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【コールド・ゲーム】
高校野球の地方大会では2000年度より、決勝戦を除いて「5回以降は10点差以上、7回以降は7点差以上付いた場合」はコールド・ゲームとなった。
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全国高等学校野球選手権大会の地方大会も終盤を迎えている。ひと夏に懸ける球児達の必死な思いが見ている側にはひしひしと伝わって来て、下手なドラマを見るよりも遥かに心を揺り動かされるのは毎年の事だ。地方大会を記事で取り上げているブログは少なからず在り、おりがみ様も「波乱の神奈川県予選」という記事を書いておられる。その中でおりがみ様は7月15日に行われた「日大藤沢v.s.横浜」の試合が7回コールド(7-0)で横浜勝利に終わった事に触れられ、「この予選の『コールド』ルールって非情だよ~。」と書かれているが、「その気持ちは理解できるなあ。」と思った次第。
ところで、冒頭に記した様に2000年度以降はコールド・ゲームの規定が全国共通となったが、それ以前はコールド・ゲームとなる為の点差に付いて地域によってバラバラだったと言う。それが改められたのは、今から10年前に起きた或る“事件”がきっかけだった。7月20日付けの東京新聞(朝刊)には「高校野球『122-0』から10年 『やられても立ち直れる』」という記事が。
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【122-0】
1998年7月18日、夏の高校野球青森大会、東奥義塾と県立深浦の試合は「122-0」という記録的な大差となった。これは高校野球の最多得点記録(7回コールド)で在る。野球経験の乏しい1年生が多かった深浦は無安打で満足にアウトも取れない状態だったが、東奥義塾は最後迄手を抜かず86安打の猛攻。体調を心配した深浦の監督は試合放棄を相談するも、選手達は継続を望んだ。
試合後、深浦を称える報道の一方、「弱いなら出場するな。」とテレビでコメントされたり、「東奥も弱い者虐め。」とする批判が新聞に投書される等、広く議論を呼んだ。神奈川県の小学校で「道徳」の教材に使用されたり、高校野球でコールド・ゲームの回数短縮のきっかけともなった。
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当時、深浦の監督を務めていたのは工藤慶憲氏(35歳)。夢だった野球部監督になったばかりで、過疎の町の高校で選手を勧誘し、懸命に漕ぎ着けた初采配が「122-0」の試合だった。試合後、「(選手達が)野球を嫌いにならなければ良いが・・・。」と選手を庇って泣いたという工藤氏。試合から数週間経った或る日、彼は土のグラウンドに線を引き、部員に対して次の様に言った。「練習を厳しくする。付いて来る奴だけ越えて来い。」。この言葉に1年生全員が線を越え、部は存続の危機を免れ、2年後の夏には敗れはしたものの、深浦はシード校から4点を奪ったと言う。
一方、当時東奥義塾の監督だった小笠原一氏(63歳)は、選手時代に甲子園に出場し、母校の復活に懸けていたと言う。実力差は明白だったが、小笠原氏の「常に全力プレー。」という教えを忠実に守った選手達に対して彼は、「わざとアウトになれとは言えなかった。」と。同時に「でも、あれで正解だったのか?」という思いも在り、今も悩み続けているそうだ。
試合の翌年、小笠原氏はくも膜下出血で妻を失い、病気の母親を介護し乍ら東奥義塾の監督を務め続けて来た。ずっと深浦を気に懸けて来た彼が監督勇退を決めた2004年夏、奇しくも深浦は初勝利を上げる。その瞬間を小笠原氏は観客席で見届けていたそうで、本当は声を掛けたかったが「おめでとう!」は胸の内に秘めた。
「10年前、東奥義塾と逆の立場だったらどうしたか?」というう記者の問いに、工藤氏は「間違い無く手を抜かない。やられても立ち直れると、身をもって知ったから。」と答えている。又、当時1年生で3年時は主将を務めた元深浦のい松岡拓司氏(25歳)は「あの試合は大変だったけど、一人も辞めずに続けたのは監督が好きだったから。」と。嘗ての人気ドラマ「スクール☆ウォーズ ~泣き虫先生の7年戦争~」(動画)を思わせるコメントだ。
あれから10年。昨年分校になり、名前が「木造深浦」となった旧深浦。今夏、2004年以来の夏2勝目を上げたと言う。
【コールド・ゲーム】
高校野球の地方大会では2000年度より、決勝戦を除いて「5回以降は10点差以上、7回以降は7点差以上付いた場合」はコールド・ゲームとなった。
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全国高等学校野球選手権大会の地方大会も終盤を迎えている。ひと夏に懸ける球児達の必死な思いが見ている側にはひしひしと伝わって来て、下手なドラマを見るよりも遥かに心を揺り動かされるのは毎年の事だ。地方大会を記事で取り上げているブログは少なからず在り、おりがみ様も「波乱の神奈川県予選」という記事を書いておられる。その中でおりがみ様は7月15日に行われた「日大藤沢v.s.横浜」の試合が7回コールド(7-0)で横浜勝利に終わった事に触れられ、「この予選の『コールド』ルールって非情だよ~。」と書かれているが、「その気持ちは理解できるなあ。」と思った次第。
ところで、冒頭に記した様に2000年度以降はコールド・ゲームの規定が全国共通となったが、それ以前はコールド・ゲームとなる為の点差に付いて地域によってバラバラだったと言う。それが改められたのは、今から10年前に起きた或る“事件”がきっかけだった。7月20日付けの東京新聞(朝刊)には「高校野球『122-0』から10年 『やられても立ち直れる』」という記事が。
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【122-0】
1998年7月18日、夏の高校野球青森大会、東奥義塾と県立深浦の試合は「122-0」という記録的な大差となった。これは高校野球の最多得点記録(7回コールド)で在る。野球経験の乏しい1年生が多かった深浦は無安打で満足にアウトも取れない状態だったが、東奥義塾は最後迄手を抜かず86安打の猛攻。体調を心配した深浦の監督は試合放棄を相談するも、選手達は継続を望んだ。
試合後、深浦を称える報道の一方、「弱いなら出場するな。」とテレビでコメントされたり、「東奥も弱い者虐め。」とする批判が新聞に投書される等、広く議論を呼んだ。神奈川県の小学校で「道徳」の教材に使用されたり、高校野球でコールド・ゲームの回数短縮のきっかけともなった。
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当時、深浦の監督を務めていたのは工藤慶憲氏(35歳)。夢だった野球部監督になったばかりで、過疎の町の高校で選手を勧誘し、懸命に漕ぎ着けた初采配が「122-0」の試合だった。試合後、「(選手達が)野球を嫌いにならなければ良いが・・・。」と選手を庇って泣いたという工藤氏。試合から数週間経った或る日、彼は土のグラウンドに線を引き、部員に対して次の様に言った。「練習を厳しくする。付いて来る奴だけ越えて来い。」。この言葉に1年生全員が線を越え、部は存続の危機を免れ、2年後の夏には敗れはしたものの、深浦はシード校から4点を奪ったと言う。
一方、当時東奥義塾の監督だった小笠原一氏(63歳)は、選手時代に甲子園に出場し、母校の復活に懸けていたと言う。実力差は明白だったが、小笠原氏の「常に全力プレー。」という教えを忠実に守った選手達に対して彼は、「わざとアウトになれとは言えなかった。」と。同時に「でも、あれで正解だったのか?」という思いも在り、今も悩み続けているそうだ。
試合の翌年、小笠原氏はくも膜下出血で妻を失い、病気の母親を介護し乍ら東奥義塾の監督を務め続けて来た。ずっと深浦を気に懸けて来た彼が監督勇退を決めた2004年夏、奇しくも深浦は初勝利を上げる。その瞬間を小笠原氏は観客席で見届けていたそうで、本当は声を掛けたかったが「おめでとう!」は胸の内に秘めた。
「10年前、東奥義塾と逆の立場だったらどうしたか?」というう記者の問いに、工藤氏は「間違い無く手を抜かない。やられても立ち直れると、身をもって知ったから。」と答えている。又、当時1年生で3年時は主将を務めた元深浦のい松岡拓司氏(25歳)は「あの試合は大変だったけど、一人も辞めずに続けたのは監督が好きだったから。」と。嘗ての人気ドラマ「スクール☆ウォーズ ~泣き虫先生の7年戦争~」(動画)を思わせるコメントだ。

あれから10年。昨年分校になり、名前が「木造深浦」となった旧深浦。今夏、2004年以来の夏2勝目を上げたと言う。

今年の青森大会は、永遠のライバル光星学園vs青森山田で、明日決勝戦です。
3年前の決勝もこのカードで、青森山田の柳田投手(現ロッテ)は、MAX149キロの速球を武器に、決勝まで1点も許していませんでした。決勝でも8-1と圧勝でしたが、この1失点は、光星(八戸市)の4番坂本勇人が放ったバックスクリーンへの本塁打です。当時、地元の青森山田を応援していましたので、あの本塁打は残念に思っておりました。あの坂本選手が巨人に入り、今シーズン活躍するまでに成長するとは・・・
この夏、母校(公立校)が15年ぶりに準決勝まで勝ち進み、仕事の都合でちょうど帰省していた私は、球場に足を運び応援してきたしだいです。試合結果は、残念ながら1-8の7回コールドでの敗戦。相手チームは決勝も勝ち上がり、甲子園出場を果たす結果となりました。
自力に勝る私立校相手に、残り3イニングでの逆転はほぼ不可能と感じましたが、9イニングを戦わせてあげたかったところです。とはいえ、30年ぶりの甲子園を目指す後輩達のはつらつとしたプレーを観戦すると、私まで若返った気がしました。
甲子園出場を果たしたチームには、ぜひとも県民悲願の甲子園1勝を勝ち取って欲しいものです。個人的にタイムリーな記事でしたのでコメントさせていただきました。
試合結果、本当に残念でしたね。近年は公立高校の野球部も強くなって来ましたが、それでも越境入学で有望選手を掻き集められる私立高校に立ち向かうのはなかなか難しい。自分の母校も公立高校で、在学時に“弱い”野球部が予選の初戦で強豪校に勝ってしまい、生徒や親達が「これは甲子園に行けるかも。」と“一瞬”期待したものです。結局は“予定通り”第二戦で敗退しましたが。