高齢者の定義を何歳からにするか、日本老年医学会、日本老年学会が検証を始めたというニュース。こんな名前の学会があることにまず、へぇっ、と思って読んでみると・・・65歳じゃ若すぎるという見出しは、どうなるのかわからない。一般的には65歳以上で、身体能力は75歳以上とする考えかたがあるようだ。身体能力の高い高齢者が増えているとか、もはや前期高齢者は高齢者と呼べない集団だと、長寿研究医療センタの所長が語っている。老年医学会が15人の専門家で検討会を設けることになった。東京都の健康長寿k両センタ研究所の調査で65歳以上の歩行速度が10年前よりも男女ともに11歳、握力で4~10歳、若返っている。ほかのデータでも、転倒の危険性は75歳以上で増すとある。総務省の人口推計で前期高齢者は65~74歳、後期は75歳から、高齢化率は65歳と決められている。 . . . 本文を読む
テレビをご覧になる、そのためにはコインがいる、そのコインを請求してやり取りをし、ベッドから落としてナースコール、トイレに自力で行こうとしてベッドから落ちる、介護をしようとするとことわる、それで便器を持ち込んでするのだがうまくできたのかどうか、見回りが来てたしかめて清掃となる、それで世間話をする、なんともにぎやかい、だが、どうもようすがおかしい、だんだん声に張りがなくなる、ように思えたら、寝る息のままにお休みだったりして、それをくりかえして、生とのたたかいだった、そう聞こえてくる。そうして、2年前のその日、ひとつの命をおくる。病室は相部屋であったので、カーテンで仕切られた窓側のコーナーに、ベッドにしばりつくように寝ていた。食事はさだめられたとおりに摂って日に日に体力の回復を見る。動けないのだけは苦労した。とにかく首をつっぱって背中を浮かすしかない。全身突っ張って痛いのだから、そうでない、そうならない姿勢を探すことになる。電動の背もたれを上げ下げするのが一大事のことであった。その生活にカーテンの向こうの、もう一つの窓側のコーナーに元気な方がいたのだが・・・ . . . 本文を読む
平常心是道は、へいじょうしん と読めば、ふだんの平穏な心となるだろう。それを仏教用語として、びょうじょうしん ビャウジャウと訓じて、日常ふつうの心、ふだんの気持、あたりまえの生き方を言う。無門関‐一九「南泉、因趙州問。如何是道。泉云。平常心是道」と見える。いわばこの語にすくわれることになるのは、しばらくしてからであるが、入院中もずっとこれを唱えていた。生と死の境であればこの語は役立たない。そのままに生きているか、あるいは死ぬからである。この境地を体得することは日常そのままである。死に隣り合うよりは生にあって病労苦を感じるときである。肺がいくつか部屋がありその18分の3を切除すると言われて、肺活量を測って人並みに余裕がある機能であるからその分には日常活動に影響しないと言われて、言われるがままになった。結果として機能回復は進んでその処置はその事実を受け容れることになる。そのように告げられたときは、インフォームドコンセントのありようで、右3分の1であると思い至ったときはどうなるかと思っていた。そのときは、それはまだ平常心の何たるものではない。 . . . 本文を読む
2年前のこの日だった。それからやりなおしたこと、体調管理だ。そうもうのは退院してからのことで、ま、ゆめの中で事なきを得て、それからの闘いは生きる意欲を持つこと、前に進める、ひとつを歩むことだった。こうしていられる人間の体の不思議を思う。生きている実感は2週間後に思っている。この日を記憶して書きとどめたものがある。平常心をいうのであるが、へいじょうしん、ではなくて、びょうじょうしん、というそうで、びょうじょう、とは、これいかに と、日本での禅の語を知る。平常心是道 は、中国の研究留学で知り得た。それで、平常心は、へいじょうしん と思い込んでいた。 . . . 本文を読む
生きていくには欲がいると気づいた。手術を受けて回復を図るときの思いだ。これは人生で2度目だから、よくよく救われない、いや二度も生き返った思いか。18のときと47年を経てのいま、いずれも、15から50年を数えることになる。体を慣らしてふと、気づくのである。欲という字義は、字通によれば、声符は谷、よう、谷に容よう、浴よく、裕ゆう の声があり、容は神容、浴・欲はその神容に接する法をいう、と解説し、これまで知っていた、谷を空虚、欠けん は口を開いて欲する意であるとするが、そのような造字の法はない、と説明している。明解だ。彷彿として神容のあらわれる意、その神容を拝するを願うを欲、その神容に接するを裕という、と解説する。この字義を知って、またそうであったかと思うことしきりだ。なんとなれば、白川静漢字学で、欲は、神につかえる態度をいう語である、人の欲望には慾という、とあるからである。 . . . 本文を読む
これは寛解か、あるいは予後か。医学的には寛解、Remission という語を用いるのは、これは永続的であるか一時的であるかを問わず、病気による症状が好転または、ほぼ消失し、臨床的にコントロールされた状態を指すと解説がある。国立国語研究所「病院の言葉」委員会 『病院の言葉を分かりやすく:工夫の提案』 勁草書房、2009年、p.p.12-13。一般的な意味で完治せずとも、臨床的に問題ない程度にまで状態がよくなる、あるいはその状態が続けば寛解したと見なすようだ。また、予後 prognosis、 Genesung とは、手術後の患者の状態や、病気・創傷の将来的な状態、特にそれらの状態に関する見込み、を意味する医学用語であると見える。こちらの方が医師の使い方によって、余命となるようである。
寛解と予後と、どちらがどうかは、わからないけれど、2年を迎えようとしている。あと3年のケアがあるようだ。3か月ごとだ。先日、9日に、Magnetic Resonance Imaging 磁気共鳴画像 の検査を受けて、頭部に異常は見られない。その検査で得意分野の脳梗塞なども、もちろん、なかった。この2年に2回受診したようだ。いずれも変わらない。 . . . 本文を読む
秋の気配が忍び寄る。あれだけ暑い夏が一気に変わるのか。残暑がまた巡りくるか。高気圧の張り出した太平洋の気圧配置が動けば、季節も移るだろう。病院の検診を受けにきて、画像生理と検体検査とを、いつものように済ませて待っている。先月末、検査をしているのでそれも合わせて診察である。むなし、むなし、と、心得つつ、2時間を待つ。医師に呼ばれて診察室へ。いつもと変わらぬ検査結果の所見だ。脳のスキャン写真に異常なし、脳梗塞などのことも心配ない。血液検査は正常値、レントゲンによる写真も変わりなし。次は12月に、決めて。ちょうど2年ですね・・・熱が出たりしませんか、食欲はありますか、いつもと変わりがないですか、など。 . . . 本文を読む