上海地下鉄の3号線と8号線の交差するところ、足球場だ。
その周りの公園はすぐにも魯迅記念館である。
桜が見事に咲いている。
週末の人の賑わいに、まだしも球技場でサッカーゲームが行われていなかったから、この人出は桜見物の人たちだ。
ちょうど満開だろう。
飛行場からリムジンバスの路線、四綫に乗って、直行した。
高速道と停車しての時間は80分ぐらいだった。
飛行場でこのバスに乗ってここまで来たものの、虹口にあるホテルまで数分とも案内を見つけてきたが、降りて、まず方角がわからない。
中国の道路は細かくストリートの名前があるので、それを探すことにして、ぐるりと見まわして、手元にあるのはネット検索でホテルの案内図だけである。
道路が広いし、向こう側にも、こちら側にも、ちょっと動こうものなら、目的が定まらないときは時間がかかって仕方ないことは、いかにといえども中国には慣れて知っている。
そこで、まずは人に聞いてみる。
箒をもって道路を掃くおじさんに、ホテルの名前を出して聞いてみる。
わからないというから、それでやっと、聞こうと思っていた公園はあるかと、地図を指さすと、すぐそこだと言う。
これで方角は決まった。
何しろ広いのであるから、見渡すにもビルばかり、加えて高速道の橋げたがそびえて、それは地下鉄の路線の橋げたであったが、そこに目指して、スタジアムらしきものを見つけた。
歩いていくと、その空間は桜に埋まっていた華やかな春の彩だった。
スタジアム横の公園で休んで、見当をつける。
するとホテルの名前が、高いビルの上にあるではないか。
上海に来た。
虹口のホテルに泊まった。
うたい文句によれば、この辺りは上海の町らしいまち、それは庶民の味わいがあるところだそうだ。
足球場のあるところ、四川北路商業街とある。
サッカースタジアムがあってにぎわう。
試合が行われるとさぞかし人が出ることだろう。
ここから上海外語大まで10分になる。
迎賓館で会の打ち上げがあった。
あと、一日観光をして、滞在3日、とんぼがえりである。
九州大学と上海外語大、韓国仁川大学校と提携しての、東アジア日本語・日本文化フォーラムに参加した。
上海は何度目かと尋ねられて、この問いはコミュニケーションの決まり文句、それで話が展開する。
はて何回になるか、数えてみると5回、6回と、ふとこれは、いわば上海から南京へ行くために経由地としてのことだ。
と気づいて、最初の思い出からのように、久しぶりのことだと思いなおす。
蘇州、南京と列車で、長距離バスで、高速道で、そして新幹線と乗ってこれまでのこの間を走ったことを思えば上海はなじみのある市街として好きな町だった。
しかし思い出せば上海駅、港をはじめ、観光も外灘、古い街並み、あとは人民広場かなと、思い出していて、これでは上海に来たことにはならない。
すると数えなくても、この上海経験は深くも浅くもともに素通りに近い回数だった。
これは、まあ、何回も来たには違いないし、中国訪問のこれまで三十数回のうちの三分の一くらいは上海を見ていることになる。
それを思い出せばさまざま、めぐる月日がある。
そして日曜日、念願だった、と言っておこう、上海雑技団の演技を見たのである。
これまた、上海の観光の初めてのような感懐だった。
とんぼ返りは、トンボ帰りのことになるか。
25日に朝の東方航空で昼前に浦東空港に着いた。
それから3日を過ごして、トラベルかトリップか、そのふうでは3泊4日の旅だった。
そして夕刻の921便の東方航空で帰った。
中華航空が民航と言っていたか、あれは台湾便に切り替えられて、ずいぶん古いような話であるが、そのころの東方航空に載ってそのサービスに思い出すことは尽きない。
が、いまや日本航空との提携でそれもさま変わりした。
これもまた32年もの歳月がある。
1984年だった、上海に北京から旅行して、そのまま、また北京に戻って滞在していた。
そこに上海旅行と書いて、そうだ、今回もまた上海旅行である。
上海は30数年の間に幾度も通っているから、好きな街でありながら、その強烈な80年代の体験はしばらく思い出すことも語ることも封印していた。
大連から舟で沿岸をたどって煙台青島経由での上海旅行もあったのを急に思い出したりすると、上海は観ずともわかるような街でもあった。
あの雑踏と喧騒はどこへ行ってしまったのだろう。