日本語の哲学、日本語による哲学、日本語哲学と、どれも響きがよいのか、どうなのか。日本語で哲学する、この謂い方もすわりがわるい。日本語問答をしてみる、日本語の論理を作る、日本語を分析するなど、日常にないことである。せいぜい、哲学とはどういう語か、その成り立ちに、翻訳がかかわると、もうそれは日本語世界にならない。と、ふと、この世界とは何かと考えだすと、哲学になりそうである。
希賢学、希哲学という訳語を3文字から文字をとって哲学となったと、そういう解説を読んで、賢人の学問とのイメージがまた、中国の賢者であるところから、哲となったとかいうので、この哲が、白川字通によると、>「殷の先哲王」の語があり、よく神明につかえ、神明に通ずるものをいう語であった という解説で、賢明な君、哲王であることとさして、同系の語の知、智に通じる。哲学を知による学問としたのは、言葉によれば、似通うことである。
その哲学をどう始めたかで言葉の論理と知の作り方と変わってくる。