うがった見方をする というときに、うがったような見方をするな、とか、うがったようなことを言うな、とか、表現することから、この表現の正しい意味内容が、わからなくなってしまったのだろう。
穿ったようなこととなれば、事実に対して真実はこうだろうというような、また、うがった見方がある、と言うのに対して、うがった見方もある、と添加する表現にしてしまうことによって、穿つの意味合いを変えてしまっている。
しかし、穿ち話とか、穿ち者という語に加えて、穿ち顔と言う用法もあって、穿ち、穿つこと、そのものが、穿ったことをする、となるときに、気づかれない話をする、奇をてらうことをする、そして、知ったような顔をする、というふうに、穿つこと自体の捉え方に、経験を持つことがないと、穿つ見方をしても、みずからはわからない。
そこでしたり顔に、そう言われてしまうと、そうかなと、疑うようなことで、うがった見方を、することがむずかしい。
涓滴(けんてき)岩を穿(うが)つ
わずかな水のしずくも、絶えず落ちていれば岩に穴をあける。努力を続ければ、困難なことでもなしとげられるというたとえ。
あまだれ 石(いし)を穿(うが)つ
こういう語を見ることもなくなってきた・・・
ところで、この語の本来は知れば知るほど、これを穿てば、
>うがった見方を、物事を深く掘り下げ,本質を的確に捉える
としてしまった、調査の項目は、とんでもない勘違いではない
勘違いしやすい日本語
>
やめるのも、実行するのも「潮時」
「やぶさかでない」のなら、お願いしていいの?
映画館で「号泣」してもいいですか?
デジタル大辞泉の解説
うが・つ【×穿つ】
[動タ五(四)]《上代は「うかつ」》
1 穴をあける。掘る。また、突き通す。貫く。「雨垂れが石を―・つ」「トンネルを―・つ」
2 押し分けて進む。通り抜けて行く。
3 人情の機微に巧みに触れる。物事の本質をうまく的確に言い表す。「―・った見方」「彼の指摘は真相を―・っている」
4 袴(はかま)・履物などを身に着ける。履く。
5 新奇で凝ったことをする。
[補説]3について、文化庁が発表した平成23年度「国語に関する世論調査」では、「うがった見方をする」を、本来の意味とされる「物事の本質を捉えた見方をする」で使う人が26.4パーセント、本来の意味ではない「疑って掛かるような見方をする」で使う人が48.2パーセントという逆転した結果が出ている。
[可能]うがてる
「石は灌木の間を―・って崖の下へ墜(お)ちた」〈鴎外・青年〉
「夏といえども其片足に足袋を―・ちたり」〈子規・墨汁一滴〉
「紋も模様も大きに―・ち過ぎて賤しき場もありしが」〈洒・浪花今八卦〉
http://prmagazine.bunka.go.jp/rensai/kotoba/kotoba_002.html
「うがった見方」は,良くないのか。
文化庁国語課
<「君はうがった見方をするね。」と言われたら,評価されていると感じますか,それとも,批判されていると感じますか。「うがった見方をする」について「国語に関する世論調査」で尋ねたところ,全ての年代で,本来とは異なる「疑って掛かるような見方をする」という意味で理解している人の方が多いことが分かりました。>
問1
「うがった見方をする」とは,本来どのような意味なのでしょうか。
答
物事の本質を的確に捉えた見方をする,という意味です。
「うがった見方」の「うがつ」を辞書で調べてみましょう。
「新明解国語辞典 第7版」(平成24年・三省堂)
うがつ【穿つ】[他五]
(1)「穴を開ける」意のやや古風な表現
(2)人情の機微や事の真相などを的確に指摘する。「穿った事を言う。」
(3)「衣類やはきものを身につける」意の古風な表現
「岩波国語辞典 第7版 新版」(平成23年・岩波書店)
うがつ【穿つ】[他五]
(1)(穴を)あける。掘る。つきぬく。比喩的に,突き抜けて進む。
(2)着ける。はく。「靴を穿つ」
(3)物事や人情の隠れた真の姿にたくみに触れる。
「うがつ」とは,「穴を掘る」ということであり,そこから転じて「物事を深く掘り下げ,本質を的確に捉える」「隠れた真相を見抜く」という意味でも用いられる言葉です。ですから「うがった見方をする」というのは,「物事の本質を捉えようと鋭い視点で見る」という意味になります。本来の意味からすれば,冒頭の「君はうがった見方をするね」は,表面からは理解できない物事の真相を突いた見方ができる「君」を評価しているものと考えられます。随筆での用例を見てみましょう。
ずっと前に,週刊ロンドン・タイムスで,かの地の裁判所における刑事裁判の忠実な筆記が連載されているのを,時々読んでみたことがある。それはいかなる小説よりもおもしろく,いかなる修身書よりも身にしみ,またいかなる実用心理学教科書よりも人間の心理の機微をうがったものであった。
(寺田寅彦 「ニュース映画と新聞記事」 昭和8年)
ここでは,「週間ロンドン・タイムス」の記事の文章がどのような小説や心理学の教科書よりもうがったもの,つまり人間の心理の本当の姿をうまく捉えたものであった,ということを言っています。「疑って掛かるような」と受け取ってしまっては,意味が通じません。本来,「うがつ」はこのように使われてきました。
問2
「うがった見方をする」について尋ねた「国語に関する世論調査」の結果を教えてください。
答
本来の意味ではない「疑って掛かるような見方をする」と答えた人の割合が,本来の意味である「物事の本質を捉えた見方をする」を上回っています。また,約5分の1の人が「分からない」と答えました。
平成23年度の「国語に関する世論調査」で,「うがった見方をする」の意味を尋ねました。結果は次のとおりです。(下線を付したものが本来の意味。)
(ア)物事の本質を捉えた見方をする・・・・ 26.4%
(イ)疑って掛かるような見方をする・・・・ 48.2%
(ア)と(イ)の両方・・・・・・・・・・・ 2.1%
(ア),(イ)とは全く別の意味・・・・・・ 2.9%
分からない・・・・・・・・・・・・・・・・ 20.3%
全体では,本来の使い方とは違う(イ)「疑って掛かるような見方をする」を選択した人の割合が48.2%と,本来の使い方である(ア)「物事の本質を捉えた見方をする」を選択した人の割合(26.4%)を上回っています。また,約5人に1人が「分からない」と答えています。
年代別のグラフでも,全ての年代で(イ)を選んだ人の割合が(ア)を選んだ人より明らかに高くなっています。また,「分からない」を選んだ人の割合は,60歳以上で27.6%と,他の年代に比べて高くなっています。
では,この言葉が「疑って掛かるような見方をする」という意味で使われるようになってきた理由としては,どのようなことが考えられるでしょうか。
「うがつ」ことが行き過ぎた様子を表す言い方に「うがち過ぎ」があります。「うがち過ぎ」を辞書で見てみましょう。
「広辞苑 第6版」(平成20年・岩波書店)
うがちすぎ【穿ち過ぎ】 人情の機微や物事の本質をうまくとらえられているようで,実はそれが行き過ぎ,事実から外れていること。
物事の本質を見よう,うがとうとして物事を掘り下げていった結果,度が過ぎてしまえば,事実から外れてしまいます。そういう場合には「うがち過ぎ」という言葉が使われてきました。この「うがち過ぎ」という言い方が「うがった見方」の意味にまで影響していることが考えられます。そもそも「うがった見方」をすることは,物事の見えない部分,隠された部分にある真の姿を探そうとすることですから,容易なことではありません。「うがち過ぎ」にならないまでも,うまく本質にたどり着かなかったり,間違った認識に至ってしまったりすることもあるでしょう。そういった側面を捉えて,良くない意味だと感じる人がいるかもしれません。
また,「うがった見方」で,ある事柄についての真相に近付こうとすれば,普通は気付かないような事情にまで立ち入ることもあるでしょう。探られる側にとっては,必ずしも気持ちのいいものではなく,何かを疑われているように感じるかもしれません。「うがった見方をする」という言葉が余り良くない意味合いで捉えられるようになってきたのは,このような事情が重なったことによるとも推測されます。
穿ったようなこととなれば、事実に対して真実はこうだろうというような、また、うがった見方がある、と言うのに対して、うがった見方もある、と添加する表現にしてしまうことによって、穿つの意味合いを変えてしまっている。
しかし、穿ち話とか、穿ち者という語に加えて、穿ち顔と言う用法もあって、穿ち、穿つこと、そのものが、穿ったことをする、となるときに、気づかれない話をする、奇をてらうことをする、そして、知ったような顔をする、というふうに、穿つこと自体の捉え方に、経験を持つことがないと、穿つ見方をしても、みずからはわからない。
そこでしたり顔に、そう言われてしまうと、そうかなと、疑うようなことで、うがった見方を、することがむずかしい。
涓滴(けんてき)岩を穿(うが)つ
わずかな水のしずくも、絶えず落ちていれば岩に穴をあける。努力を続ければ、困難なことでもなしとげられるというたとえ。
あまだれ 石(いし)を穿(うが)つ
こういう語を見ることもなくなってきた・・・
ところで、この語の本来は知れば知るほど、これを穿てば、
>うがった見方を、物事を深く掘り下げ,本質を的確に捉える
としてしまった、調査の項目は、とんでもない勘違いではない
勘違いしやすい日本語
>
やめるのも、実行するのも「潮時」
「やぶさかでない」のなら、お願いしていいの?
映画館で「号泣」してもいいですか?
デジタル大辞泉の解説
うが・つ【×穿つ】
[動タ五(四)]《上代は「うかつ」》
1 穴をあける。掘る。また、突き通す。貫く。「雨垂れが石を―・つ」「トンネルを―・つ」
2 押し分けて進む。通り抜けて行く。
3 人情の機微に巧みに触れる。物事の本質をうまく的確に言い表す。「―・った見方」「彼の指摘は真相を―・っている」
4 袴(はかま)・履物などを身に着ける。履く。
5 新奇で凝ったことをする。
[補説]3について、文化庁が発表した平成23年度「国語に関する世論調査」では、「うがった見方をする」を、本来の意味とされる「物事の本質を捉えた見方をする」で使う人が26.4パーセント、本来の意味ではない「疑って掛かるような見方をする」で使う人が48.2パーセントという逆転した結果が出ている。
[可能]うがてる
「石は灌木の間を―・って崖の下へ墜(お)ちた」〈鴎外・青年〉
「夏といえども其片足に足袋を―・ちたり」〈子規・墨汁一滴〉
「紋も模様も大きに―・ち過ぎて賤しき場もありしが」〈洒・浪花今八卦〉
http://prmagazine.bunka.go.jp/rensai/kotoba/kotoba_002.html
「うがった見方」は,良くないのか。
文化庁国語課
<「君はうがった見方をするね。」と言われたら,評価されていると感じますか,それとも,批判されていると感じますか。「うがった見方をする」について「国語に関する世論調査」で尋ねたところ,全ての年代で,本来とは異なる「疑って掛かるような見方をする」という意味で理解している人の方が多いことが分かりました。>
問1
「うがった見方をする」とは,本来どのような意味なのでしょうか。
答
物事の本質を的確に捉えた見方をする,という意味です。
「うがった見方」の「うがつ」を辞書で調べてみましょう。
「新明解国語辞典 第7版」(平成24年・三省堂)
うがつ【穿つ】[他五]
(1)「穴を開ける」意のやや古風な表現
(2)人情の機微や事の真相などを的確に指摘する。「穿った事を言う。」
(3)「衣類やはきものを身につける」意の古風な表現
「岩波国語辞典 第7版 新版」(平成23年・岩波書店)
うがつ【穿つ】[他五]
(1)(穴を)あける。掘る。つきぬく。比喩的に,突き抜けて進む。
(2)着ける。はく。「靴を穿つ」
(3)物事や人情の隠れた真の姿にたくみに触れる。
「うがつ」とは,「穴を掘る」ということであり,そこから転じて「物事を深く掘り下げ,本質を的確に捉える」「隠れた真相を見抜く」という意味でも用いられる言葉です。ですから「うがった見方をする」というのは,「物事の本質を捉えようと鋭い視点で見る」という意味になります。本来の意味からすれば,冒頭の「君はうがった見方をするね」は,表面からは理解できない物事の真相を突いた見方ができる「君」を評価しているものと考えられます。随筆での用例を見てみましょう。
ずっと前に,週刊ロンドン・タイムスで,かの地の裁判所における刑事裁判の忠実な筆記が連載されているのを,時々読んでみたことがある。それはいかなる小説よりもおもしろく,いかなる修身書よりも身にしみ,またいかなる実用心理学教科書よりも人間の心理の機微をうがったものであった。
(寺田寅彦 「ニュース映画と新聞記事」 昭和8年)
ここでは,「週間ロンドン・タイムス」の記事の文章がどのような小説や心理学の教科書よりもうがったもの,つまり人間の心理の本当の姿をうまく捉えたものであった,ということを言っています。「疑って掛かるような」と受け取ってしまっては,意味が通じません。本来,「うがつ」はこのように使われてきました。
問2
「うがった見方をする」について尋ねた「国語に関する世論調査」の結果を教えてください。
答
本来の意味ではない「疑って掛かるような見方をする」と答えた人の割合が,本来の意味である「物事の本質を捉えた見方をする」を上回っています。また,約5分の1の人が「分からない」と答えました。
平成23年度の「国語に関する世論調査」で,「うがった見方をする」の意味を尋ねました。結果は次のとおりです。(下線を付したものが本来の意味。)
(ア)物事の本質を捉えた見方をする・・・・ 26.4%
(イ)疑って掛かるような見方をする・・・・ 48.2%
(ア)と(イ)の両方・・・・・・・・・・・ 2.1%
(ア),(イ)とは全く別の意味・・・・・・ 2.9%
分からない・・・・・・・・・・・・・・・・ 20.3%
全体では,本来の使い方とは違う(イ)「疑って掛かるような見方をする」を選択した人の割合が48.2%と,本来の使い方である(ア)「物事の本質を捉えた見方をする」を選択した人の割合(26.4%)を上回っています。また,約5人に1人が「分からない」と答えています。
年代別のグラフでも,全ての年代で(イ)を選んだ人の割合が(ア)を選んだ人より明らかに高くなっています。また,「分からない」を選んだ人の割合は,60歳以上で27.6%と,他の年代に比べて高くなっています。
では,この言葉が「疑って掛かるような見方をする」という意味で使われるようになってきた理由としては,どのようなことが考えられるでしょうか。
「うがつ」ことが行き過ぎた様子を表す言い方に「うがち過ぎ」があります。「うがち過ぎ」を辞書で見てみましょう。
「広辞苑 第6版」(平成20年・岩波書店)
うがちすぎ【穿ち過ぎ】 人情の機微や物事の本質をうまくとらえられているようで,実はそれが行き過ぎ,事実から外れていること。
物事の本質を見よう,うがとうとして物事を掘り下げていった結果,度が過ぎてしまえば,事実から外れてしまいます。そういう場合には「うがち過ぎ」という言葉が使われてきました。この「うがち過ぎ」という言い方が「うがった見方」の意味にまで影響していることが考えられます。そもそも「うがった見方」をすることは,物事の見えない部分,隠された部分にある真の姿を探そうとすることですから,容易なことではありません。「うがち過ぎ」にならないまでも,うまく本質にたどり着かなかったり,間違った認識に至ってしまったりすることもあるでしょう。そういった側面を捉えて,良くない意味だと感じる人がいるかもしれません。
また,「うがった見方」で,ある事柄についての真相に近付こうとすれば,普通は気付かないような事情にまで立ち入ることもあるでしょう。探られる側にとっては,必ずしも気持ちのいいものではなく,何かを疑われているように感じるかもしれません。「うがった見方をする」という言葉が余り良くない意味合いで捉えられるようになってきたのは,このような事情が重なったことによるとも推測されます。