実用日本語表現辞典 退っ引きならぬ 読み方:のっぴきならぬ
>
後方へ逃れることができない様子、引き下がったり撤退したりできない様子を指す表現。「退っ引きならない」の打ち消し「ない」をやや文語的な「ぬ」で置き換えた言い方。
背水の陣と、どう違うか。
故事ことわざの辞典
>
背水の陣【はいすいのじん】
【故事】故事
【解説】背後に川などがあると後退できないので、軍勢は必死に戦う。同じように一歩も退けない覚悟で全力を尽くして事に当たること。
▼中国漢の韓信が趙の軍と戦った際に、川を背にして陣取って大勝したという故事から。
【出典】史記。
【類義語】船を沈め釜を破る。
. . . 本文を読む
まんじり この語感は、まなじりに近い。まんじりとする とあれば、まなじりを閉じるようにも聞こえる。まなじりを開く、まなじりを決する、などの慣用句を意味内容から見れば、まなじりを上げる形に見える。隈取をした役者の目の演技を連想させる。そうすれば、まなじりをまんじりとするのは、軽く目を閉じたようなことか。したがって、まなじりをそのままにして、まんじりともせずいるのは、目を見開くさまに見える。まなじりとせず まんじりとせず まなじりは目の後目であるから半眼でもあろうか、そのようにしないこととなる。 . . . 本文を読む
口から、食べかけたご飯を噴きだすのは、どんなときか。フンパン と、フンマンと、これは、噴飯ものというのと、憤懣やるかたないというのと、そのいずれかを知れば笑いと怒りの相違であることがわかる。食べかけるご飯を、こらえきれなくなって、それは多くは笑いが原因であるから、口を開けることになってしまっては、たまらないだろう。くしゃみがこらえきれない連想もよいかもしれない。もし怒りで大声をあげるようなことになれば、口を開けてご飯が見えるかもしれないが、噴きだすところまでは至らない。と、こういうふうに解説をしても、この慣用句は、笑いをこらえきれないようすを表現したもので、笑いそうなことだ、笑ってしまったということである。 . . . 本文を読む
みみざわり、てざわり、はだざわり、いずれも好感触の語である。この言い方を、みみざわりだ、てざわりだ、はだざわりだ、などと、その状態を断定する表現にもちいると、その良しあしを言う、ことを問うようになる。そして、その状態がまさに良い場合とだけいえなくなるのが、みみざわり、の語である。それぞれの、耳の場合、手の場合、肌の場合と、さわる状態が異なっていることがわかる。漢字表記を当てて、耳障りが良い、手触りがよい、肌触りが良い、というふうに、漢字変換をする。耳障りか、耳触りか、このいずれかを使い分けるかは、さわり方になる。耳障りな音、耳ざわりの音、とならべてみると、その音そのものに、障る音がある。 . . . 本文を読む
にやける このままだと、にやにやしている、と思ってしまうだろう。ふける にやける この対比ではいかがか。更ける については、老ける の同源とする解説がある。すると、その 更ける 老ける ともに字の当て方が気になる。そこで、にやける に、若の字を当てて、若気る としてみると、わかりよくなる。もともと 若気 という語であるとする。これはこれでその文字遣いがあるかどうかである。そしてこの語の使い方を知ると、本来の意味での、若気 でないならば、にゃける にやける などと言われて、逆にニヤニヤなんかしていられない。 . . . 本文を読む
1番目は女、2番目は男という順序をいったものだが、子育ての言い伝えのうちに2太郎の解釈がひとり歩きをしたものである。すなわち、ふたりの男の子というふうになった、それでまた、子の数が3人が理想であるとかなんとか。言い伝えであるとなると、いつから、どうして、どうなったと解説があればわかりよい。それは検索しても見えない。この順序を指す言い方は、一富士、二鷹、三なすびを引き合いに出す。変わったところでは、いち 誹(そし)り二笑(にわら)い三惚(さんほ)れ四風(しかぜ)、というのがある。物言いに順をつけて、いち運(うん)二腰(にこし)三拍子(さんひょうし)、いち押(お)し二押(にお)し、いち押(お)し二金(にかね)三男(さんおとこ)、となるのを見ていくと、1姫と表記するより、辞書項目のように、いち姫が正しいのか。こうなると、数量の1でなくなる語感である。 . . . 本文を読む
煮え湯はにたぎった湯というが、それを見ることはあるだろうか。鍋釜の時代にならイメージしやすいが、いまならさしずめ沸騰したてのポットの湯になるだろう。煮え湯を飲むことはまずないので、それを飲まなければならないとしたなら、飲まされる、ということであるから、思わぬこと、思ってもみなかったことが起こったのである。口に含めるにはせめて白湯であるから、安心して飲める温度にするようにするのが、普通に身の回りにいる者たちの務めである。つまりは身内のように信頼を置く関係である。その中にあって、煮え湯を飲む思いのにがにがしさは、そういう行為、仕打ちともいうべきものを受け止めることになる。 . . . 本文を読む
ぞっとする ぞっとしない この言い方で、意味が異なる。ぞっとするのは、その対象から受け取った反応となるから、オノマトペの表現が自らの内心にある。それを打ち消すと、うちに起こる感情を起こさせる対象ではないので、それ自身に対して感慨を催さない。そこで、ぞっとしないのは、興味が持てなくなる、いわば面白くもないというわけである。その対象に、恐怖を覚えるのは、ぞっとするという表現にふさわしい思いとなるから、いわば、ぞっとして、ぞくっとして、ぞくぞくっとするようなことである。ぞっとする、ぞーっとする、といえば、その恐怖感が現れてくる。それを、ぞっとしない、というふうに打ち消せば、ぞっとしなかったのは、ぞーっとも、ぞくぞくっともしなかったのである、という感情をとらえることになる。怖くも何ともなかった、というのであろう。 . . . 本文を読む
やおら の語義については、>1 静かに身を動かすさま、また、徐々に事を行なうさまを表わす語。そろそろと。おもむろに。やわら。現代では悠然としたさまをいうことが多い。2 時間の経過とともに変化、進展し、ようやくその状態になるさま、事態が変わるさまを表わす語。 日本国語大辞典より と見える。 . . . 本文を読む
人のためならず この語法が、解釈のもとになる。情けは というときの、言い方も、情けをかけることは、というふうには受け取られなくなってしまったのだろう。情けをかけることと、情けをもって人助けすることとは相いれない。人に親切にすることは、などの、言い回しがすでにおかしいのである。情けをかけることはそうそう、たやすいことではない。人のためならず は、打消しの語法として、情けは人のためなり を、打ち消したものであるから、情けは情けはひとのためにある、その情けを人のためにあるとしなければ、それをうち消して、つまるところ、情けはひとのためにあるのではなくて、情けは誰のためにあるか、それは、情けをかけることの行為を自らの行為としてとらえる言葉であるから、そこに現れた人のために情けをかけることの重要性を認識している。人に情けをかけてもらった思いがあるかどうか。この頃の世知辛い世相ではない、厳しく生きる人々の倫理には、恩を感じる時代のあったことである。 . . . 本文を読む