中国史書に、倭、倭国、日本、日本国と見える。対外的に中国の史書に載せるのは冊封を持つかにもよるが、日本国王としての文書における署名が、そこに用いられたので、それをもって日本という表記を歴史的に見ることになる。
倭に対する和は、大和ともなり、それを、やまと と訓ずるのは、国名として、律令制においてあったのであるから、歴史に、日本としての呼称はどうであったか。発音がわからないので、日本の表記に、やまと と用いている例がある、万葉集の訓詁でとらえる。
都となった京には、その大和王権が継いでいるから、大和朝廷のままに、当時には、やまと であったのである。唐の長安における漢字音が、日について、にち じつ n→r という変化を受けるので、日本の発音は字音として変遷していくが、中国大陸との貿易では、日本国王の名称はどう発音されていたものであろう。
その発音に交易をした関係のある貿易港の読みようを、日本からの役人商人たちも聞いたに違いない。それはニ―フォンである。
藩名・旧国名がわかる事典の解説
やまとのくに【大和国】
現在の奈良県全域を占めた旧国名。古くは「大倭(やまと)国」と記し、737年(天平(てんぴょう)9)に「大養徳(やまと)国」と改めたが、747年(天平19)に「大倭国」に戻された。「大和国」の表記は757年(天平宝字(てんびょうほうじ)1)ごろから。律令(りつりょう)制下で畿内(きない)を形成する5国の一つで、「延喜式」(三代格式)での格は大国(たいこく)だった。国府は現在の高市(たかいち)郡高取(たかとり)町、のち大和郡山(やまとこおりやま)市今国府(いまごう)町におかれ、国分寺は奈良市の東大寺で、全国の総国分寺も兼ねた。古くから大和朝廷の本拠地として飛鳥を中心に開け、中国文化や仏教を受容、飛鳥寺(あすかでら)、法隆寺など多くの寺院が築造された。ついで藤原京、平城京が築かれて天平文化が花開き、東大寺、興福寺など七大寺(しちだいじ)の文化が栄えた。長岡(ながおか)京、平安京に遷都されたあとも、有力な社寺が多く存在し、南都とよばれた。鎌倉時代から室町時代を通して守護はおかれず、興福寺が大和を支配した。興福寺の衆徒らは武士化して勢力を伸ばし、筒井(つつい)氏、十市(とおち)氏、箸尾(はしお)氏らと相争ったが、織田信長(おだのぶなが)が平定。江戸時代には奈良奉行のほか郡山(こおりやま)藩など7藩がおかれた。1871年(明治4)の廃藩置県により奈良県となった。その後1876年(明治9)に堺(さかい)県に編入され、1881年(明治14)に大阪府下に入ったが、地元の運動の結果、1887年(明治20)に奈良県が再設置された。◇和州(わしゅう)、また倭州(わしゅう)ともいう。
ウイキペディアより
王位簒奪
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三代将軍足利義満は朝廷への影響力を強め、公武を超越した権威と権力を持つに至った。天皇・治天の代わりに、中国の明朝皇帝から「日本国王」として冊封を受け独自の外交を行っている
足利義満
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義満は明との正式な通交を望んでいた。しかし1374年(応安7年)の遣使では、明側は南朝の懐良親王を「日本国王良懐」として日本における唯一の正規な通交相手として認めていた事と、天皇の臣下(全ての民の君主である中国皇帝から見て、その家臣である天皇の家臣は陪臣)との通交は認めない方針のため、幕府の交渉は実らなかった。1380年(康暦2年)にも「日本国征夷将軍源義満」名義で交渉を始めようと試みるが、これも天皇の家臣との交渉は受けないとの理由と、宛先を丞相にしたという理由で入貢を拒まれている。そこで義満は応永元年12月(1394年)に太政大臣を辞し、出家した。これにより義満は天皇の臣下ではない自由な立場となった。
鹿苑寺
1401年(応永8年)、「日本国准三后源道義」の名義で博多の商人肥富(こいとみ、こいつみ・こいずみとも)と僧祖阿を使節として明に派遣する。懐良親王の勢力はすでに没落しており、建文帝は義満を日本国王に冊封した。同時に明の大統暦が日本国王に授与され、両国の国交が正式に樹立された。日本国王が皇帝に朝貢する形式をとった勘合貿易は1404年(応永11年)から始まり、また明に要請されて倭寇を鎮圧している(なお、返礼の使者を送るまでに靖難の変が起き、建文帝から永楽帝に皇帝が変わっていた)。遣唐使の廃止以来、独自の政策を採っていた公家社会では、明皇帝の臣下となる朝貢貿易に対して不満や批判が多くあったが、義満の権勢の前では公の発言ができず日記などに記すのみであった。
【倭奴】わど 中国の史書にみえるわが国の古名。
〔元史、外夷一、日本伝〕日本國は東海の東に在り。古く倭奴國と称(い)ふ。或いは云ふ、其の旧名を惡(にく)む。故に名を日本と改む。其の國の、日の出づる所に近きを以てなり。
中国正史のうち、倭・日本について書かれている18の古書一覧
1 後漢書 25巻 東夷 倭 南朝宋王朝 ハンカ(398~445)著
2 三国志 30巻 東夷 倭人 西晋王朝 陳寿(233~297)著
3 晋書 97巻 東夷 倭人 唐王朝 房玄齢(578~648)著
4 宋書 97巻 夷蛮 倭国 南朝梁王朝 沈約(441~513)著
5 南斉書 58巻 東南夷 倭国 南朝梁王朝 薫子顕(487~537)著
6 梁書 57巻 東夷 倭 唐王朝 ヨウ思廉(?~637)著
7 南史 79巻 夷カイ下 倭国 唐王朝 李延寿(?)著
8 北史 94巻 四夷 倭国 唐王朝 李延寿(?著
9 隋書 81巻 東夷 倭国 唐王朝 魏徴(581~643)著
10 旧唐書 199巻上 東夷 倭国・日本 五代晋王朝 劉ク(887~946)著
11 新唐書 220巻 東夷 日本 宋王朝 宋祀(998~1061)著
12 宋史 491巻 外国 日本国 元王朝 脱脱(1314~1355)著
13 元史 208巻 外夷 日本国 明王朝 宋レン(1310~1381)著
14 新元史 250巻 外国 日本 中華民国王朝 アショウユウ(1850~1933)著
15 明史稿 196巻 外国三 日本 清王朝 王コウショ(1645~1723)著
16 明史 322巻 外国 日本 清王朝 張廷玉(1672~1755)著
17 清史稿 164巻 邦交六 日本 中華民国王朝 趙ジニ(1845~1927)著
18 清史 159巻 邦交六 日本 中華民国王朝 張其キン(1900~)著
倭に対する和は、大和ともなり、それを、やまと と訓ずるのは、国名として、律令制においてあったのであるから、歴史に、日本としての呼称はどうであったか。発音がわからないので、日本の表記に、やまと と用いている例がある、万葉集の訓詁でとらえる。
都となった京には、その大和王権が継いでいるから、大和朝廷のままに、当時には、やまと であったのである。唐の長安における漢字音が、日について、にち じつ n→r という変化を受けるので、日本の発音は字音として変遷していくが、中国大陸との貿易では、日本国王の名称はどう発音されていたものであろう。
その発音に交易をした関係のある貿易港の読みようを、日本からの役人商人たちも聞いたに違いない。それはニ―フォンである。
藩名・旧国名がわかる事典の解説
やまとのくに【大和国】
現在の奈良県全域を占めた旧国名。古くは「大倭(やまと)国」と記し、737年(天平(てんぴょう)9)に「大養徳(やまと)国」と改めたが、747年(天平19)に「大倭国」に戻された。「大和国」の表記は757年(天平宝字(てんびょうほうじ)1)ごろから。律令(りつりょう)制下で畿内(きない)を形成する5国の一つで、「延喜式」(三代格式)での格は大国(たいこく)だった。国府は現在の高市(たかいち)郡高取(たかとり)町、のち大和郡山(やまとこおりやま)市今国府(いまごう)町におかれ、国分寺は奈良市の東大寺で、全国の総国分寺も兼ねた。古くから大和朝廷の本拠地として飛鳥を中心に開け、中国文化や仏教を受容、飛鳥寺(あすかでら)、法隆寺など多くの寺院が築造された。ついで藤原京、平城京が築かれて天平文化が花開き、東大寺、興福寺など七大寺(しちだいじ)の文化が栄えた。長岡(ながおか)京、平安京に遷都されたあとも、有力な社寺が多く存在し、南都とよばれた。鎌倉時代から室町時代を通して守護はおかれず、興福寺が大和を支配した。興福寺の衆徒らは武士化して勢力を伸ばし、筒井(つつい)氏、十市(とおち)氏、箸尾(はしお)氏らと相争ったが、織田信長(おだのぶなが)が平定。江戸時代には奈良奉行のほか郡山(こおりやま)藩など7藩がおかれた。1871年(明治4)の廃藩置県により奈良県となった。その後1876年(明治9)に堺(さかい)県に編入され、1881年(明治14)に大阪府下に入ったが、地元の運動の結果、1887年(明治20)に奈良県が再設置された。◇和州(わしゅう)、また倭州(わしゅう)ともいう。
ウイキペディアより
王位簒奪
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三代将軍足利義満は朝廷への影響力を強め、公武を超越した権威と権力を持つに至った。天皇・治天の代わりに、中国の明朝皇帝から「日本国王」として冊封を受け独自の外交を行っている
足利義満
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義満は明との正式な通交を望んでいた。しかし1374年(応安7年)の遣使では、明側は南朝の懐良親王を「日本国王良懐」として日本における唯一の正規な通交相手として認めていた事と、天皇の臣下(全ての民の君主である中国皇帝から見て、その家臣である天皇の家臣は陪臣)との通交は認めない方針のため、幕府の交渉は実らなかった。1380年(康暦2年)にも「日本国征夷将軍源義満」名義で交渉を始めようと試みるが、これも天皇の家臣との交渉は受けないとの理由と、宛先を丞相にしたという理由で入貢を拒まれている。そこで義満は応永元年12月(1394年)に太政大臣を辞し、出家した。これにより義満は天皇の臣下ではない自由な立場となった。
鹿苑寺
1401年(応永8年)、「日本国准三后源道義」の名義で博多の商人肥富(こいとみ、こいつみ・こいずみとも)と僧祖阿を使節として明に派遣する。懐良親王の勢力はすでに没落しており、建文帝は義満を日本国王に冊封した。同時に明の大統暦が日本国王に授与され、両国の国交が正式に樹立された。日本国王が皇帝に朝貢する形式をとった勘合貿易は1404年(応永11年)から始まり、また明に要請されて倭寇を鎮圧している(なお、返礼の使者を送るまでに靖難の変が起き、建文帝から永楽帝に皇帝が変わっていた)。遣唐使の廃止以来、独自の政策を採っていた公家社会では、明皇帝の臣下となる朝貢貿易に対して不満や批判が多くあったが、義満の権勢の前では公の発言ができず日記などに記すのみであった。
【倭奴】わど 中国の史書にみえるわが国の古名。
〔元史、外夷一、日本伝〕日本國は東海の東に在り。古く倭奴國と称(い)ふ。或いは云ふ、其の旧名を惡(にく)む。故に名を日本と改む。其の國の、日の出づる所に近きを以てなり。
中国正史のうち、倭・日本について書かれている18の古書一覧
1 後漢書 25巻 東夷 倭 南朝宋王朝 ハンカ(398~445)著
2 三国志 30巻 東夷 倭人 西晋王朝 陳寿(233~297)著
3 晋書 97巻 東夷 倭人 唐王朝 房玄齢(578~648)著
4 宋書 97巻 夷蛮 倭国 南朝梁王朝 沈約(441~513)著
5 南斉書 58巻 東南夷 倭国 南朝梁王朝 薫子顕(487~537)著
6 梁書 57巻 東夷 倭 唐王朝 ヨウ思廉(?~637)著
7 南史 79巻 夷カイ下 倭国 唐王朝 李延寿(?)著
8 北史 94巻 四夷 倭国 唐王朝 李延寿(?著
9 隋書 81巻 東夷 倭国 唐王朝 魏徴(581~643)著
10 旧唐書 199巻上 東夷 倭国・日本 五代晋王朝 劉ク(887~946)著
11 新唐書 220巻 東夷 日本 宋王朝 宋祀(998~1061)著
12 宋史 491巻 外国 日本国 元王朝 脱脱(1314~1355)著
13 元史 208巻 外夷 日本国 明王朝 宋レン(1310~1381)著
14 新元史 250巻 外国 日本 中華民国王朝 アショウユウ(1850~1933)著
15 明史稿 196巻 外国三 日本 清王朝 王コウショ(1645~1723)著
16 明史 322巻 外国 日本 清王朝 張廷玉(1672~1755)著
17 清史稿 164巻 邦交六 日本 中華民国王朝 趙ジニ(1845~1927)著
18 清史 159巻 邦交六 日本 中華民国王朝 張其キン(1900~)著