さきもり 防人 この和語漢語の由来は万葉集にある。防人の歌と残された、東国などから派遣され、筑紫、壱岐、対馬の要地の守備に当たった兵士のことである。
軍事史にからめて、知るべきはなにか。>なお、防人に関しては東国からの徴兵は廃止されたものの、9世紀初めから10世紀終わりにかけて、しばしば新羅の海賊が九州を襲ったため(新羅の入寇)制度自体は存続し、九州の兵士がそれにあてられた。
万葉集にみる「防人」に関する考察 - 九州看護福祉大学紀要
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高継芬 著
中国にも『詩経』や『唐詩選』の中に万葉集の防人歌と似ている歌がある。小雅の「采薇」は ... 辺塞詩」とはこれら都から遠く離れた「辺塞」での異民族との戦いを舞台にした「防人歌」のこ. とで、家族や ..... 是可多要牟等 伊比之兒呂婆母(作者不明). 訓読=夕され ...
ウイキペディア軍事史より
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奈良盆地を拠点とした大和政権は、7世紀初めには冠位十二階の制定などに見られるように国家としての体制を整備していった。7世紀半ば、大化の改新によって天皇中心の中央集権を進める皇太子中大兄皇子(後の天智天皇)は、朝鮮半島の百済が滅亡すると、百済復興を目的として、47,000人もの大軍を朝鮮半島に派遣した。しかし663年に唐と新羅の連合軍に白村江の戦いで敗北し、朝鮮半島における影響力を失った。その後、唐・新羅の日本列島侵攻が予想されたため、対馬や壱岐などの重要地域に防人や烽火を設置し、各地に山城が築かれた他、北九州の外交と防衛の拠点である大宰府には水城を設置して敵の侵攻に備えた。天智天皇の死後、皇位継承を巡って、671年に大友皇子と大海人皇子の間に壬申の乱が発生した。1ヶ月に渡って近畿圏各地で戦闘が繰り広げられ、古代最大の戦争に発展した。このとき、大海人皇子は東海道、東山道の諸国から兵を動員し、大友皇子側は東国と吉備、筑紫(九州)に兵力動員を命じている。これらの兵力は歴史学で国造軍と呼ばれ、中央・地方の豪族が従者や隷下の人民を武装させて編成していた。
律令制と軍団の設立
白村江の戦いの敗北により、国防力の増強が必要となった。豪族の兵であった国造軍に変わり、国家が兵士を徴兵し[7]、民政機構から分独立した[8]軍団[9]が組織されることとなった。律令制が本格的に導入されると軍事制度も整備され(軍防令)、中央官制の兵部省が設置され、徴兵を可能にする戸籍の整備が進んだ(正丁(成年男子)3人に1人が兵士として徴発される規定であった)。徴兵された兵士は各地に設置された軍団に配属された。原則としては現地勤務であるが、一部の兵士は宮中警備を担う衛士と九州防衛を担う防人となった。一個軍団の兵員数は二百人から千人の間であるが、千人を超える例も存在したと考えられている。軍団は3~4郡ごとに設置されており、九州では各国に2~4個軍団(1600~4000人)が置かれていたことが記録に残っている。軍団兵士の数は20万人に達したとの見方もある[10]。但し、軍団の兵士は交代で勤務しており、通常の兵力は定数の数分の一であった。なお蝦夷と対峙する陸奥国には、軍団とは別に鎮守府に属する鎮兵と呼ばれる固有の兵力が常設配備されていた。鎮守府は始め多賀城(現宮城県多賀城市)におかれ、後に胆沢城(現岩手県奥州市)に移された。多賀城は防御のために周囲を長大な柵で囲まれていたが、この内部に陸奥国府がおかれていた。この他にも蝦夷に対する備えとして、軍事・行政機能を有する多数の城柵が築かれた。
軍団兵士は、自弁で弓矢・大刀・小刀等を用意する必要があった[11]。その他の官給の武器として矛や弩があり、弩に関しては体格と腕力に優れた者が隊(50名)ごとに各2名ずつ選ばれて射手の教育を受けた[12]。弓馬が得意なものは騎兵とすることとなっていたが[13]、多くは歩兵であったと考えられる[14]。騎兵は、基本的に弓射騎兵であるが[15]、槍を扱う突撃騎兵も存在したと推定される[16]。甲冑としては鉄製のものは少なく、「綿襖甲」・「綿襖冑」[17]や「革製甲」[18]が使用されていた。
遠征軍が組織される場合は、兵一万人以上(一軍)なら将軍一人、三軍ごとに大将軍一人を置くこととなっていた。実際には三軍からなる遠征軍が編成されることはなかったが[19]、大規模な軍や三位以上のものが軍を指揮する場合には、大将軍の呼称が用いられた。著名な例としては、8世紀終わりから9世紀始めにかけての陸奥国での蝦夷に対する戦争で征夷大将軍に任ぜられた、坂上田村麻呂がある。
なおこの頃中国から兵法が伝わっている。『続日本紀』によると、大宰府にあった吉備真備のもとへ、760年に『孫子の兵法』を学ぶために下級武官が派遣されたことが記されている。真備は764年に起きた藤原仲麻呂の乱では孫子の兵法を実戦に活用したとされている。
^ 山内邦夫「律令制軍団の成立について」184-185頁。
^ 橋本裕「軍毅についての一考察」9頁。
^ 軍団が設立された時期は明らかではないが、飛鳥浄御原令によるとする説が有力で、遅くとも大宝律令には規定されている。
^ 下向井龍彦『軍縮と軍拡の奈良時代』。歴博:71号、1995年
^ 養老令第十七軍防令 第七 備戎具条
^ 養老令第十七軍防令 第十 軍団条
^ 養老令第十七軍防令 第五 隊伍条
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
防人歌
さきもりうた
『万葉集』に収められた防人とその近親者の詠んだ和歌。巻七,巻十三にそれらしいものが各1首,巻十四に5首,巻二十に天平勝宝7 (755) 年のもの 84首および「昔年防人歌」9首が収録されている。このうち天平勝宝7年のものは,東国 10ヵ国の防人部領使 (さきもりのことりづかい) の手を経て当時兵部少輔として防人のことを司っていた大伴家持に提出された 166首中「拙劣歌」を除いたもの。長歌1首を除きすべて短歌。別れの悲しさや旅の苦しさなどを率直に詠んだものが多い。
世界大百科事典 第2版の解説
さきもりうた【防人歌】
《万葉集》中に収められた防人および防人の家族たちの歌。〈東歌(あずまうた)〉とともに,古代東国の民衆の歌として貴重な作品群である。総数は98首,うち97首が短歌で,残る1首は長歌である。内訳は,巻十四(東歌)中の〈防人歌〉の標目下に5首,巻二十中〈天平勝宝七歳乙未二月,相替りて筑紫に遣さるる諸国の防人等の歌〉の題のもとにそれぞれの作者の名前が付記された84首(うち1首が長歌),そして〈昔年の防人の歌〉8首,〈昔年相替りし防人の歌〉1首である。