朝日新聞を読んでいる。15か月前に訪問員が契約をし、6か月でいいからと言うままに読み始めた。思い出せばその新聞は朝日と日経で、10代のころ購読していた。その間には日本経済新聞と中日新聞を読んでいた。地方紙はその記事の特性から地域に来て読むようになって、朝日は読まなくなった。中日新聞が東京新聞の系列にあり、地方新聞もそれほどに地域密着であるわけではない。しかし、久しく中日新聞を読んでいて、この2か月前に購読をやめてしまった。いずれもデジタル化の波で、そのあおりである。読売新聞と朝日、日経がデジタルで読み比べを実験してサイトで掲載しているころ、新聞の偏向にならないようにと思っていたが、いまは結局、2紙で極端を読む。その一つを文章として眺める。社説とコラム天声人語だ。その論調また話題によるが、日本語の文章が主張するものはなにか、記者たちの論説にあわせて議論を考えることになる。違憲と決めた憲法学者はその論拠をどう示したか、論説に入れることなく、安保法制を廃案にするしかないと真っ向からの否定である。憲法違反と言いながら、読めば、記事にはその疑いが濃いと書いているので、そこから議論が展開するのは、廃案の説明にはつながらない。なぜ、廃案にしなければならないかの論説が記者の言葉としてない。観測だけをぶつ。それをさかのぼった議論のボタンのかけ違いとするなら、その説明の論理展開にまさに周囲の取り巻く状況を見ない。そして9条の改正をするしかないと、さらに論理に主張と異なる解決を言い出す。それを言うならば、憲法改正をまともに議論してよいのかと、この論説にたださなければならない。この国が岐路に立たされている、それはこれまでもそうであり、これからもその選択を迫られる。9条のあらわされた平和憲法が守ってきたのは国民である。それは武器を持たない社会の実現によるが、その状況に日本を守る軍隊がいたのか、いないのか、自衛隊がなければどうなったであろう。武器を使わずして戦う兵士が実際にあるとは思えないが、そう主張し続けてきたのであるから、それがひとたび、その主張が破られてしまえば、どう議論をして国を守るというのか。後方支援と復興支援の兵士が見てきたものを内地にだけいて議論していたのでは、国民にも何も見えていない。ニュース映像に流れる現実は同じ立場にいれば兵士に何を望むだろう。兵士に望むのは国民である。国民の寄せる関心の向こうには戦地があるとなると、兵士はそれを見続ける。
朝日新聞社説
「違憲」の安保法制 廃案で出直すしかない
国会で審議されている法案の正当性がここまで揺らぐのは、異常な事態だ。
安倍内閣が提出した安全保障関連法の一括改正案と「国際平和支援法案」は、憲法違反の疑いが極めて濃い。
その最終判断をするのは最高裁だとしても、憲法学者からの警鐘や、「この国会で成立させる必要はない」との国民の声を無視して審議を続けることは、「法治への反逆」というべき行為である。
維新の党が対案を出すというが、与党との修正協議で正されるレベルの話ではない。いったん廃案とし、安保政策の議論は一からやり直すしかない。
■説明つかぬ合憲性
そもそもの間違いの始まりは集団的自衛権の行使を認めた昨年7月1日の安倍内閣の閣議決定である。
内閣が行使容認の根拠としたのは、集団的自衛権と憲法との関係を整理した1972年の政府見解だ。この見解は、59年の砂川事件最高裁判決の一部を取り込み、次のような構成をとっている。
(1)わが国の存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを9条は禁じていない。
(2)しかし、その措置は必要最小限の範囲にとどまるべきだ。
(3)従って、他国に加えられた武力攻撃を阻止する集団的自衛権の行使は許されない。
歴代内閣はこの考え方をもとに次のように説明してきた。
日本は国際法上は集団的自衛権を持っているが、憲法上は集団的自衛権を行使できない。行使できるようにするためには、憲法の改正が必要だ――。
ところが閣議決定は、(1)と(2)はそのままに、(3)の結論だけを必要最小限の集団的自衛権は行使できると改めた。
前提となる理屈は同じなのに結論だけを百八十度ひっくり返す。政府はその理由を「安全保障環境の根本的な変容」と説明するが、環境が変われば黒を白にしてよいというのだろうか。この根本的な矛盾を、政府は説明できていない。
入り口でのボタンの掛け違いが、まっとうな安全保障の議論を妨げている。
■安保政策が不安定に
この閣議決定をもとに法案を成立させるのは、違憲の疑いをうやむやにして、立法府がお墨付きを与えるということだ。
その結果として可能になるのが、これまでとは次元の異なる自衛隊の活動である。
限定的とはいいながら、米国など他国への攻撃に自衛隊が反撃できるようになる。政府の判断次第で世界中で他国軍を後方支援できるようになる。弾薬を補給し、戦闘機に給油する。これらは軍事的には戦闘と表裏一体の兵站(へいたん)にほかならない。
9条のもと、私たちが平和国家のあるべき姿として受け入れてきた「専守防衛の自衛隊」にここまでさせるのである。
リスクが高まらないわけがない。世界が日本に持っていたイメージも一変する。
その是非を、国民はまだ問われてはいない。昨年の衆院選は、間違いなくアベノミクスが争点だった。このとき安倍氏に政権を委ねた有権者の中に、こんなことまで任せたと言う人はどれだけいるのか。
首相が国民の安全を守るために必要だというのなら、9条改正を提起し、96条の手続きに従って、最後は国民投票で承認を得なければならない。
目的がどんなに正しいとしても、この手続きを回避することは立憲主義に明らかに反する。
数を頼みに国会を通しても、国民の理解と合意を得ていない「使えない法律」ができて、混乱を招くだけだ。
将来、イラク戦争のような「間違った戦争」に米国から兵站の支援を求められた時、政府はどう対応するのか。
住民への給水などかつて自衛隊が実施した復興支援とは訳が違う。派遣すれば国民は反発し、違憲訴訟も提起されるに違いない。断れば、日米同盟にヒビが入る。かえって安全保障体制は不安定になる。
憲法学者から「違憲」との指摘を受けた後の対応を見ると、政権の憲法軽視は明らかだ。
砂川事件で最高裁がとった「統治行為論」を盾に、「決めるのは我々だ」と言い募るのは、政治家の「責任」というより「おごり」だ。
■憲法の後ろ盾は国民
先の衆院憲法審査会で、小林節慶大名誉教授がこんな警告を発している。
「憲法は最高権力を縛るから、最高法という名で神棚に載ってしまう。逆に言えば後ろ盾は何もない。ただの紙切れになってしまう。だから、権力者が開き直った時にはどうするかという問題に常に直面する」
権力者が開き直り、憲法をないがしろにしようとしているいまこそ、一人ひとりの主権者が憲法の後ろ盾となって、声を上げ続けるしかない。
「憲法を勝手に変えるな」
(2015年06月16日 朝刊)
天声人語
2015年6月16日(火)付
顔面蒼白(そうはく)をもじった「顔面総白」の創作四字熟語が登場したのは2009年だった。新型インフルエンザが日本に「上陸」して流行し、マスクが売り切れに。白いマスク顔が街にあふれて外国人観光客を驚かせた
初夏からの流行に、「マスクは冬の風物詩ではなくなった」という声も聞こえてきた。保育所が休業したり、修学旅行の中止が生徒を泣かせたり。ピリピリして身構えた記憶がよみがえる、韓国のウイルス禍である
中東呼吸器症候群(MERS〈マーズ〉)コロナウイルスの感染者は増えて、死者は16人を数える。社会不安は広がり、百貨店の売り上げや遊園地の入場客も落ち込んでいるという。朴槿恵(パククネ)大統領は訪米を延期した
昨今のニュースでよく目にしたのは、エボラ出血熱のひもを結んだようなウイルスだった。今度のは丸い。周りの突起が太陽のコロナに似ていることから名がついた。あれやこれや、次から次へと、ミクロの病原体に人類が攻められている図といえる
疫病の流行は、ささいな兆候から始まるのが常のようだ。小説だが、カミュの名作「ペスト」は、医師が階段で1匹の死んだネズミにつまずくところから始まる。それが燎原(りょうげん)の火の前兆だった。今回、韓国では、最初の患者への対応の誤りが広がりを招いたと批判されている
ウイルスはいつどこへ飛び火しても不思議はなく、他人事(ひとごと)でいられる国はあるまい。水際の備えを万全にして、万一のときも素早く消し止めたい。隣国の早い終息を願いながら。
朝日新聞社説
「違憲」の安保法制 廃案で出直すしかない
国会で審議されている法案の正当性がここまで揺らぐのは、異常な事態だ。
安倍内閣が提出した安全保障関連法の一括改正案と「国際平和支援法案」は、憲法違反の疑いが極めて濃い。
その最終判断をするのは最高裁だとしても、憲法学者からの警鐘や、「この国会で成立させる必要はない」との国民の声を無視して審議を続けることは、「法治への反逆」というべき行為である。
維新の党が対案を出すというが、与党との修正協議で正されるレベルの話ではない。いったん廃案とし、安保政策の議論は一からやり直すしかない。
■説明つかぬ合憲性
そもそもの間違いの始まりは集団的自衛権の行使を認めた昨年7月1日の安倍内閣の閣議決定である。
内閣が行使容認の根拠としたのは、集団的自衛権と憲法との関係を整理した1972年の政府見解だ。この見解は、59年の砂川事件最高裁判決の一部を取り込み、次のような構成をとっている。
(1)わが国の存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを9条は禁じていない。
(2)しかし、その措置は必要最小限の範囲にとどまるべきだ。
(3)従って、他国に加えられた武力攻撃を阻止する集団的自衛権の行使は許されない。
歴代内閣はこの考え方をもとに次のように説明してきた。
日本は国際法上は集団的自衛権を持っているが、憲法上は集団的自衛権を行使できない。行使できるようにするためには、憲法の改正が必要だ――。
ところが閣議決定は、(1)と(2)はそのままに、(3)の結論だけを必要最小限の集団的自衛権は行使できると改めた。
前提となる理屈は同じなのに結論だけを百八十度ひっくり返す。政府はその理由を「安全保障環境の根本的な変容」と説明するが、環境が変われば黒を白にしてよいというのだろうか。この根本的な矛盾を、政府は説明できていない。
入り口でのボタンの掛け違いが、まっとうな安全保障の議論を妨げている。
■安保政策が不安定に
この閣議決定をもとに法案を成立させるのは、違憲の疑いをうやむやにして、立法府がお墨付きを与えるということだ。
その結果として可能になるのが、これまでとは次元の異なる自衛隊の活動である。
限定的とはいいながら、米国など他国への攻撃に自衛隊が反撃できるようになる。政府の判断次第で世界中で他国軍を後方支援できるようになる。弾薬を補給し、戦闘機に給油する。これらは軍事的には戦闘と表裏一体の兵站(へいたん)にほかならない。
9条のもと、私たちが平和国家のあるべき姿として受け入れてきた「専守防衛の自衛隊」にここまでさせるのである。
リスクが高まらないわけがない。世界が日本に持っていたイメージも一変する。
その是非を、国民はまだ問われてはいない。昨年の衆院選は、間違いなくアベノミクスが争点だった。このとき安倍氏に政権を委ねた有権者の中に、こんなことまで任せたと言う人はどれだけいるのか。
首相が国民の安全を守るために必要だというのなら、9条改正を提起し、96条の手続きに従って、最後は国民投票で承認を得なければならない。
目的がどんなに正しいとしても、この手続きを回避することは立憲主義に明らかに反する。
数を頼みに国会を通しても、国民の理解と合意を得ていない「使えない法律」ができて、混乱を招くだけだ。
将来、イラク戦争のような「間違った戦争」に米国から兵站の支援を求められた時、政府はどう対応するのか。
住民への給水などかつて自衛隊が実施した復興支援とは訳が違う。派遣すれば国民は反発し、違憲訴訟も提起されるに違いない。断れば、日米同盟にヒビが入る。かえって安全保障体制は不安定になる。
憲法学者から「違憲」との指摘を受けた後の対応を見ると、政権の憲法軽視は明らかだ。
砂川事件で最高裁がとった「統治行為論」を盾に、「決めるのは我々だ」と言い募るのは、政治家の「責任」というより「おごり」だ。
■憲法の後ろ盾は国民
先の衆院憲法審査会で、小林節慶大名誉教授がこんな警告を発している。
「憲法は最高権力を縛るから、最高法という名で神棚に載ってしまう。逆に言えば後ろ盾は何もない。ただの紙切れになってしまう。だから、権力者が開き直った時にはどうするかという問題に常に直面する」
権力者が開き直り、憲法をないがしろにしようとしているいまこそ、一人ひとりの主権者が憲法の後ろ盾となって、声を上げ続けるしかない。
「憲法を勝手に変えるな」
(2015年06月16日 朝刊)
天声人語
2015年6月16日(火)付
顔面蒼白(そうはく)をもじった「顔面総白」の創作四字熟語が登場したのは2009年だった。新型インフルエンザが日本に「上陸」して流行し、マスクが売り切れに。白いマスク顔が街にあふれて外国人観光客を驚かせた
初夏からの流行に、「マスクは冬の風物詩ではなくなった」という声も聞こえてきた。保育所が休業したり、修学旅行の中止が生徒を泣かせたり。ピリピリして身構えた記憶がよみがえる、韓国のウイルス禍である
中東呼吸器症候群(MERS〈マーズ〉)コロナウイルスの感染者は増えて、死者は16人を数える。社会不安は広がり、百貨店の売り上げや遊園地の入場客も落ち込んでいるという。朴槿恵(パククネ)大統領は訪米を延期した
昨今のニュースでよく目にしたのは、エボラ出血熱のひもを結んだようなウイルスだった。今度のは丸い。周りの突起が太陽のコロナに似ていることから名がついた。あれやこれや、次から次へと、ミクロの病原体に人類が攻められている図といえる
疫病の流行は、ささいな兆候から始まるのが常のようだ。小説だが、カミュの名作「ペスト」は、医師が階段で1匹の死んだネズミにつまずくところから始まる。それが燎原(りょうげん)の火の前兆だった。今回、韓国では、最初の患者への対応の誤りが広がりを招いたと批判されている
ウイルスはいつどこへ飛び火しても不思議はなく、他人事(ひとごと)でいられる国はあるまい。水際の備えを万全にして、万一のときも素早く消し止めたい。隣国の早い終息を願いながら。