雑誌、日本語論の創刊は前後10年して画期にあったと、そのことを日本語学10年でとらえる。タイトルでは、なにも日本語学を事始めにする、いつからであったとするかを解決するものではない。1982年11月に明治書院が創刊号を出して、1993年11月に、この日本語論が創刊をしている。そして2005年、日本語の研究が、国語学改め通巻を以て継続するが、日本語学会に、日本語と銘打って冊子名に採った。日本語学10年、前後の20年をとらえる。日本語論創刊をはさみ、1983年から2003年ということになる。
ここにバックナンバーを繰って、最初の特集が、意味についてのものであったことをくっきりと思い出し、2号をもって1982年の巻号は終えているので、これまた、新しい始まりを1983年と意識する。誰もがそう思ったのではない。わたしに、できごとであると思っていた。1979年に助手職を得て2年、1981年に講師となるが、その間には、78年からの日本語教育があって、文学部に赴任したころ、大阪上六から、そこは上八に行くターミナルで、懐かしい木造校舎で留学生教育を行っていて、そのまま引き継ぎ箕面の山の上に至る5年を経ることになるが、1984年は北京語言学院出国部に日本語専家で交換教員赴任をするから、1983年までの、豊橋からの箕面通いは、講師になり、助教授になりしての、一方での留学生日本語教育であったので、新幹線通勤にも、その山を下りる羽目になったのは、わたしの転機となる画期であった。
すでに本務でも、と言っても、これは、いまでいうところのボランティアであって、あたえられた任務は、日本語研修のための中国からの日本語教師を1年プログラムで、79年、80年、81年と年次を追って、89年まで続けることになる、彼らにとってはサバイバルのような、奨学研究員への、その研究指導にあった。研究留学生と中国人教師と、それぞれに日本語教育の研究と学習になる。本務は実は、すぐにも古典の文学演習を担当し、国語の概論を講義し始めていた。その後の交換教員の経験は日本語教育がボランティアでなくなり、わたしにおける専門が、国語国文学から日本語学へとシフトするきっかけとなって、国文学は日本文学、日本文化論ともなったのである。
1984年から1994年なると、さらに国際交流の大学提携にまで、勤務先を変えての、国家公務員としての業務にも展開する。まさに、わたしにとっても日本語論の時代の始まりである。