日本語哲学 2020/01/14
日本語の哲学 2020/01/15
日本語による哲学 2020/01/16
哲学する 2020/01/17
日本哲学2
日本語哲学、哲学日本語、このふたつはどう違うか。同じだという人もいるかもしれない。日本語で哲学、日本語を哲学、といった語構成を捉えて、漢語の語順を意識することができるし、そうすると、哲学を動詞に読むことになって、哲学する、という読み方になるが、これもまた、哲で学ぶ、哲が・・・と、結局は学術、専門語ということで、定義を言ってしまえば、この論議は無用になる。何を言おうとするか、日本の哲学はすでに、哲学ありき、ということを前提としているから、その哲学なるもので、そこで行われる議論にするかどうかで決まっていることがある。哲学の研究といったようなことで、よくある哲学史を知れば、それで、ある程度のことを理解するようなことになる。日本語哲学はドイツ語哲学でもいいし、哲学日本語は、あるいは、哲学ドイツ語でもいい。その深遠な議論に入るか、入らないかは、入り口によって出口がある、あるはずなのだが、出口を見つけることがまた哲学であるなどと、数多の議論にわたるかどうかである。学問になり、研究になったのだから、学界、研究分野の取り決めになってしまう。そこには、日本語哲学、哲学日本語はない、なかったのであるが、ここ、タイトルにすることがあったりして、昔から行われてきたのだろうけれど、それをまとめてみるようなことになって、はてこれはなんだろうかと思う次第である。
ウイキペディアによる 近現代哲学 代表的な哲学者の言説の引用
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古代ギリシャの哲学は、三通りの学に分かれていた。すなわち――物理学、倫理学および論理学である。この区分は、哲学というものの本性にかんがみてしごく適切であり、これに区分の原理を付け加えさえすれば、格別訂正すべき点はないと言ってよい。
— イマヌエル・カント、『道徳形而上学原論』、篠田英雄訳、岩波文庫、1976年、5頁、「序言」より
哲学の目的は思考の論理的明晰化である。
哲学は学説ではなく、活動である。
哲学の仕事の本質は解明することにある。
哲学の成果は「哲学的命題」ではない。諸命題の明確化である。
思考は、そのままではいわば不透明でぼやけている。哲学はそれを明晰にし、限界をはっきりさせねばならない。
— ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン、『論理哲学論考』、野矢茂樹訳、岩波文庫、2003年、51頁より
古代以来、哲学の根本的努力は、存在者の存在を理解し、これを概念的に表現することを目指している。その存在理解のカテゴリー的解釈は、普遍的存在論としての学的哲学の理念を実現するものにほかならない。
— マルティン・ハイデッガー、『存在と時間』上、細谷貞雄訳、ちくま学芸文庫、1994年、19頁、「序に代えて」より