へそ曲がりおじさんのひとり言

常識にとらわれるのが嫌い。
他人と同じ事が嫌い。
世の中、別な角度から見ると新しい物が見えるから。

個人の声、政治に映せ

2008年09月15日 23時38分12秒 | Weblog
今朝の朝日新聞経済欄の記事の見出しなのだが、「個人の声」とはいったいどのようなものなのだろうか・・・・。
記事は少し読み始めただけで止めてしまったのだが、止めた理由は、記事の内容が「記事を書いたオレの言う意見(個人の声)を聞け」と言った感じで、このような論理がまかり通るのであれば、何の苦労も無いのではないだろうか・・・・。
「個人の声」と簡単に言うが、私がブログに書いていることも「個人の声」であり、日本の国民一人一人も「個人の声」を持っていることが考慮されていないのである。
このことは「民意を反映させる」と言うことにも当てはまり、一つ一つを反映させていたら収拾が付かなくなってしまい、いたずらに混乱を招くだけでしかない。
ここで話が少し横道にそれるのだが、大河ドラマ「篤姫」の人気が高いのは「現政権の混乱の反動」と言う見方も出来るような気がするのだが・・・・。
ドラマの背景には「幕末の混乱した時代」と言うものがあり、登場人物の中には「私利私欲を捨て国の将来のために命を奉げる」と言う人が多く登場しするのだが、彼らがとった行動は、多くの場合「民意は度外視されている」ではないか。
初期の頃の話には、「多額の借金に苦しむ薩摩藩の財政再建」と言うテーマのストーリが盛り込まれていたが、このときにも領民の気持ち(民意)が取り入れられていただろうか・・・・。
これ以外にも「藩のため、国のためなら自らの命を犠牲にしてもよい」と言う人が大勢出てくるのだが、今の時代は「自分さえよければいい」と言う、私利私欲でしか物事を考えない人ばかりである。
「当時と今とでは時代が違う」と言う論理も成り立たないわけではないが、重大な局面を迎えた現状を考えると「この局面を乗り切るためには、民意(個人の声)を犠牲にするのも止むを得ない」と私は考えるのだが・・・・。
民意ばかり気にしていては「船頭多くして船山に登る」と言うことと同じことがおきるだろう。
かつて「不沈空母」と言われていたこともある日本は、いったいどこに流されてゆくのであろうか・・・・。
気が付いたら「船が沈んでいかだに乗って流されていた」などと言うことにならねばよいのだが・・・・。
コメント (4)
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「物質的豊かさ」か「精神的豊かさ」か・・・・

2008年09月15日 04時44分44秒 | Weblog
私個人の生活を見ると、「物質的豊かさには欠けるが、精神的豊かさはある程度ある」と言うことが出来るのではないだろうか・・・・。
「物質的豊かさ」は、お金がないと実現は難しいのだが、「精神的豊かさ」の方は、お金が無くても気の持ちようで実現は可能で、これからの時代は「精神的豊かさの方にシフトする」と言うことが必要になると思うのだが・・・・。
私が子供だったころには「何は無くとも楽しい我が家」と言う言葉が流行ったように、今と比べれば「何も無かった」と言ってもよい状態ではあったが、けして「惨めで貧しい」と言うことは無かったはずであるが、今の時代では、お金が無かったり、就職に失敗したりすると、とたんに「惨めで貧しい」と言う状態になることが多いのだが、これは「物質的豊かさを追い求めた結果起きた弊害」ではないだろうか?。
現代社会では「売らんかなの商業主義」によって次々に新しい商品が作られているため「満足している暇が無い」と言う状態になり、常に「精神的飢餓状態にある」と言ってよいだろうが、昔は、「右を向いても左を向いても何も無い」と言う状態だったので「精神的飢餓状態」と言うことは有り得なかったのである。
昔の話を持ち出すと、「懐古趣味」と言われるかもしれないが、「地球規模の景気後退局面」を迎えていることを考えれば、安易に「懐古趣味」とかたずけることは出来ないと思うのだが・・・・。
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