文字の一つが詞の一つであると、古代の中国語、古典漢語を取り入れて、祖先はそう思ったはずである。漢字の一文字に、言葉の一つ一つがある使い方から、文字は漢字となり、日本語になって、仮名文字が工夫されてできたのは、漢字を言葉でとらえる、日本語読みとする訓をつける読みかたであった。それは語の単位にとどまらず、句、文にも
訓読をおこなって、日本語理解をした。万葉歌は訓読という形で日本語に書いたものを、漢字を読むときのように、訓読みをしたものを当てる。漢文訓読の一方で、日本語和歌を真名、つまり漢字に書いたものとして、それを訓読みしたのである。万葉歌の読み下しは、訓をつけることであった。しかし、それがおのずと漢文を解釈するのとは異なり、和歌が漢字表記であるだけで、日本語をそのまま読みとこうとしたことになる。文字、漢字、その一つが言語となると、日本語の語彙には熟語となるものが和文に容れられて、その使い方を自由にするようになる。
語
2018-11-25 | 日本語百科
かたる いう このふたつはどう違うのか。それぞれ声に出した言葉を示す。あわせれば言語となり、その説明は音声、文字をとらえたものになる。ものをかたる、師が言う、それはまた、師 のたまわく と読み習わして、言葉を語ることにとらえてきた。曰、云、この文字の使い分けをとらえて意識したのは中田祝夫先生であった。日本語の語るには、まとまった、あるいは意味内容を筋立てとして理解するところもあった。何らかの形で話し手となる。それを、いう とだけ用いるのは、ことばをだすこと、口から音声を発することの全般を示した。その用法にまとまった言葉の塊を与えるのは、はなす という使い方になったが、はなす そのものは、口から出る、口にあたらしい、という、造字をして、かたる はなす この2語が対照することになる。諸国噺、お伽噺などであり、噺家、咄家となるのは、時代がやはり下がる。いう かたる それを、言う 話す というふうにとらえる。かたる そのものには話し手の意図が加えられるようになる。言 語 として見て、言字の義には、白川学説において、その文字解析の発想が秘められているところであるから、日本語は漢字を用いてはいるのにもかかわらず、その深遠な字義解説を理解することはない。