きょうは師の命日である、21年2月14日と知る。供養を申し上げる。
ご縁は直系の教えを受けた会に加えていただいたことにある。インターユニバーシティの考えをしめされたころ、1950年代半ばである。大学院の
学生、博士課程の学生の集まりであった。1975年のこと、大阪のとある会館の会議室であった。それから会のメンバーとして加えていただいた。
インターの名のことを借りれば京阪神の大学に出講されていた師の呼びかけでその末席に座ることを許された幸運であった。本流と傍流の思いがあるなかで切磋琢磨する皆さんについていくのが必至でそれから、何回目からの参加であったか、お開きとなる88回になるまでの会員だった。
直系の思いなどというのには師の令室、実はわたしの恩師である、そのご縁でまた指導を賜っていたからである。いわば同業の研究者とその薫陶を仰ぐものたちというか、博士後期に進学して会に入れてもらったかたちで恩師は受け入れられたようだよとさやいてくださった。
会の決まりはそのときどきの会場運営と回り持ちの報告発表にあるというシンプルなもの、しかし、厳しいものであった。当初の会の呼び名は恩師の発想にあったか、どの話も研究の雑談だからと言われていたのを傍流にいてこそ知るところである、ゾウタンとも読むとどうなるかと。
語彙の解釈もあったような、若い人たちの研究の雑談会となった。それはなつかしく内輪の呼び方である。年に数回ある案内には研究会となる。
その会合は師の面目を如実に国語教育、日本語教育にもかかわる国語学研究として行われてきた。
思い出すことは果てしなく、背筋を伸ばす、師の姿を髣髴とできる幸せ者である。
日本語教育にもかかわる、広い視野をくださったのである。
2005年に小冊子をいただいている。よせよ 声が聞こえてきそうな、歌十三篇と題する、そのなかの一篇、願い から一節を引用しよう。
人間の迷いには 限りがない
晩年の いまのぼくには しかし
迷わない 願いがある
自分のことを こう思いたいと 願っている
ぼくの 一生は 言葉の 美と真実を 追い求めていくことだった と
安らかにとお祈りする。