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フライトは中華航空だった、84年の夏、そういうころのことだ、この後すぐにも東方航空に代わる。以前に書いたことであるが、機内食がいきなり変わっていたのはそうなのだが、エアチャイナはどうなったと不覚にも思ってしまった。ま、この思い出となるとその後は日航との提携でのサービス業務にかわって、東方航空のチケットで乗っていたから乗務員の必死さにいろいろと思うことがさらにあった。
そう、機内食といえばおっかなびっくりの西方航空にも乗って一人で出かけたし、プラスティックのフォーク、スプーンになった南方航空にも乗ったことだし、これには安全な鉄道にも夜行でのってと、思うと、あちこちかけなはれて飛び回ったのが、いまにしてよく無事だったと思える。
お断りしなければならないのはすべて業務による出張であっても旅費は自弁だったが、しかしまた、専家の超がつかないにしてもその待遇には招聘によるVIPが、最初の始まりであったから、中華航空はそれに応じた赴任というので奮発してのファーストクラスのことになる。
そしてその15年後では、昨日の記事のことで述べた学会の旅行には天と地の違いになる参加をしていたうちの、99年だったから研究留学のときで、銅川には奨学生よろしく、珍道中となった。その翌々年、国務院招聘の発表会では北京郊外河北省のリゾートに行った。その北戴河は思い出深い。
現代日本語百科のサイトの記事より思い遥かにのサイトにふさわしい思い出なのでそちらに書いたか、書かなかったか。
銅川市には学会の見学に行ったのだけれど、あとで研究留学の報告をすることになったのが2001年のこと、それで考えてみるとこの時の留学中の旅行を大いに役立てる結果となる、なにしろ討論があって日本の若手の研究者が発表をして、それを聞いていて、実は中国語の議論はさっぱりわからないのにハンドアウト見て文字を追いながらわかろうとしていると、つまりは聞いていると何を言われているか、綿密な文献調査の引用でデータをつけていたのを批判されていた、やはり風土である、背景となる国が違う議論の雰囲気、巨視的な理論を持てと言われていたのだろう、というように、いくつかを観て聴いてその研究についてのとらえかたはわかったようだったと、あとにしておもったことがあって、つまりそれが2年後の自分のことにつながる、そのときのわたしの発表には通訳がついていたのもあって、何を問題とするかが分かることになる。
銅川での玄奘の会には得たものがいくつもあった、研究留学の成果で言えば留学のなにかを知る。時期は1999年だったけれど、それからの中国での研究は変わるところがない。