へそ曲がりおじさんのひとり言

常識にとらわれるのが嫌い。
他人と同じ事が嫌い。
世の中、別な角度から見ると新しい物が見えるから。

相変わらずの茶番劇

2012年02月22日 18時17分46秒 | Weblog
最近やたらと「国会中継」が放送されているのだが、毎度の事であるが、いつもと同じ「茶番劇」に終始している。

NHKとすれば「公共放送」と言うことで放映しているのだろうが、質問する側は「有権者の目」ばかり意識した質問になっている。

以前書いたように「国会議員は人気稼業」である事を考えれば当然の話で、これを何とかしない限りどうしようもないだろう。

それを解決する方法もあるのだが、それを実施すると「世論(民意)の反発」にあい、問題の解決は不可能になってしまうのである。

民主党の対応にも問題がないわけではないが、それ以上に問題なのは、建設的意見を出そうとせず、ただひたすらに「揚げ足取り」に終始している野党の方に問題があるだろう。

私が自治会の役員をやっていたときの話はすでに書いているが、そのときはほとんど話し合いで問題を解決し、多数決による決定は出来る限り避けてきた。

それを実現させたのは「建設的意見」なのである。

しかし、「金銭的負担増」となると話は少し変わって来るのだ。

金銭的負担増となると話をまとめることは大変なのだが、それでも時間をかけて話せば解決する事は多い。


それにしても公明党の質問はひどいと思う。

まあ、支持団体である「創価学会」の存在を考えると当然の事だが、そんなことで政治が歪められているなど誰が考えるだろう。

議員は人気稼業であるのだから、それを支える有権者たちの考え(民意)が変わらない限り無理な相談だが・・・・。

いまや民意の中心は「我々高齢者」になりつつあり、高齢者の考えが変わらなければ日本社会は変わらないだろう。

「既得権益」にしがみついているのは、官僚たちではなく「我々高齢者」なのだから。
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馬鹿げた話

2012年02月22日 17時41分22秒 | Weblog
これは今月分の電気使用量だが、「36%の削減」とあるのは少々誤りである。

日数的に考えると「34%の削減」が正しく、2泊3日の入院を差し引くと「30%の削減」と言うことになるだろう。

入院中は最低限の電気器具だけだったので、「60%」の削減にはなっているが、それでも予想よりは少し多いように感じた。

70%は削減できると思っていたが、一部にコンセントの抜き忘れもあり、目標の達成は出来なかったが・・・・。


実はここで馬鹿げた話を書こうと思う。

これは知り合いの男の話で、その男の話を聞くと「コンセントを抜いて待機電力を減らしているのに、電気の使用量は全く減らない」と言うのである。

一時期「待機電力」が話題になったが、実は、私は余り関心を持っていないのである。

最近は待機電力も少なくなっていて、その効果は微々たるものなのである。

彼のことでついでに言うなら、かつて、電気消費量が少ないというのでプラズマテレビを買ったのに「逆に電気代が増えた」と言うのである。

プラズマテレビを買う前は「21型ブラウン管テレビ」であったが、電気消費量が少ないと言ううたい文句につられ「50型」と言う大画面のプラズマテレビを買ったのである。

これでは電気代が増えるのは当たり前の話で「液晶よりは少ない」と言う部分がわかっていないのである。

待機電力にしても同じで、その効果は「微々たる物」でしかない。

それでは私の場合はどうであろうか。

待機電力より「テレビを見る時間を減らす」「照明は最低限にする」といった方法で対処しているので、以前よくやっていた「ながら見」はかなり減っているし、「時計代わり」と言う事もほとんどなくなっている。

待機電力など「テレビを見る時間を10分減らす」と言うことのほうがはるかに効果があるだろう。

日本人は小手先で何事も済ませようとする悪い癖がある。

これも以前書いているのだが、レジ袋の削減も同じことだろう。

やらないよりはましなのだが・・・・。
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また新たなメニューが

2012年02月20日 18時05分45秒 | Weblog
病院の管理栄養士が、蛋白源として「魚の缶詰」を使うように助言してくれたのだが、実際に使ってみると上手く食べられないのである。

病院ではミキサーにかけた物が出されていたのだが、魚の種類によるのかもしれないが、口に入れるとざらついた感じで上手く飲みこめない事もしばしばで、正直な話、2回試しただけで断念していた。

ところが、昨日買い物に行ったとき、うなぎの蒲焼を「半額」で売っているのを見て、「ヒョットすると食べられるかも」と思い、ダメモトで思い切って買ってみた。

もともとうなぎは好きで食べたいとは思っていたが、魚の缶詰のイメージが強く、チョット躊躇していたのである。

昨夜は食べなかったのだが、今朝食べたところ何とか食べられる。

尻尾の方は少し小骨(尾びれ?)があり食べられないのだが、それ以外は何とか食べられる。

肉の感じも缶詰とは全く違い、ザラザラした感じはしない。

これなら他の魚も自分で煮れば何とかなるかもしれないので、次は別の魚にチャレンジしよう。

もともと好き嫌いはないのだが、肉よりは魚の方が好きである。

肉も食べられない事はないのだが、準備に少々手間がかかるので最近はほとんど使わない。

管理栄養士は「ひき肉」を使えばよいというのだが、実際の話し、ひき肉は上手く飲み込めないのだ。

それではどのようにするかと言うと、牛肉の霜降りを冷凍し、凍った状態で薄く(1ミリくらい)切るので、少々面倒な作業である。

これも身から出たさびなのだから仕方ないが・・・・。
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新メニュー?

2012年02月19日 19時14分13秒 | Weblog
食事をすることが「大仕事」と書きましたが、マンネリを打ち破る?ような物を見つけました。

そに1は、天ぷらです。

ただ、普通の天ぷらではダメで、出来るだけ衣の多いものでなければいけませんが、南瓜の天ぷらなら大丈夫です。

食べ方は、普通の天つゆを使うのだが、衣の多い天ぷらを天つゆで煮込むだけで、後は柔らかくなった衣の部分を食べるのです。

油分が多く、カロリー的には最適なのだが、しばらく脂っこいものを食べていなかったせいでしょう、昨日までの2日間「生理的な下痢」に悩まされましたが、昨夜遅くには回復し、今はナントもありません。

その2は、水羊羹ですが、こしあんで代用しています。

そのままでも良いのだが、水に溶かすことが多いです。

これもカロリーが高く、時間が無いときは重宝です。

その3は、アイスクリームです。

これもカロリーが高く、栄養的にも優れています。

そのままでは冷たすぎるので、少し解かしてから食べるのですが、解けるまで多少時間がかかるのが難点ですね。

その4は、コカコーラです。

もともと好きな飲み物だったのですが、今まで何となく買いそびれていましたが、買い物籠に何本も入れている人を見て思い出したのです。

そのままでは炭酸が強すぎるので、少しガス抜きをして飲んでいます。

昔は200ミリリットルの瓶を一気飲みしたものですが、今ではとても無理です。

昔は今より炭酸が強く、一気飲みできない人とが多かったので、良く「一気飲み競争」をしたものです。

あと、カルピスとccレモンも買いましたが、こちらはイマイチで、カルピスのほうが多少ましなように感じます。
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病気は自分で治すもの?

2012年02月19日 00時42分12秒 | Weblog
ある人のブログにコメントしたのだが、その中に、病気は医者が治すものではなく、医者は病気に対する助言をするだけで、基本的には「病気は自分で直すもの」だと書いている。

成人病などではそれも当てはまるかもしれないが、これはある意味で「医者に対する冒涜」だと私は思っている。

成人病や一部の病気では通用するかもしれないが、それは病気の程度が軽い場合の話で、重症化してしまえば自分で直す事などできないだろう。

その人はご主人が前立腺ガンになったのだが、ガンの程度が軽かったようで、手術はしていないようである。

手術をせずに食事制限で対応しているらしいのだが、その程度ではかなり軽症ではないだろうか。

私のように「レベル3」になっては医者の助けがなければとても無理な話である。

私は医者の存在を非常に重要視していて「病気は自分で治す」などと言うことは毛頭考えた事もない。

軽症であれば自分で直そうという気にもなるだろうが、それは思い上がりと言うもので、下手をすると「命取り」と言うことにも成りかねないのである。

私の場合だが、始めは単なる「口内炎」だと思い、医者には行かなかったのである。

この時点で適切な対応をしていればもっと軽くて済んだろうが、「病気を自分で治そう」と言う気持ちが逆に働いてしまったのである。

冒頭に書いた人にしても、食事制限で対応できるのも「医者のおかげ」だと感謝するべきだろう。

「病気は自分で治す」などと言う思い上がるは捨ててほしいものである。

私は入院中常に担当医に感謝をしていて、それは病院内でもかなり知れ渡っていたようで、直接担当していない医師までが病室に来て心配してくれたのである。

これは看護師に対しても同じことが言えるだろう。

こちらが感謝をすれば相手も同じように気を使ってくれて、長期の入院もそれほど苦にはならなかったのである。

今でも週に一回外来で通院しているのだが、時間が許す限りナースステーションに顔を出している。

すると何人もの看護師さんたちが集まってくれ「元気そうすね」とか「傷口が綺麗なので安心した」など、私を元気ずけるような話をしてくれるのである。

勤務状態で会えない人もいるが、次の週に行くと「先週は会えなくて寂しかった」などと、人を喜ばせる用のことを言う看護師さんもいるのだ。

医者がいるから食事制限で済むのであって、医者がいなければ助かる命も助からないのだ。

医者だって人の子である。

ましてや命を救ってくれる大事な存在で、間違っても「病気は自分で治す」などという思い上がった気持ちは持たないで欲しいものである。

手術をするような状態だったらそんなことは言わなかっただろう。

軽症だから言えることで、人間の身勝手さが言わせているのだろう。
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少し古い話だが

2012年02月18日 18時22分03秒 | Weblog
若い世代には実感がないかもしれないが、20年余り前まで「バブル景気」にわいた時代がありました。

その数年後には右肩下がりの景気が一時的ではあるが、上昇曲線を描いた時期がありましたが・・・・。

しかし、この上昇曲線も一時的でしかなく、その後は長期低落傾向に歯止めをかけることが出来ません。

それでは一体どうしてバブルがはじけ、長期低落傾向に歯止めがかけられのであろうか。

様々な意見が言われているのだが、私は全く違う意見を持っています。

バブルがはじけたのも、その後の一時的景気回復に水を差したのも、「国民の正義感」に原因があるなど誰が考えるだろうか。

しかし、現実には国民の正義感が景気回復の足かせになっていることは確かである。

「そんな馬鹿な!」と言う声が殆どだろうが、これから書くことを冷静に考えてみて欲しい。

景気の良し悪しは「市場に流通するお金の量で決まる」と言われるのだが、国民の正義感がお金の流れを妨げている事に気がついてほしい。

バブルのころは、何千万だとか、何億だとか言うお金が闇で動いていて、それが景気を支えていたのであるが・・・・。

ところが、それを知った国民が猛烈に反発をし、闇で動くお金を止めててしまったのだ。

数年後に訪れる景気回復をつぶしたのは「官官接待」を糾弾した事である。

闇のお金も、官官接待で動いたお金も、一たび善意の人に手に渡ると「良価」に代わることは意外い知られていない。

これが所謂「マネーロンダリング」なのです。

さて、何億などと言う金額を聞くと大金に思えるだろうが、実際はそんなことはないのである。

またしても「そんな馬鹿な」と言う声が聞こえてきそうだが、ここは冷静になって考えてみて欲しい。

「ワタシはバブルの恩恵にあずかっていない」と言う人も多いのだが、100億のお金を日本中にばら撒いたとしたら、国民一人当たりいくらになるか考えて見て欲しい。

1億3千万近くいる日本人全てに平等に分けるとしたら、100億にお金では「百円玉一個にもならない」と言うことに気がつくだろう。

1兆3千億と言う巨額のお金でも「一万円札一枚」にしかならず、バブルの恩恵の実感がわかないのは当然の話である。

このころは巨額の裏金にしか目が行かず、それを止めるとどんな事になるかまで考える人はいなかっただろう。

私だって気がつかなかったのだから。

悪い手段で得たお金でも、一たび善意の人に渡ると綺麗なお金に変身するように、そのお金で潤っていた人たちにまで影響が及び、結果として、消費の衰退から「景気の低迷」につながってしまうのである。

単純に私の文章を読むと「悪いお金の流れを認めろ」と思うかもしれないが、そんなことを言っているのではありません。

私が言いたいのは、悪いお金とは言っても、お金の流れを止めた以上「景気の低迷は容認しろ」と言うことである。

「官官接待」だって、その背後には多くの人が絡んでおり、最終的にはあなたの財布にも及んでいるのです。

しかし、その金額は「一円」かもしれないが。

これを逆に考えれば、国民一人一人が一万円使うと、経済効果は「一兆三千万近く」になるのだが、実際は不景気を理由にお金を使おうとしない。

最近はやり?の「振り込めサギ」だか、これも考え方を変えると「死蔵資産の発掘」と言う良い?面もあるだろうが、けして容認はしていませんよ。

ここまで書けば景気回復がいかに難しいかわかると思うのだが・・・・。
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自分勝手な高齢者たち

2012年02月17日 18時58分24秒 | Weblog
私自身もその一員なのだが、今の社会を住み難くしているのは、私も含めた「高齢者」たちではないだろうか。

この記事の内容は、本来ある人のブログにコメントとして書くつもりでいたのだが、少々過激?な部分もあり、何度もコメントするのがはばかれるので、ここに書くことにしたのです。

何度も同じ問題にコメントを繰り返すと「アラシ」と言われかねませんから。

事の発端は、原発建設に関する問題で、データーに嘘があることに触れています。

ところが・・・・・。

そのことを非難するようなことばかりが書かれていて、それを改善する事には触れていないのです。

国会議員や専門家たちに心を改めるように要求するのは良いのだが、そのような社会を作り上げたのはいったい誰なのであろうか。

私は、議員や専門家たちの考えを改めさせるには「国民自身」が変わる必要があると思っている。

しかし・・・・。

その人は「子供を教育する事から始めなくてはいけないので、時間がかかりすぎる」と言う趣旨の回答をしているのだが・・・・。

「子供を教育することから」と簡単に言うが、そのような教育ができる教師がいないではないか。

教師がいなければ教育が出来るはずもなく、永久に問題は解決しないのである。

それでは一体どうすればよいのかと言うと「我々高齢者が考えを改める」のが最もよい方法であると私は思っている。

今の社会を作った元凶?は我々高齢者で、後に続く若い世代は「その背中」を見て育ってきたので、高齢者が変わらなければ日本の社会も変わらないのである。

「子供は親の背中を見て育つ」と言うように、我々高齢者が手本を見せる必要があるのだ。

しかし・・・・。

現実の世界は全く逆で、高齢者は「既得権益」にしがみつくばかりで、若い世代の事など考えようともしない。

これで世の中が変われば「奇跡」だろう。

民主党政権になった当時、官僚などが「既得権益」にしがみついている事が問題になったが、最も既得権益にしがみついているのは「高齢者」の方ではないだろうか。

「人の振り見て我が振り直せ」と昔はよく言ったものだが、それを言っていた本人たちが出来ないのである。

自分が出来ない事を他人に要求する。

これは「身勝手」の典型ではないだろうか。

世の中を変えたいのなら「自分自身が手本を示す」と言うことが必要なのだが、高齢者たちは既得権益にしがみついて離そうとしない。

「消費税が引き上げられると暮らしてゆけない」と言う高齢者が多いが、自分たちだけが暮らしてゆけばそれでよいのだろうか。

我々高齢者は「若い世代に支えられている」と言うことに「全く気づいていない」と言うより、自らの既得権益を守るために「シカト」しているだけなのである。

一千兆円にも及ぶ国の借金にしても、我々高齢者が若い頃に作り始めたもので、そのツケを後の世代に押し付けている。

こんな身勝手な高齢者がいる限り、日本の将来は「お先真っ暗」だと思うがね。

「少子高齢化社会」と言うが、これは「高齢者が多数を占める」と言うことに他ならず、何事にも「多数決」で決めたがる日本社会では邪魔な存在でしかないだろう。

これは私が良く書くところの「数の暴力」にもつながるのだ。

数に物をお言わせるような社会ではどうしようもないだろう。
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ナントもおかしな話です

2012年02月13日 18時33分59秒 | Weblog
今日テレビで放送されていた中で、エ?!!、と思うような部分があった。

それは、「寄付をした分を確定申告すると税金が戻ってくる」と言う内容である。

以前から確定申告をすればお金が戻ってくるのは知っていたが、その金額を見て驚きである。

収入や家族構成によってその金額に違いはあるだろうが、その一例として、年収500万の人が1万円寄付した場合のことが出ていた。

私は「多くても数百円程度」と考えたのだが、その金額を聞いてビックリである。

その金額はナント「8千円」だと言うのだ。

1万円寄付して8千円戻ってくれば、実質的な寄付金額は「2千円」にしかならない。

しかしである。

実質的には2千円の寄付にしかならないにもかかわらず、寄付した本人は「1万円寄付した」と思っているのだから困ったものである。

確かに、寄付金の1万円は被災者のもとに送られるだろうが、国や自治体には8千円もの「税負担増」を強いているのである。

少しでも寄付をする人を増やす目的で作られた制度らしいのだが、これでは「本末転倒」ではないだろうか。

しかも、この恩恵を受けられる人は「寄付をした金額の証明」が出来る人だけで、匿名はもとより、街頭募金や店頭などに置かれた募金箱に寄付した人は対象にはならないのである。

2千円の寄付で1万円寄付した気分になれる。

ナントもおかしな話ではないだろうか・・・・。

私もいくばくかの金額を寄付しているが、証明するものは何もない。

これからも確定申告で還付を受ける気などないので、証明するものなどもらう気はない毛頭ないのだが・・・・。

私の父は生前かなりの金額を日本赤十字に寄付をしていたのだが、その動機は余り褒められたものではないだろう。

父が寄付をした目的は「日赤からの感謝状」をもらうことで、感謝状は額に入れ、人の目に付くところへ飾っていて、よく自慢していたものである。

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消費税増税の必要性

2012年02月11日 18時36分28秒 | Weblog
今までこのことを書きたいと思いながら書けずにいたのだが、今回の闘病生活で状況は一変しました。

野田総理が一生懸命消費税の増税を成し遂げようとしているのだが、民主党の議員たちは戦々恐々としているのではないだろうか。

「議員は人気稼業」と書いたように、消費税の増税は確実に人気を下げる要因であり、人気稼業にとっては大変都合の悪い事なのである。

それにもかかわらず増税しようとしている野田総理に私は拍手をしたい。

しかし、5%の増税では「焼け石に水」ではないだろうか。

福祉関係に使うと言う事なのだが、その金額は年々増加をしていて、15%に引き上げたとしてもそう長くは持たないだろう。

これは「少子高齢化社会の宿命」で、高齢化を単純に喜んで入られないのである。

話を私に戻すが、昨年の夏までは健康保険の財政収支に貢献していた私だが、10月の手術以来「財政収支の悪化に加担する」と言う身に成り下がったしまったのである。

計算するための資料がないが、今まで貢献した分がどれだけあるのだろう。

年をとればとるほど私のような人間が増えるため、健康保険財政の悪化は避けて通れない問題で、それを補うための増税は「必要不可欠」な問題なのである。

それを避けたいなら「健康保険料の増額」と言うことになるが、いずれにしても出費の増加は避けられないのである。

そこで私はこう言いたい。

郵政民営化と同じように「健康保険の民営化」もしたらどうかということである。

健康保険を民営化するなどとんでもない話だが、そんな事を考えなければならないほど、社会保障が「危機的状態」になっているのだ。

国民年金にしても同じことが言える。

国民年金も社会保障の一つなのだが、何故このような状態になってしまうのだろう。

答えは簡単なのだが、それを知っている人は少ないだろう。

かつて私が聞いた話だが、その話は年金制度を立案した人の知り合いからのもので、年金制度が立案された当時と今では状況が全く違うのである。

立案当時はこれほどの高齢化は想定されておらず、平均寿命も「70歳から75歳くらい」と考えていたらしい。

何しろ、立案当時の平均寿命は「60歳以下?」だったらしいのだから。

それに人口の増加も計算の中に入っており、さらには「高度経済成長」も重なっていて、状況は今と全く違うのである。

平均寿命が75歳なら、60歳から年金を支給しても「15年分」で済むが、80歳を超える現状では支給年齢を引き上げるしかないのだ。

それに「少子化」が追い討ちをかけ、「景気の悪化」までが足を引っ張るるのだからたまったものではない。

ついでに書いておくなら、平均寿命が低かったころは「年金をもらう前に死ぬ」と言う人も結構いたのである。

私の知り合いの親にも結構いて、最も可哀想なケースは「受給資格を得た日になくなる」と言う人さえいるのだ。

今でもいることはいるのだが、医療技術の発達で少なくなっているだろう。
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議員は人気稼業

2012年02月10日 18時50分47秒 | Weblog
最近やたらと国会中継が放送されているのだが、議員たちによる茶番劇?をどれだけの人が見ているのだろうか。

しかし、こんな茶番劇を演ずる議員たちを誰が選んだか考える人も少ないだろう。

「政治が悪いから日本の社会が悪くなった」と言う人が殆どだろうが、私はそうは思わない。

とかく大臣が不祥事を起こしたときに言う「任命責任」だが、茶番劇を演じる議員たちはいったい誰が選んだのであろうか。

書かなくてもわかるだろう。

「出たい人より出したい人を」と言う言葉があるが、選挙に立候補する人は「出たい人」ばかりなのだから、彼らが口にする言葉は「人気取り」になるのは当然だろう。

だから私は「議員は人気稼業」だと書くのである。

ついでに言うなら、権利には義務が付き物だと言う事も強調したい。

選挙権も立派な権利で、権利を行使した以上「義務(責任)」も負わなければいけないのだが、実際は、批判するだけで責任を取ろうとしない。

それでは「棄権」した場合はどうであろうか。

権利を行使しなかった以上責任を負う義務もないのだが、文句を言う資格もないのである。

このことも理解できない人が多いのも困ったものである。

私が3度町会議員への立候補要請を受けたことはすでに書いているが、私が当選したとして「果たして何が出来る?」と思いますか。

正直な話、私が考えるようなことは全く出来ないだろう。

無理に推し進めようとすれば「次の選挙で落選」と言うことになり、立候補する意味が全くないのである。

私と同じように立候補要請を固辞した人も同じことを言っており、政治腐敗は「有権者が作ったもの」と言うしかないのである。

ただ、最近の野田総理は少し違いが出ているように感じる。

人気稼業である以上「消費税増税」などと言う「有権者が嫌がる問題」には触れたくないはずが、それを実現しようと頑張っている。

しかし、10%では一時しのぎにしか過ぎないだろう。

「消費税が上がると生活してゆけない」と言う声が多いが、それでは20%も30%も消費税(付加価値税)を払っているヨーロッパの人たちはどのようにして暮らしているのだろう。

日本の何倍もの消費税を払っていても立派に暮らしている事を考えれば、日本だって出来ないはずはないのだが・・・・。

心の持ち方の違いがこのような差を生むのだろう。

五木寛之が「下山の思想」と言う本を出したそうだが、その内容は私が考えている事と同じではないだろうか。

日本社会はすでに頂上を過ぎていて、後は下るだけである。

下る事を素直に受け入れることが必要だと思うが・・・・。

景気回復など「夢のまた夢」だと思うのだが・・・・。

夢のまた夢を追いかけてイライラするより、現実を素直に受け入れたほうが気分的にスッキリすると思うがね。

少なくとも私はそう考えるが・・・・。
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