文法学、文法理論の学説がおこなわれるのは、翻訳の概念に捉えられる。とするならば、西欧の理論によることになるので、近代という時代を取れば大槻学説はその画期をとらえたものである。時代的には幕末から明治維新にかけてのことであるが、それまでにも、ラテン語による日本語の文典などもポルトガル語とともにあったとしてよい。文法を移入するにはオランダ語にもその範があったかもしれない。
かの福沢諭吉 生年1835年生‐没年1901年 が蘭学塾で学びのちに英学に転身して文明開化を唱えるようになるのだから留学、洋行を経ての西欧知識の吸収はすさまじいものがあった。>安政6年(1859年)、日米修好通商条約により外国人居留地となった横浜の見物に出かける。そこでは専ら英語が用いられており、自身が学んできたオランダ語が全く通じず看板の文字すら読めないことに衝撃を受ける。
フリー百科事典ウイキペディアの福沢諭吉の項が述べる。続けて、それ以来英語の必要性を痛感した福澤は、英蘭辞書などを頼りにほぼ独学で英語の勉強を始める、とある。そして咸臨丸で、万延元年1月19日、1860年2月10日、福澤は咸臨丸の艦長となる軍艦奉行、木村摂津守の従者として、アメリカへ立つ、ことになる。その衝撃は計り知れないものがあるし、そこには儒学、蘭学、英学へと軌跡をもつ。
さて文法がないのではなくて、文法概念を西欧の言語に学ぶまでは句法があり語法があったのである。それは和歌のためであり詩文のためであったが、その詩文は連歌俳諧にあっただけでなく漢詩作法にもあったのである。おのずとその知識背景に漢文訓読の文法に及ぶことになる。しかし漢文訓読法は文法理論となることはなかったようである。和歌、発句の語法も作法にとどまっていたようである。
そうは言いながら、まったく文法の考え方が成り立たなかったかとすることはできないだろう。むしろ日本語の文を書くということが、分類されるところの、物語文であり、日記随筆の類となると、その文法には漢文による文章が一方で作文の規範としてあったことを、和文について漢文があったと日本語に認めなければならない。からざえ、漢籍に精通し、巧みに詩文を作る能力、漢学の才である。
のちに文章軌範として模範文集が編まれる作文の類いは漢籍学習の教科書であったようである。それまでには儒学の教本として使われていたものに四書五経、あるいは詞華集の文選などにより伝え継がれたものなど、移入した漢籍には論注釈のものなどがあり、仏教の経典も読み継がれていたであろうが、そこに言語理論を構築することは時代を経て国学者による探究までにはあらわれなかったのである。
世界大百科事典 第2版の解説
ぶんしょうきはん【文章軌範 Wén zhāng guǐ fàn】
中国で,科挙受験者のため編集された模範文集。7巻。軌範とは手本・法則の意味。宋末の忠臣謝枋得(しやほうとく)の編。蜀漢の諸葛亮(しよかつりよう)の《出師表(すいしのひよう)》と晋の陶潜(淵明)の《帰去来兮辞(ききよらいのじ)》以外はすべて唐・宋人の文章から成り,韓愈31編,柳宗元5編,蘇軾(そしよく)12編,欧陽修5編,蘇洵4編などが多いほうである。全体を放胆文(1,2巻)と小心文(3巻以下)とに大別する。
大辞林 第三版の解説
ぶんしょうきはん【文章軌範】
文集。七巻。南宋の謝枋得(しやぼうとく)編。成立年代未詳。科挙の作文の模範文例として唐宋の古文家の文を中心に一五家六九編を集録。日本には室町時代に伝来し,江戸時代には「唐宋八家文読本」とともに漢文学習の基本教科書となった。
デジタル大辞泉の解説
ぶんしょうきはん 〔ブンシヤウキハン〕 【文章軌範】
中国の文章集。7巻。宋の謝枋得(しゃぼうとく)撰。科挙の受験者のために、模範とすべき文章の傑作を編集したもので、韓愈・柳宗元・欧陽脩・蘇軾など唐宋の作家の文を中心に69編を集めたもの。日本にも室町末期に伝来し、江戸時代に広く読まれた。
文章軌範
『文章軌範』(ぶんしょうきはん)は、中国宋の謝枋得が編纂した、唐宋の「古文」の名作文章の選集文献で、その数は69である。
古文とは、六朝時代に流行した1句の字数を4字と6字に限定し、ほぼ全てが対句で構成された極端に装飾的な駢文に対して、唐の柳宗元・韓愈たちが提唱した文体である。簡潔で雄健な調子で、考えをそのまま表現した古代の文章を理想(故に規範)とする。
掲載されている文章は高級官吏登用の科挙に際し、科目作文の模範となるべきものを謝氏が選び出したものである。俗にいう受験参考書・模範文例集であり、今日の意味での名作集ではない。
続篇として明の儒者鄒守益(王陽明の門人)が編んだ『続文章軌範』がある。秦漢から同時代の明代までの名篇を選ぶ。
日本には室町時代末期に紹介され、特に江戸時代後期以降に和本が多く刷られ愛読された。
かの福沢諭吉 生年1835年生‐没年1901年 が蘭学塾で学びのちに英学に転身して文明開化を唱えるようになるのだから留学、洋行を経ての西欧知識の吸収はすさまじいものがあった。>安政6年(1859年)、日米修好通商条約により外国人居留地となった横浜の見物に出かける。そこでは専ら英語が用いられており、自身が学んできたオランダ語が全く通じず看板の文字すら読めないことに衝撃を受ける。
フリー百科事典ウイキペディアの福沢諭吉の項が述べる。続けて、それ以来英語の必要性を痛感した福澤は、英蘭辞書などを頼りにほぼ独学で英語の勉強を始める、とある。そして咸臨丸で、万延元年1月19日、1860年2月10日、福澤は咸臨丸の艦長となる軍艦奉行、木村摂津守の従者として、アメリカへ立つ、ことになる。その衝撃は計り知れないものがあるし、そこには儒学、蘭学、英学へと軌跡をもつ。
さて文法がないのではなくて、文法概念を西欧の言語に学ぶまでは句法があり語法があったのである。それは和歌のためであり詩文のためであったが、その詩文は連歌俳諧にあっただけでなく漢詩作法にもあったのである。おのずとその知識背景に漢文訓読の文法に及ぶことになる。しかし漢文訓読法は文法理論となることはなかったようである。和歌、発句の語法も作法にとどまっていたようである。
そうは言いながら、まったく文法の考え方が成り立たなかったかとすることはできないだろう。むしろ日本語の文を書くということが、分類されるところの、物語文であり、日記随筆の類となると、その文法には漢文による文章が一方で作文の規範としてあったことを、和文について漢文があったと日本語に認めなければならない。からざえ、漢籍に精通し、巧みに詩文を作る能力、漢学の才である。
のちに文章軌範として模範文集が編まれる作文の類いは漢籍学習の教科書であったようである。それまでには儒学の教本として使われていたものに四書五経、あるいは詞華集の文選などにより伝え継がれたものなど、移入した漢籍には論注釈のものなどがあり、仏教の経典も読み継がれていたであろうが、そこに言語理論を構築することは時代を経て国学者による探究までにはあらわれなかったのである。
世界大百科事典 第2版の解説
ぶんしょうきはん【文章軌範 Wén zhāng guǐ fàn】
中国で,科挙受験者のため編集された模範文集。7巻。軌範とは手本・法則の意味。宋末の忠臣謝枋得(しやほうとく)の編。蜀漢の諸葛亮(しよかつりよう)の《出師表(すいしのひよう)》と晋の陶潜(淵明)の《帰去来兮辞(ききよらいのじ)》以外はすべて唐・宋人の文章から成り,韓愈31編,柳宗元5編,蘇軾(そしよく)12編,欧陽修5編,蘇洵4編などが多いほうである。全体を放胆文(1,2巻)と小心文(3巻以下)とに大別する。
大辞林 第三版の解説
ぶんしょうきはん【文章軌範】
文集。七巻。南宋の謝枋得(しやぼうとく)編。成立年代未詳。科挙の作文の模範文例として唐宋の古文家の文を中心に一五家六九編を集録。日本には室町時代に伝来し,江戸時代には「唐宋八家文読本」とともに漢文学習の基本教科書となった。
デジタル大辞泉の解説
ぶんしょうきはん 〔ブンシヤウキハン〕 【文章軌範】
中国の文章集。7巻。宋の謝枋得(しゃぼうとく)撰。科挙の受験者のために、模範とすべき文章の傑作を編集したもので、韓愈・柳宗元・欧陽脩・蘇軾など唐宋の作家の文を中心に69編を集めたもの。日本にも室町末期に伝来し、江戸時代に広く読まれた。
文章軌範
『文章軌範』(ぶんしょうきはん)は、中国宋の謝枋得が編纂した、唐宋の「古文」の名作文章の選集文献で、その数は69である。
古文とは、六朝時代に流行した1句の字数を4字と6字に限定し、ほぼ全てが対句で構成された極端に装飾的な駢文に対して、唐の柳宗元・韓愈たちが提唱した文体である。簡潔で雄健な調子で、考えをそのまま表現した古代の文章を理想(故に規範)とする。
掲載されている文章は高級官吏登用の科挙に際し、科目作文の模範となるべきものを謝氏が選び出したものである。俗にいう受験参考書・模範文例集であり、今日の意味での名作集ではない。
続篇として明の儒者鄒守益(王陽明の門人)が編んだ『続文章軌範』がある。秦漢から同時代の明代までの名篇を選ぶ。
日本には室町時代末期に紹介され、特に江戸時代後期以降に和本が多く刷られ愛読された。