〈最新翻訳〉人間を!使い捨てる!東京電力・福島第一原子力発電所〈第1回〉「放射性核物質、差別される人々」ロジャー・ウィザースプーン / エナジー・マターズ - 全文翻訳は → kobajun.chips.jp
がん生存率8倍「漢方」の底力
余命3カ月から生還/余命数ヵ月と宣言された後、漢方を服用して10年以上働き続ける人もいる。
しびれ、むくみ、口臭...冷え性、子どものアレルギーにも効果
AERA今週号から
おとちゃんがレストランで車いすを理由に入店を拒否された話をちょっと考えていた。どなたかが指摘していたけれどサービス問題なのか人権問題なのかの認識の違いで全く景色が違うと言っていた。僕もそこの境目と違いをずっと考えている。
例えば100年前に黒人であるという事を理由に入店拒否は行われただろうと思う。今それを行えば人権問題になるだろう。法の導入時期では黒人のお客さんがいるという事で白人のお客さんが減るという事もあっただろう。商売から考えれば多少ネガティブでも、もっと大きな社会正義の観点から法で縛った
犬を連れている方の入店拒否はどうだろうか。うちはそういうサービスを行っていませんという事で納得されるだろう。そこには犬を飼うという選択をしたその人がまずあるし、犬を連れ歩かないという選択もその人にはあるからだろう。盲目の方お断りというのとはわけが違う。盲目でない人生は選べない。
事前に連絡すべきだったのかどうか。おとちゃん含め、全ての障害者の方は事前に連絡をしてからレストランに向かうという健常者であれば行わない作業を必要とする。その作業を障害者だけがおうのはどの程度妥当なのか。許される範囲だろうか
発達障害というものがあり、彼らの学び方は少し違い学校で学ぶのが難しい時がある。だけれど完全に全ての子供に合わせた教育をできるほど国が予算を割けない。そうするとどこかで折り合わないといけなくなる。社会が想定している”普通”とずれている人達はどの程度許容されるべきなのか。
【終わり】人権問題を突き詰めると、才能を持って生まれなかった人と才能がある人の差をどう是正するかという所にも行き着くように思う。できないという事はなんなのか。不公平という事はなんなのか。人の権利が行き着く先と社会の負担はどこで折り合うのか。その先にはどういう社会があるのだろうか
アメリカだと車いすで入れないお店は営業許可がおりない。ADAという法律で厳格に規定されている。
イギリスだと障碍者学生が大学に色々お願いするのも当たり前です。遠慮する必要はありません。例えば電動車椅子の学生さんがある教室に入りにくかったら教室を変更します。家人の授業でも教室変えました。一学期間ずっと。当たり前だから誰も何も言わないし驚かない。
アメリカにいた時、お店なんかに事前に車いすで行く旨の連絡をしたことはなかったな。あ、ハワイ留学当初、大事なゲストと食事する際に一人車いすがいると伝えたことあったな。そしたら、「OK、海の見える最高の席とっておくよ!」と言われた。粋だよね。
まあね、「車いすだから入店は無理」ならまだしも「他のお客様に迷惑」とか言われちゃうと、超凹むのよね。
僕がまだ車いす生活になる前、医大生だった20年近く前のことですが、JR御茶ノ水駅には階段しかありませんでした。車いすを使った人が来ると、駅員さんがホームにいる人に呼びかけて、四人で車いすを抱えて階段を上がっていました。僕も何度か手伝ったことがあります。続く
こういう時に手を貸してくれた人って、駅員さんの呼びかけでスーッと集まって、手伝い終わったら何事もなかったかのようにスーッといなくなるような人が多かった。僕はそれがすごいかっこいいなと思い、そういう大人になりたいなと心に誓ったのです!
車いすに乗っていての発見。待っていたエレベーターが満員だった時、「乗ってきな!オレ階段で行くから!」と爽やかに降りていくのがアメリカ人。もう入れませんオーラを出しまくるか、まったく目も合わせずドアが閉まるのを待っているのが日本人。