山上臣、名は山於 億良とも、山上の名称は、大和国添上郡山辺郷の地名に由来するとされ、山於 やまのえ とも記されると解説する。
元号令和の典拠となった万葉集にある梅の花の歌の序文、初春令月 気淑風和。
序文を詠んだ歌人、山上憶良とされる。
世界大百科事典内
【類聚歌林】より
…奈良朝初期の歌書。万葉歌人山上憶良が東宮(のちの聖武天皇)に進講する目的で古今の和歌に制作事情の解説を付し,中国の《芸文類聚(げいもんるいじゆう)》にならって編纂したものか。《万葉集》巻一・二・九の9ヵ所にわたる引用記事によって片鱗がうかがえる。…
世界大百科事典内の山上憶良の言及
【愛】より
…院政時代の古訓集成とも称すべき《類聚名義抄》に,〈寵〉〈恩〉〈恵〉〈寛〉等々の漢字をアイスという語で読むことが示されている以上,漢文訓読の世界では,相当はやくより〈愛す〉という語が普及していたことを推測させる。
[仏教思想と〈愛〉]
さかのぼって,《万葉集》巻五,山上憶良〈思子等歌一首〉の前に置かれている〈釈迦如来,金口正説,等思衆生,如羅睺羅。又説,愛無過子,至極大聖,尚有愛子之心,況乎世間蒼生,誰不愛子乎〉という漢文の序も,〈愛は子に過ぎたりといふこと無し。…
万葉集巻五にある「老身重病年を経て辛苦しみ、また児等を思ふ歌」
―老身重病年を経て辛苦(くる)しみ、また児等を思ふ歌五首 長一首、短四首
玉きはる 現(うち)の限りは 平らけく 安くもあらむを
事もなく 喪なくもあらむを 世間(よのなか)の 憂けく辛けく
いとのきて 痛き瘡(きず)には 辛塩を 灌ぐちふごとく
ますますも 重き馬荷に 表荷(うはに)打つと いふことのごと
老いにてある 吾が身の上に 病をら 加へてしあれば
昼はも 嘆かひ暮らし 夜はも 息づき明かし
年長く 病みしわたれば 月重ね 憂へさまよひ
ことことは 死ななと思へど 五月蝿(さばへ)なす 騒く子どもを
棄(うつ)てては 死には知らず 見つつあれば 心は燃えぬ
かにかくに 思ひ煩ひ 音のみし泣かゆ(897)
反歌
慰むる心は無しに雲隠れ鳴きゆく鳥の音のみし泣かゆ(898)
すべもなく苦しくあれば出で走り去(い)ななと思へど子等に障(さや)りぬ(899)
水沫(みなわ)なす脆き命も栲縄(たくなは)の千尋にもがと願ひ暮らしつ(902)
しづたまき数にもあらぬ身にはあれど千年にもがと思ほゆるかも(903)
去ル神亀二年ニ作メリ。但類ヲ以テノ故ニ更ニ茲ニ載ス
天平五年六月の丙申の朔三日戊戌作めり。
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
山上憶良
やまのうえのおくら
[生]斉明6(660).百済?
[没]天平5(733)頃
奈良時代の万葉歌人。文武5 (701) 年遣唐少録として名を記録されたのが『続日本紀』の初出で,このとき 42歳で無位であった。霊亀2 (716) 年伯耆守,養老5 (721) 年東宮 (のちの聖武天皇) 侍講となり,この頃『類聚歌林』を編纂したとされる。神亀2 (725) 年頃筑前守となり,同じ頃大宰帥となった大伴旅人らとともに盛んな作歌活動をし,いわゆる筑紫歌壇を形成した。
朝日日本歴史人物事典の解説
山上憶良
没年:天平5?(733)
生年:斉明6(660)
奈良時代の歌人。『万葉集』に,推定作を含む長歌11首,短歌60首余,旋頭歌1首,漢詩文3首を残す。また『類聚歌林』を編んだが,現存しない。
大宝1(701)年遣唐少録に任ぜられる際に,「无位山於億良」と『続日本紀』にみえる。
翌2年渡唐,慶雲1(704)年もしくはその3年後に帰朝。和銅7(714)年従五位下。寒門出身のならいで,以後位は卒年まで据え置かれた。
神亀3(726)年ごろ筑前国守。2年ほどのちに大宰帥となった大伴旅人との文学的な交流が,歌人としての活躍を決定づけるに至る。
『万葉集』に収められる従前の作が,短歌6首にすぎないことによっても,その出会いの貴重さが窺えよう。 神亀5(728)年,旅人は着任早々妻を失うが,旅人に代わって亡き妻を悼んだと覚しき「日本挽歌」(巻5)をものして謹上し,同時に「惑情を反さしむる歌」「子等を思ふ歌」「世間の住まり難きことを悲しぶる歌」(巻5)を撰定している。この3作は,すべて漢文の序を付し,歌との有機的な結合をはかる斬新な形式を持つ。
また,「惑情を反さしむる歌」は,3つの長歌から成る複式長歌で,その試みが「貧窮問答歌」(巻5)に結実する次第となる。
さらに,「老身に病を重ね年を経て辛苦み児等を思ふに及る歌G07D4(巻5)を典型として,反歌を5首,6首と連ね,主題を多面的に展開してもいる。いずれも,自身の現実的,散文的な作風を承知したうえでの,柿本人麻呂の亜流に堕さないための工夫とみてよい。
老病の身を抱えて死にあらがう情を述べ,また,子への愛を歌う作品が異色である。
加えて,「貧窮問答歌」では,律令体制下の重圧にあえぐ人々に,寒門出身で門閥的な制度に阻まれたみずからを重ね,現実のすべなさを慨嘆するなど,総じて,知識人としての自負と苦悩を根幹に据え,歌の世界を大幅に広げていった。
旅人と共に,個我の文学の原点に立つ意義は大きい。
<参考文献>井村哲夫『憶良と虫麻呂』,中西進『山上憶良』,村山出『山上憶良の研究』
(芳賀紀雄)
https://wondertrip.jp/91925/
日本で最も古い歌集『万葉集』の成り立ちと楽しみ方とは
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天智天皇・天武天皇・額田王・鏡王女・有間皇子
第34代舒明天皇の時代(629年)から日本史最大のクーデターである壬申の乱(672年)までの時代
645年の大化の改新から始まった様々な謀反や暗殺、白村江における敗戦、飛鳥から近江への遷都など内外ともに混沌とした時代
持統天皇・大伯皇女・大津皇子・志貴皇子・柿本人麻呂・高市黒人
壬申の乱(672年)から平城京遷都(710年)までの時代
律令制度が整いだし、天皇を中心として国家が安定と繁栄を迎えた時代
山部赤人・大伴旅人・山上憶良・高橋虫麻呂
平城京遷都(710年)から山上憶良(やまのうえのおくら)が亡くなる733年までの時代
奈良の平城京において大陸文化の重要性が説かれ貴族や多くの役人たちの間で漢文の学習や漢詩文の述作が広く行なわれるようになった時代
大伴家持・大伴坂上郎女・笠郎女・中臣宅守・狭野弟上娘子
734年から第47代淳仁天皇の時代である759年まで
東大寺の造営や奈良の大仏で有名な毘盧遮那仏開眼供養など華やかな時代