今回の中山国交相の問題発言で思い出した言葉で、最近の若い人はご存じないだろうが、かつて埼玉県選出で「荒船清十郎」と言う国会議員がいたのだが、才能を期待されて大臣になったのはいいのだが、大臣になったとたん「問題発言が多く辞任」と言うことになってしまい、その事に対して言われた言葉で、「野原で見るレンゲソウはきれいだが、鉢に植えるとダメだ」と言うような意味が転じて「見所があるので大臣にしたが、大臣にしたらダメだった」と言うことであるが、こんなことは至る所にある話であろう。
私も含めて、人間にはいろいろなタイプがあり、肩書きが付くことによって良くなる人もいれば悪くなる人もいるし、時には肩書きにつぶされてしまう人さえ出てくるのだが、かなりの「人を見分ける能力」を持った人でも見分けることは難しいだろう。
ましてや、二年で3人も総理大臣が変わり、そのたびに新しい大臣(一部留任もいるが)が選ばれるのだから「人材不足」と言うことになり、残された人の中から選ぶ以上「ハズレ」が出ても仕方ないだろう。
今の日本社会は「枝葉にこだわって根幹を忘れている」と言う状態になってしまい、まさに「迷走状態」に陥っているのである。
「民意が政治に反映されていない」とよく言われているのだが、私から見ると「これ以上民意に振り回されてどうするのだ!」と言いたくなる。
民主党小沢代表の掲げる政策もまた「民意に迎合」したものでしかないのだが、麻生総理の掲げる政策にしても「民意に迎合」したものに過ぎず、ともに「財源の裏付けが無い」と言う部分で共通している。
ともに「景気回復」と言うことに力点を置き、「内需の活性化」と言うことを言っているのだが、本当に活性化できるのだろうか?・・・・。
「無駄をなくして財源を確保」などと言っているようだが、これも民意に沿った考え方なのだが、正直な話「無駄を無くしたらどうなるのか?」と言うことを真剣に考えて事があるのだろうか?・・・・。
無駄=不要なもの、と考えられがちであるが、本当の意味で「無駄」と言えるものがあるのだろうか?。
「無駄の無い社会」と言うと、一見「理想的な社会」のように見えるが、「水清ければ魚住まず」と言うように、現実には住みにくい社会になってしまうのである。
「そんなことは無い」と言う人が多いと思うのだが、現実の世界は厳しく、冷静になって自分自身の生活を考えて見てほしいものである。
「国ですることと一般家庭ですることは違う」と言う意見もあるかもしれないが、現実はまったく同じ事で、家庭内の「ありとあらゆる無駄」をなくした状態を考えてほしい。
今私がこうして書いているブログも「無駄」と言うことになり、お菓子も果物も携帯電話も音楽プレーヤーもきれいな洋服も靴も化粧品も宝飾品も高級食材も・・・・もと、無くなってしまったらどんな生活になるのであろうか・・・・。
「お金が残るだけ」と考える人もいるだろうが、それはとんでもない間違いで、実際には「多くの産業が成り立たなくなり失業者だらけ」と言う状態に陥ってしまうのである。
真の意味の「無駄の無い社会」とは、文明の利器など何も無かった「原始社会」で、へそ曲がり的な考え方をすれば「無駄が人間社会を発展させてきた」と言えるだろう。
景気対策のために「無駄をなくして財源に充てる」などと言うことをしても、所詮は「場当たり的な一時しのぎ」に過ぎず、その後には「増税・自己負担の増加・・・・」と言う厳しい現実が待ちうけていることに気が付くべきだと思うのだが・・・・。
私も含めて、人間にはいろいろなタイプがあり、肩書きが付くことによって良くなる人もいれば悪くなる人もいるし、時には肩書きにつぶされてしまう人さえ出てくるのだが、かなりの「人を見分ける能力」を持った人でも見分けることは難しいだろう。
ましてや、二年で3人も総理大臣が変わり、そのたびに新しい大臣(一部留任もいるが)が選ばれるのだから「人材不足」と言うことになり、残された人の中から選ぶ以上「ハズレ」が出ても仕方ないだろう。
今の日本社会は「枝葉にこだわって根幹を忘れている」と言う状態になってしまい、まさに「迷走状態」に陥っているのである。
「民意が政治に反映されていない」とよく言われているのだが、私から見ると「これ以上民意に振り回されてどうするのだ!」と言いたくなる。
民主党小沢代表の掲げる政策もまた「民意に迎合」したものでしかないのだが、麻生総理の掲げる政策にしても「民意に迎合」したものに過ぎず、ともに「財源の裏付けが無い」と言う部分で共通している。
ともに「景気回復」と言うことに力点を置き、「内需の活性化」と言うことを言っているのだが、本当に活性化できるのだろうか?・・・・。
「無駄をなくして財源を確保」などと言っているようだが、これも民意に沿った考え方なのだが、正直な話「無駄を無くしたらどうなるのか?」と言うことを真剣に考えて事があるのだろうか?・・・・。
無駄=不要なもの、と考えられがちであるが、本当の意味で「無駄」と言えるものがあるのだろうか?。
「無駄の無い社会」と言うと、一見「理想的な社会」のように見えるが、「水清ければ魚住まず」と言うように、現実には住みにくい社会になってしまうのである。
「そんなことは無い」と言う人が多いと思うのだが、現実の世界は厳しく、冷静になって自分自身の生活を考えて見てほしいものである。
「国ですることと一般家庭ですることは違う」と言う意見もあるかもしれないが、現実はまったく同じ事で、家庭内の「ありとあらゆる無駄」をなくした状態を考えてほしい。
今私がこうして書いているブログも「無駄」と言うことになり、お菓子も果物も携帯電話も音楽プレーヤーもきれいな洋服も靴も化粧品も宝飾品も高級食材も・・・・もと、無くなってしまったらどんな生活になるのであろうか・・・・。
「お金が残るだけ」と考える人もいるだろうが、それはとんでもない間違いで、実際には「多くの産業が成り立たなくなり失業者だらけ」と言う状態に陥ってしまうのである。
真の意味の「無駄の無い社会」とは、文明の利器など何も無かった「原始社会」で、へそ曲がり的な考え方をすれば「無駄が人間社会を発展させてきた」と言えるだろう。
景気対策のために「無駄をなくして財源に充てる」などと言うことをしても、所詮は「場当たり的な一時しのぎ」に過ぎず、その後には「増税・自己負担の増加・・・・」と言う厳しい現実が待ちうけていることに気が付くべきだと思うのだが・・・・。