
240525 夏を迎える。暑い、にもかかわらず、陰は冷えるから緑陰の季節となって、過ごす工夫がある。と言っていたら、自律神経の低下というか、寒いとかんじて調子を落とす。日による疲れのあらわれで、室内でのくすぶる状態はよろしくない。それは外の陽光の強さに反動となって5月気分の難しさ・・・・・・
言語の起源は言語学の探求にあってコミュニケーションのためにうみ出されてきた能力と考えてよいからどの言語にもあてはまる仮説であってよいだろう。日本語もその一つになるからどうして祖先が言語を能力として獲得したかはさかのぼって日本列島に住み着いた原人類がたどることになるから当然のことに明らかにできるものは何であろうかとあれこれ想像することになる。
ことばの起源はその言語として日本語にあったものがいかにしていまのわたしたちに伝えられてきたかをとらえようとするものである。それは可能なこととして歴史にとどめることがあるので探求をすること可能とする。日本語の言葉とするには国語としてのことばがすでに見てきているからそこにフォーカスしてわたしたちの認識として考えることがあってよい。
どういうことかとなれば文字を持たなかった、この文字というのも発音とか意味とかそういう言語の表すべきものを確かにする方法を持ってこなかったという先史時代からの見方になる。その頃にわずかでも日本語となるものを伝えてきているならそれは大いに言語にあたるべきものをみることになる。しかし、それはない、発見されていないから、日本語に言葉があったのかというような素朴な疑問にもなる。
この想像は全くないとか発見できないとかいうのではなくてなんらかあったに違いないと仮定してそこに漢字文明を移入する経緯に日本語の痕跡は覆いつくされてしまったという状況になるだろう。想像に過ぎないとするならそこにあったものではなくて移入してきた文明文物を伝搬した民族かその集団が日本語を共にしてきたとみることになる。もとにあった日本語にそれを原語、原日本の言葉とするならおそらく音声を以てコミュニケートするものであったろう。
そこに漢字発音が伝えられることになると日本語発音はそれによる表し方を作ろうとする。お気づきのように仮名の工夫は真名に対する音標文字になるからそこには漢字発音に対する日本語発音を表したものとなる。これが言葉となると、そのことばは音声による言語を仮名文字に写すことが中国語の漢字を用いた表し方になる。それも漢字を形音義に学ぶことで和名を加えてきた学びの経過である。
ことばは音声によるとするなら最も日本語らしいもの、いや、ことばは何だったのか。語彙は漢字発音の文字によって習うことにそこに意味を学ぶために漢字言葉とともに、ことばとしての言語を対比する。そこにあるものは音声による日本語である。国語はそれを分析して文法に組み込んでいる。国文法の助詞である。極端に国語の特徴を見て漢字では表しえなかったものはこれを置いてほかに何があるだろう。国語の敬語である。ほかには固有名などと上げていくと、ことばの語源に至る。
言語学の古典学説にある、言語記号と言うのを学び始めたとき、ことばが記号であるというのを長く理解しなかった。理解ししようとして、ことばは記号にあらずと国語で思っていたからで、長くかかったのは言語記号は学説によるという納得のしかたである。そう考えた人がいるという、なぜ記号と言わなければならないのかとその人なりにある見方を追求すると、tまず漢字を記号とするかどうかのとらえ方に加えて、日本語は記号にならないと思うことがあったからである。
