日本語は中国語を取り入れた。漢語を日本語のかたちのひとつとした。中国語は現代中国語として見るものではない。古代漢語である。その古代というのは歴史区分で言えば、中国の秦、漢を典型とする古代に相当する時期の古代である。秦、漢、三国時代から、晋、十六国、南北朝時代にかけて、隋の時代までの影響がまずあるだろう。581年に隋を建てる、首都大興城、西安、そして618年、唐を建てる、首都長安の時代である。遣隋使、遣唐使の果たした中国文明との接触、中国の文物の移入は計り知れない。
遣隋使が派遣されたのは、推古天皇15年、607年7月3日、小野妹子らが派遣された。隋書、東夷傳俀國傳は高祖文帝の問いに遣使が答えた様子を載せる。
開皇二十年 俀王姓阿毎 字多利思北孤 號阿輩雞彌 遣使詣闕 上令所司訪其風俗 使者言俀王以天爲兄 以日爲弟 天未明時出聽政 跏趺坐 日出便停理務 云委我弟 高祖曰 此太無義理 於是訓令改之
開皇二十年、俀王、姓は阿毎、字は多利思北孤、阿輩雞弥と号(な)づく。使いを遣わして闕(けつ)に詣(いた)る。上、所司(しょし)をしてその風俗を問わしむ。使者言う、俀王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未(いま)だ明けざる時、出でて政(まつりごと)を聴く跏趺(かふ)して座す。日出ずれば、すなわち理務を停(とど)めて云う、我が弟に委(ゆだ)ぬと。高祖曰く、此れ大いに義理なし。是に於て訓(おし)えて之を改めしむ。以上、ウイキペディアより引用。
2回目は、推古天皇16年、西暦608年のこと、9月11日に、小野妹子、高向玄理、僧旻、南淵請安ら、他8名の留学生、留学僧が出かけた。これは、日本書記に記録がある。小野妹子は翌年9月に帰国しているようである。遣隋使の派遣は何回行われたか、隋に派遣した朝貢使として、600年、推古8年から618年、推古26年までの18年間に5回以上派遣されていると解説する。なお、日本という名称が使用されたのは遣唐使からである、とある。
次は、小野妹子の子孫の方によるサイトである。
遣隋使 小野妹子
www.ononoimoko.org/kenzuisi.html
遣隋使(けんずいし)が派遣されたのは、隋(中国)の仏教や政治等の学問を学ぶためです。 ... 推古天皇16年(西暦608年)9月11日小野妹子、高向玄理(たかむこのくろまろ)、僧旻(そうみん)、南淵請安(みなみぶちのしょうあん)、他8名の留学生、留学僧等。
1回目 推古天皇15年(西暦607年)7月3日 =大業3年
小野妹子、他約50名。翌年4月、隋の使者、裴世清(はいせいせい)と共に帰国。
2回目 推古天皇16年(西暦608年)9月11日
小野妹子、高向玄理(たかむこのくろまろ)、僧旻(そうみん)、南淵請安(みなみぶちのしょうあん)、他8名の留学生、留学僧等。小野妹子は翌年9月帰国。
3回目 推古天皇22年(西暦614年)
犬上御田鋤(いぬがみのみたすき)、他。翌年帰国。
隋書倭国伝 全文
倭國在百濟、新羅東南、水陸三千里、於大海之中、依山島而居。魏時譯通中國三十餘國、皆自稱王。夷人不知里數、但計以日、 其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。其地勢東高西下。都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。古云、去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里、 在會稽之東、與儋耳相近。漢光武時、遣使入朝、自稱大夫。安帝時、又遣使朝貢、謂之倭奴國。桓・靈之間、其國大亂、遞相攻伐、 歴年無主。有女子名卑彌呼、能以鬼道惑衆、於是國人共立為王。有男弟、佐卑彌理國、其王有侍婢千人、罕有見其面者、唯有男子二人、 給王飲食、通傳言語。其王有宮室・樓觀・城柵、皆持兵守衛、為法甚嚴。自魏至于齊梁、代與中國相通。開皇二十年、倭王姓阿毎、 字多利思比孤、號阿輩雞彌、遣使詣闕。上令所司訪其風俗。使者言、倭王以天為兄、以日為弟、天未明時、出聽政跏趺坐、 日出便停理務、云委我弟。高祖曰、此太無義理。於是訓令改之。王妻號雞彌、後宮有女六七百人。名太子為利歌彌多弗利。無城郭。 内官有十二等、一曰大、次小、次大仁、次小仁、次大義、次小義、次大禮、次小禮、次大智、次小智、次大信、次小信、員無定數。 有軍尼一百二十人、猶中國牧宰。八十戸置一伊尼翼、如今里長也。十伊尼翼屬一軍尼。其服飾男子衣裙襦、其袖微小、履如屨形、 漆其上、繁之於脚。人庶多跣足、不得用金銀為飾。故時衣幅、結束相連而無縫、頭亦無冠、但垂髮於兩耳上。至隋其王始制冠、 以錦綵為之、以金銀鏤花為飾。婦人束髮於後、亦衣裙襦、裳皆有○○、竹為梳、編草為薦、雜皮為表、縁以文皮。有弓矢刀○弩○斧、 漆皮為甲、骨為矢鏑、雖有兵無征戰。其王朝會必陳設儀仗、奏其國樂。戸可十萬、其俗殺人強盜及姦皆死、盜者計贓酬物、 無財者沒身為奴、自餘輕重、或流或杖、毎訊究獄訟、不承引者、以木壓膝、或張強弓以弦鋸其項、或置小石於沸湯中、令所競者探之、 云理曲者即手爛、或置蛇甕中令取之、云曲者即螫手矣。人頗恬靜、罕爭訟、少盜賊、樂有五弦琴笛。男女多黥臂、點面文身、沒水捕魚。 無文字、唯刻木結繩。敬佛法、於百濟求得佛經、始有文字、知卜筮、尤信巫覡。毎至正月一日、必射戲飲酒、其餘節略與華同、好棋博・ 握槊・樗蒲之戲。氣候温暖、草木冬青、土地膏腴、水多陸少、以小環挂鸕○項、令入水捕魚、日得百餘頭。俗無盤俎、 藉以檞葉、食用手餔之。性質直有雅風。女多男少、婚嫁不取同姓、男女相者即為婚、婦入夫家、必先跨犬、乃與夫相見、 婦人不淫妒。死者斂以棺槨、親賓就屍歌舞、妻子兄弟以白布製服。貴人三年殯於外、庶人卜日而瘞、及葬置屍船上、陸地牽之、 或以小輿。有阿蘇山、其石無故火起接天者、俗以為異、因行禱祭。有如意寶珠、其色青、大如雞卵、夜則有光、云魚眼精也。 新羅・百濟皆以倭為大國多珍物、並敬仰之、恒通使往來。大業三年、其王多利思比孤、遣使朝貢。使者曰、聞海西菩薩天子重興佛法、 故遣朝拜、兼沙門數十人來學佛法。其國書曰、日出處天子、致書日沒處天子、無恙、云云。帝覽之不、謂鴻臚卿曰、蠻夷書有無禮者、 勿復以聞。明年、上遣文林郎裴清使於倭國、度百濟、行至竹島、南望○羅國、經都斯麻國、迥在大海中。又東至一支國、又至竹斯國、 又東至秦王國、其人同於華夏、以為夷洲、疑不能明也。又經十餘國達於海岸。自竹斯國以東、皆附庸於倭。倭王遣小阿輩臺、從數百人、 設儀仗、鳴鼓角來迎。後十日、又遣大禮哥多○、從二百餘騎郊勞。既至彼都。其王與清(相見、大曰、我聞、海西有大隋禮義之國、 故遣朝貢、我夷人僻在海隅、不聞禮義、是以稽留境内、不即相見、今故清道飾館、以待大使、冀聞大國惟新之化。清答曰、皇帝並二儀、 澤流四海、以王慕化故、遣行人來、此宣諭。既而引清就館。其後清遣人謂其王曰、朝命既達、請即戒塗。於是、設宴享以遣清。 復令使者隨清)來貢方物。此後遂絶。
(フォントにない文字があり表記できない個所があります。)。
遣隋使が派遣されたのは、推古天皇15年、607年7月3日、小野妹子らが派遣された。隋書、東夷傳俀國傳は高祖文帝の問いに遣使が答えた様子を載せる。
開皇二十年 俀王姓阿毎 字多利思北孤 號阿輩雞彌 遣使詣闕 上令所司訪其風俗 使者言俀王以天爲兄 以日爲弟 天未明時出聽政 跏趺坐 日出便停理務 云委我弟 高祖曰 此太無義理 於是訓令改之
開皇二十年、俀王、姓は阿毎、字は多利思北孤、阿輩雞弥と号(な)づく。使いを遣わして闕(けつ)に詣(いた)る。上、所司(しょし)をしてその風俗を問わしむ。使者言う、俀王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未(いま)だ明けざる時、出でて政(まつりごと)を聴く跏趺(かふ)して座す。日出ずれば、すなわち理務を停(とど)めて云う、我が弟に委(ゆだ)ぬと。高祖曰く、此れ大いに義理なし。是に於て訓(おし)えて之を改めしむ。以上、ウイキペディアより引用。
2回目は、推古天皇16年、西暦608年のこと、9月11日に、小野妹子、高向玄理、僧旻、南淵請安ら、他8名の留学生、留学僧が出かけた。これは、日本書記に記録がある。小野妹子は翌年9月に帰国しているようである。遣隋使の派遣は何回行われたか、隋に派遣した朝貢使として、600年、推古8年から618年、推古26年までの18年間に5回以上派遣されていると解説する。なお、日本という名称が使用されたのは遣唐使からである、とある。
次は、小野妹子の子孫の方によるサイトである。
遣隋使 小野妹子
www.ononoimoko.org/kenzuisi.html
遣隋使(けんずいし)が派遣されたのは、隋(中国)の仏教や政治等の学問を学ぶためです。 ... 推古天皇16年(西暦608年)9月11日小野妹子、高向玄理(たかむこのくろまろ)、僧旻(そうみん)、南淵請安(みなみぶちのしょうあん)、他8名の留学生、留学僧等。
1回目 推古天皇15年(西暦607年)7月3日 =大業3年
小野妹子、他約50名。翌年4月、隋の使者、裴世清(はいせいせい)と共に帰国。
2回目 推古天皇16年(西暦608年)9月11日
小野妹子、高向玄理(たかむこのくろまろ)、僧旻(そうみん)、南淵請安(みなみぶちのしょうあん)、他8名の留学生、留学僧等。小野妹子は翌年9月帰国。
3回目 推古天皇22年(西暦614年)
犬上御田鋤(いぬがみのみたすき)、他。翌年帰国。
隋書倭国伝 全文
倭國在百濟、新羅東南、水陸三千里、於大海之中、依山島而居。魏時譯通中國三十餘國、皆自稱王。夷人不知里數、但計以日、 其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。其地勢東高西下。都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。古云、去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里、 在會稽之東、與儋耳相近。漢光武時、遣使入朝、自稱大夫。安帝時、又遣使朝貢、謂之倭奴國。桓・靈之間、其國大亂、遞相攻伐、 歴年無主。有女子名卑彌呼、能以鬼道惑衆、於是國人共立為王。有男弟、佐卑彌理國、其王有侍婢千人、罕有見其面者、唯有男子二人、 給王飲食、通傳言語。其王有宮室・樓觀・城柵、皆持兵守衛、為法甚嚴。自魏至于齊梁、代與中國相通。開皇二十年、倭王姓阿毎、 字多利思比孤、號阿輩雞彌、遣使詣闕。上令所司訪其風俗。使者言、倭王以天為兄、以日為弟、天未明時、出聽政跏趺坐、 日出便停理務、云委我弟。高祖曰、此太無義理。於是訓令改之。王妻號雞彌、後宮有女六七百人。名太子為利歌彌多弗利。無城郭。 内官有十二等、一曰大、次小、次大仁、次小仁、次大義、次小義、次大禮、次小禮、次大智、次小智、次大信、次小信、員無定數。 有軍尼一百二十人、猶中國牧宰。八十戸置一伊尼翼、如今里長也。十伊尼翼屬一軍尼。其服飾男子衣裙襦、其袖微小、履如屨形、 漆其上、繁之於脚。人庶多跣足、不得用金銀為飾。故時衣幅、結束相連而無縫、頭亦無冠、但垂髮於兩耳上。至隋其王始制冠、 以錦綵為之、以金銀鏤花為飾。婦人束髮於後、亦衣裙襦、裳皆有○○、竹為梳、編草為薦、雜皮為表、縁以文皮。有弓矢刀○弩○斧、 漆皮為甲、骨為矢鏑、雖有兵無征戰。其王朝會必陳設儀仗、奏其國樂。戸可十萬、其俗殺人強盜及姦皆死、盜者計贓酬物、 無財者沒身為奴、自餘輕重、或流或杖、毎訊究獄訟、不承引者、以木壓膝、或張強弓以弦鋸其項、或置小石於沸湯中、令所競者探之、 云理曲者即手爛、或置蛇甕中令取之、云曲者即螫手矣。人頗恬靜、罕爭訟、少盜賊、樂有五弦琴笛。男女多黥臂、點面文身、沒水捕魚。 無文字、唯刻木結繩。敬佛法、於百濟求得佛經、始有文字、知卜筮、尤信巫覡。毎至正月一日、必射戲飲酒、其餘節略與華同、好棋博・ 握槊・樗蒲之戲。氣候温暖、草木冬青、土地膏腴、水多陸少、以小環挂鸕○項、令入水捕魚、日得百餘頭。俗無盤俎、 藉以檞葉、食用手餔之。性質直有雅風。女多男少、婚嫁不取同姓、男女相者即為婚、婦入夫家、必先跨犬、乃與夫相見、 婦人不淫妒。死者斂以棺槨、親賓就屍歌舞、妻子兄弟以白布製服。貴人三年殯於外、庶人卜日而瘞、及葬置屍船上、陸地牽之、 或以小輿。有阿蘇山、其石無故火起接天者、俗以為異、因行禱祭。有如意寶珠、其色青、大如雞卵、夜則有光、云魚眼精也。 新羅・百濟皆以倭為大國多珍物、並敬仰之、恒通使往來。大業三年、其王多利思比孤、遣使朝貢。使者曰、聞海西菩薩天子重興佛法、 故遣朝拜、兼沙門數十人來學佛法。其國書曰、日出處天子、致書日沒處天子、無恙、云云。帝覽之不、謂鴻臚卿曰、蠻夷書有無禮者、 勿復以聞。明年、上遣文林郎裴清使於倭國、度百濟、行至竹島、南望○羅國、經都斯麻國、迥在大海中。又東至一支國、又至竹斯國、 又東至秦王國、其人同於華夏、以為夷洲、疑不能明也。又經十餘國達於海岸。自竹斯國以東、皆附庸於倭。倭王遣小阿輩臺、從數百人、 設儀仗、鳴鼓角來迎。後十日、又遣大禮哥多○、從二百餘騎郊勞。既至彼都。其王與清(相見、大曰、我聞、海西有大隋禮義之國、 故遣朝貢、我夷人僻在海隅、不聞禮義、是以稽留境内、不即相見、今故清道飾館、以待大使、冀聞大國惟新之化。清答曰、皇帝並二儀、 澤流四海、以王慕化故、遣行人來、此宣諭。既而引清就館。其後清遣人謂其王曰、朝命既達、請即戒塗。於是、設宴享以遣清。 復令使者隨清)來貢方物。此後遂絶。
(フォントにない文字があり表記できない個所があります。)。