究所を引き継いで所長になられたそうです。
佐々木 なるほど。
清水 僕がスタジオに入ったのは、佐々木先生が帰国して多分2年目です。三橋郁夫さんが先輩で活躍していました。三橋さんは、及川さんと佐々木先生の両方に教わったと思います。三橋さんと一緒に石丸さんという方がいましたが、その当時にお二人は、日劇のミュージックホールなどで、「パントマ」という名のグループで活躍していたのです。ミュージックホールのショーの合間に、2人でショートショートのパントマイムを上演していました。石丸さんは、僕が入って、3、4年後に三橋さんと一緒に渡仏したと思います。三橋さんは何年かパリで活躍して帰国して、石丸さんは、そのままフランスに活動を移されたそうです。

佐々木 当時、日本マイム研究所には生徒は何人程いたのですか。
清水 僕が入ったときは、先程説明した、三橋さん、石丸さんはもう外で活躍されていたのであまり稽古には出ていませんでした。他に、1年先輩の伊藤敏也さん、同期でもう1人男性と確か女性もひとりいて、多分稽古で一緒にやっていたのは、その4人くらいだったですね。他にも何人かいたかと思いますが、時々しか出ていなかったと思います。それで僕の1年後に並木さん、和田蓉子さん、吉田明美さん、吉田洋さんら何人かが入ってきて、大分賑やかになってきました。

佐々木 当時は、週何回くらいのクラスがあったのでしょうか。
清水 僕が入った頃は、佐々木先生が教えていました。週3回のレッスンがあって、そのうちの2回が佐々木先生で、1回が大野一雄先生でしたね。
佐々木 大野一雄さんは舞踏で有名な方ですね。
清水 2010年に亡くなられた、伝説的な舞踏家です。僕が入った頃は、週1回舞踏の時間があって、その中で舞踏との交流があったのです。
佐々木 当時はパントマイムと舞踏との交流は結構あったのですね。
清水 そうですね、舞踏は、モダンダンスを組み合わせたような物語性もあって、根っこでは、かなり似たようなところがあるのかもしれません。ドゥクルーの作品は、体の運動だけで感情を表現するなど舞踏につながっていくようなところがありますね。お互いに通じあうところがあって、一緒に活動していたと思います。

佐々木 1970年に上演した初の自主公演について教えてください。
清水 (スタジオに在籍中に)並木孝雄君と伊藤敏也さんと銀座の東芝ホールという会場を借りて、和田蓉子さんが制作して、3人で公演を上演しました。
佐々木 その公演は、どういう舞台だったのですか。
清水 基本的に3人がそれぞれの作品を演じるという形で、僕は僕の作品、並木君は並木君の作品、伊藤さんは伊藤さんの作品を演じました。タイトルは、先日の「マイムマルシェ」じゃないけど、「マイム市」という題です。その後、僕と並木孝雄君は方向性の違いから2人とも一緒にスタジオを辞めてしまい、伊藤さんは「俺は、もう1年残る」とおしゃって、スタジオに残られたのですよ。僕と並木君は、辞めてから「舞無羅」というグループを作りました。
(つづく)
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