万葉集歌人に、万葉集の編纂にかかわる人たちを求めるなら、貴族である大伴氏にその候補をあげる。なかでも歌人としての行幸供奉にあったその人である。持統万葉と言われる天皇の時代、歌集に連なる歴代天皇に大伴旅人はかかわっている。その作歌活動には万葉集の様々な側面を見出すことができる。
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tabito2.html
大伴旅人 おおとものたびと 天智四~天平三(665-731) 略伝
>安麻呂の長男。家持・書持の父。坂上郎女の異母兄。万葉集には大宰帥大伴卿・大納言卿などの敬称で現れ、また自らは書簡文に淡等と署名しており、「旅人」の名は一度も見えない。続日本紀には「旅人」「多比等」とある。
和銅三年(710)、元旦朝賀において左将軍として騎兵を陳列、隼人・蝦夷らを率いる。同七年、父を亡くす。同八年正月、従四位下より従四位上に昇叙される。同年五月、中務卿に就任。養老二年(718)三月、参議を経ず中納言に昇進する(中務卿留任)。この年、長男家持生誕か。同三年正月、正四位下。同四年三月、征隼人持節大将軍として九州に赴任するが、同年八月、右大臣藤原不比等が薨去し、勅命を受け京に帰還した。養老五年(721)正月、従三位。同年十二月七日、元明上皇が崩御し、翌日陵墓の造営に当たる。神亀元年(724)二月、聖武天皇即位に際し、正三位に昇叙される。同年三月、吉野行幸に従駕し勅を奉じて歌を作るが、奏上には至らなかった。神亀四年(727)末か翌年春頃、帥として大宰府に赴任。以後、山上憶良・沙弥満誓ら文人と交流。翌年夏、正妻の大伴郎女を失い、報凶問歌などを詠む。天平二年(730)正月、大宰府の帥邸において梅花宴を開催する。同年十一月、大納言を拝命し、やがて帰京。同三年正月、従二位に昇り、当時の臣下最高位となる。同年七月二十五日、薨ず。六十七歳。
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
大伴旅人
おおとものたびと
[生]天智4(665)
[没]天平3(731).7.
奈良時代の政治家,歌人。大納言安麻呂の長男。家持 (やかもち) の父。養老2 (718) 年中納言,同4年征隼人持節大将軍に任じられ,隼人の反乱鎮圧に功があった。神亀4 (727) 年頃大宰帥 (だざいのそち) となって九州に下り,天平2 (730) 年大納言に昇進して帰京,翌年没。
朝日日本歴史人物事典の解説
大伴旅人
没年:天平3.7.25(731.8.31)
生年:天智4(665)
奈良時代の貴族。『万葉集』の歌人。壬申の乱(672)のときの功臣大伴安麻呂の第1子で,家持,書持の父。母は,弟の田主と同じく巨勢郎女か。
安麻呂が,平城京遷都後,佐保に居宅を構え,「佐保大納言卿」などと呼ばれたことをもって,旅人,家持へと続くこの家を,佐保大納言家と称する。
奈良時代,大伴氏のなかで,最も有力な家柄であった。
和銅3(710)年正五位上左将軍として,『続日本紀』に初めてみえる。中務卿を経て,養老2(718)年中納言となり,神亀1(724)年聖武天皇即位の際に,正三位に昇叙。
「暮春の月芳野離宮に幸す時に中納言大伴卿勅を奉りて作る歌」(『万葉集』巻3)は,その直後の行幸に供奉しての作らしい。旅人の作品と判明しているもののうちの初出となるが,長歌は当面の1首のみで,他の推定作を含む七十余首は,すべて短歌であり,しかも中納言兼大宰帥として赴任したのちの4年間に偏ることが注意される。
その大宰帥任官は,神亀5年ごろか。
天平2(730)年大納言に昇進して帰京。翌年従二位に進んだが,秋に薨じた。
『懐風藻』に「初春宴に侍す」と題する詩が録され,年67とある。
老齢で不本意な大宰帥として西下し,着任早々に妻の大伴郎女を失ったこと,また,筑前国守山上憶良との文学的な交流が,晩年の多作の契機となっている。旅人を中心に,憶良,沙弥満誓(笠麻呂),ひいては大宰府官人らを加えて,旺盛な作歌活動が展開されるに至り,近時これを「筑紫歌壇」と呼ぶ。
晩年の自身の生活感情をしみじみと表出する性格が際立ち,『万葉集』において,短歌が新たな抒情性を獲得してゆく過程を,この歌人にみて取ることができる。
漢詩文の表現を意欲的に摂取し,唐初の伝奇小説『遊仙窟』に倣った「松浦河に遊ぶ」序と歌群(巻5)を合作するなど,歌における風雅の世界を創造していることも見落とせない。
また,長歌の衰退期にあって,「讃酒歌十三首」(巻3)をはじめ,短歌による本格的な連作を編み出した歌人としても記憶されるべきである。
<参考文献>五味智英『万葉集の作家と作品』,伊藤博『万葉集の歌人と作品』下
(芳賀紀雄)