兄の孟皮が長く病で寝込んでいることや、姪の孔無加が適齢期に達していることに気付かなかった孔丘は自分の勝手さを反省する。子路、冉有、子貢の3人は兵たちに酒を振舞うが、国の兵を自分の金で慰労したことを孔丘は叱る。彼らに軍の仕事から離れるよう命じた孔丘は、新軍を大司馬である少正卯に任せると告げた。ある日、孔丘が三桓氏を抑える案を上申しようとしていると、弟子たちが反対して騒ぎ出し……。wowowオンライン、あらすじである。
儒教の世界・その1 孔子の誕生
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司法の高官)に昇りつめた孔子は、魯公を圧迫させるほどの実権を掌握する三桓氏を抑えようとして国政改革を図るも失敗、その後弟子とともに魯国を再び離れ、諸国巡遊に出て、徳治主義の理想を説諭していった(B.C.498頃)。しかし諸侯たちには聞き入れ ...
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紀元前6世紀半ば、その魯の中心都市・曲阜の大夫(たいふ)の家に新たな生命が誕生した。孔子(こうし。B.C.552-B.C.479。生年はB.C.551年説もあり)である。
孔子は幼少期に両親と死別したが、早くから苦労して学問を志し、20代後半には倉庫番や家畜の世話など下級ではあるが官途の道に就いたといわれる。2メートルを超える長身であったとされ、19歳の時に結婚、翌年に子(孔鯉。こうり。B.C.532-B.C.483)が誕生した。その後司空(しくう。建築関係の官吏)などをつとめ、30代前半までに隣国などの諸国を遊説し(諸説あり)、弟子も徐々に増えていった。孔子がでた頃には、魯国誕生から約500年経過しており、春秋時代の実力重視の世の中へと変貌する中で、建国当初の周公旦が広めたとされる礼学に基づいた土木諸制度は退化していた。孔子が生きる春秋時代とは、中心となる周の王室をよそにそれまで周王に礼儀を尽くしてきた各地の諸侯が、独立と統一を目指して他国と戦火を絶えず繰り返し、一方で孔子が生きる魯国の状況は、三桓氏の権力抗争が横行し、相手に敬意を表さず、社会秩序も乱れていた。こうした中、孔子は若い頃から、伝統と化した古き良き文化や教養を学び、たとえば王室の公事や宴席で奏でられた楽曲を歌うための詩(し)、君主の言行・訓戒・記録、つまり書(しょ)、そして礼儀作法、社会規範の礼を習得した。
B.C.517年頃、孔子が30代半ばの頃である。季氏(三桓氏の1つ)の強勢と魯公(当時の魯の君主は昭公。しょうこう。公位B.C.541-B.C.510)の劣勢は顕著であった。宮中で行われた公事で、催し物の舞楽を演ずる人が極少だったのに対して、季氏の主催した催し物には豪勢に行われ、舞楽の演者もほとんどが季氏の方に集まった。周公旦の時代に始まった礼の制度が無視されていることに孔子は深く嘆いた。昭公は季氏と抗争を展開したが破れ、魯の北東隣にある強国・斉(せい。B.C.1046-B.C.386。B.C.386年、家臣の簒奪後に誕生した戦国の七雄の斉とは区別される。せい。B.C.386-B.C.221)に追放された。孔子は昭公の後を追って斉に入国、魯の曲阜とは明らかに大都会であった斉の首都・臨淄(りんし)に感銘を受け、その後帰国した。孔子が斉にいた頃、魯国では国政がさらに乱れていた。孔子は魯に帰国しても、すぐには官人として復帰することはなかったが、B.C.501年頃に中都(当時の魯の都。現在山東省の済寧市の汶上県。さいねい。ぶんじょう)の長官(中都宰。ちゅうとさい)の任命を受けた。
その後司空の再任を経て、大司寇(だいしこう。司法の高官)に昇りつめた孔子は、魯公を圧迫させるほどの実権を掌握する三桓氏を抑えようとして国政改革を図るも失敗、その後弟子とともに魯国を再び離れ、諸国巡遊に出て、徳治主義の理想を説諭していった(B.C.498頃)。しかし諸侯たちには聞き入れられるものではなかった。
十数年の巡遊から魯に帰国した孔子は69歳であった(B.C.484頃)。魯は哀公(あいこう。公位B.C.494-B.C.468)の治世であったが、斉国と交戦中であった。帰国後の孔子は国政につとめることなく弟子の教育に専念した。B.C.481年、魯の西方の地で狩猟が行われた際、叔氏(三桓氏の一氏)の臣下が見たことの無い大型の一角獣を発見した。臣下は気味悪がり、恐れのあまりこの獣を見捨ててしまった。この獣は麒麟(きりん)であった。麒麟は瑞兆の獣(瑞獣。吉兆をもたらすとされる獣)であり、天下が太平である時や、他人に対し、自然に親愛の心をもつ君主や家臣がいると出現する霊獣である。当時の乱世、人を愛すること無く敵国と戦う君主、無徳に権力を求める家臣や役人たちがいる時代に麒麟という聖なる瑞獣が出現し、滅多に見られないその瑞獣を見た臣下が気味悪がって見捨てたことに孔子は大いに落胆し、これまで書き綴ってきたとされる魯国史の記録に筆を止め、その後孔子は没した(伝説。諸説あり)。この記録が、のちの五経の1つ『春秋(しゅんじゅう。孔子の作か?)』であり、『春秋』の最後は「獲麟(かくりん。"麒麟を獲る"の意味)」の記事が記されている。転じて、"獲麟"は物事の終わりを意味し、これが孔子の最後の記事となったことから、絶筆の意味を持つようになった。
天下が太平であり、他人に対し自然に親愛の心を持つ人がいる世の中こそ、麒麟が現れる。この、自然に親愛の心を持つことの大事さを孔子は諭し続けた。これが"仁(じん)"である。有徳な統治者がいて、"礼"という規範を重んじ、仁という人間愛を持ち、他人を尊重し敬う態度や行動ができる社会を築き上げてこそ、真のすばらしい世界が実現できるという思いで魯国を内外から見つめてきた孔子も、春秋時代の情勢に押しつぶされ、理想は達成させられぬまま、B.C.479年、74歳で没した(孔子死去。B.C.479)。