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文法の要 終止は終始から

2021-03-24 | 日本語文法

日本語の文は、文の終止用法を発達させてきた。文法の考え方の基本に、言語発達史観をもって言うのではない。日本語文法に文を終止させるというとらえ方があるということを考える。文の終始はいかなるものか。文の終止は、いま、句点を打つことではっきりしている。そうできるようになったのはどうしてか。それを見ていくと、終止形があるから、とか、句点を打つから、とか、終止形ありきで文をとらえるというような、自家撞着に近い論理が出てくる。終止形でなくても句点を打てば、文が成立するような意識は、かくして、終止用法のとらえ方があるからで、命令形が来れば、それをも終止である、連用中止があれば、そこで句点を打てば終止になる、さらには、連体止めという修辞技巧にも句点でもって終止となる、いわばすべてが終止形なのであるから、これでは終止用法という、とらえ方にも、その議論がない。命令法も、中止法も、連体止めも、すべてが、終止とは何かを前提にして、その文法の機能において終使用法を認めているものである。動詞の終止形があっての命令形という活用形に過ぎないし、連用中止も、終止法に相当する語形の活用があってこそなのである。連体止めには感嘆する体言止めをもって終止用法を認めてきたのである。と、ここで、気づくことがある。連体形がとってかわったという終止形は、文にあって、連体形が文をまとめる機能を現したからなのである。それは表現法の一つに過ぎなかったものであるが、文に終止あることの論理を呼び覚ますのであったろう。そこにはすでに終止による文のまとま方がったので、はも徒、としての論理である。ただし、句の係り受けに、その議論をしたもので、日本語文がその影響にどうであったかは、句法によるところである。上述の一文にも、文とするところを、これはすべて句と置き換えて考えるべきものであるともいえる。句点というのは、文点ともいうべきもの、それを句点としてきたのは、その本質を知るべきである。それでは日本語文法はいかにして文の終始を明らかにすることができたか、終止は終始であるから、時代が下って、近代の文法論には、そこには主語述語の構文を当てはめようとした先達がいたのである。


ウイキペディアより
>「は・も」および「徒(ただ=主格などに助詞がつかない場合)」の場合は文末が終止形になることを示した。
>本居宣長は、係り結びの一覧表である『ひも鏡』(1771年)をまとめ、『詞の玉緒』(1779年)で詳説した。文中に「ぞ・の・や・何」が来た場合には文末が連体形、「こそ」が来た場合は已然形で結ばれることを示したのみならず、「は・も」および「徒(ただ=主格などに助詞がつかない場合)」の場合は文末が終止形になることを示した。主格などに「は・も」などついた場合に文末が終止形になるのは当然のようであるが、必ずしもそうでない。主格を示す「が・の」が来た場合は、「君が思ほせりける」(万葉集)「にほひの袖にとまれる」(古今集)のように文末が連体形で結ばれるのであるから、あえて「は・も・徒」の下が終止形で結ばれることを示したことは重要である。なお、「徒」は現代言語学のゼロに当たる。
>係り結びを森重敏、川端善明のように構文原理でとらえるか、または阪倉篤義、大野晋のように形式上の特殊構文とみるかで理論的基盤は大きく異なる。ただし歴史的にみれば情意的なものであることは間違いない。

 次は歌法、句法とみるか、未見といってもわが本箱のいずれかに所在が不明なので…

係助詞と係結びの本質 (新典社研究叢書)
半藤 英明
出版社: 新典社(2003-09-19)
>目次
第1部 係助詞の本質(係助詞・副助詞のカテゴリーの有効性
「取り立て」の規定と「は・も・こそ」の表現性
「は」構文の成立条件
「二分結合」をめぐる「は・も・こそ」と「が」
「取り立て」の図形的モデル)
第2部 係結びの本質(「は・も・こそ」の歴史と係結び
「こそ」構文の変遷と係結び
係結びの強調
「か・や」構文の意味と意義
新たなる係結び論の構築)


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