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いよいよ明日、封切ですね、『ダ・ヴィンチコード』。 まだ小説も読んでないんですけどね、実は・・・。 でも以前ビデオ屋で『ダヴィンチコード デコ―デッド』とゆうDVDを借りて見たんですが、ダヴィンチ研究家とか歴史研究に携わる学者さんたちの意見を取り入れながら、キリスト教を検証するといった内容だったと思いますが、なかなか見ごたえあって面白かった。 最近になって『ユダの福音書』の存在だとかが表立ってきているのですが、これはキリスト教圏の国々に対する警鐘ではないか?
つまり、今までの信心のやり方に問題があるのではなかろうか?
別にイエスが神の子でなくてもいいのである。 神聖視するのは彼自信ではなく、彼の思想であることを思い出せとゆうことではなかろうか?
人の子であるイエスがマグダラのマリアと恋に落ち、子を授かる・・・とゆうことを隠蔽することこそが、自然に反するし、もともとイエスは『愛』の尊さを実践する事を啓蒙してきたのではないのだろうか?別に『愛』といっても、男女間のそれだけではないのは普通にわかっていただけると思うのだが、どうも、今この映画に反対されている団体の皆さんは、イエスの博愛心だけを認め、個人の愛を罪のように見ているふしがある。
これは矛盾してるように思うのは、私だけか?
奇跡と云う名のトリックに盲目になって、神の真意を汲み取る事ができなくなっている信者があまりにも多いのではないのか? 博愛心があれば他宗教も認めることが出来るはず。戦争なぞ起こり得ないはずなのだが、実際は違う。
では、彼らの信仰心は何を守っているのか? 結局、自分たちが神格化した人物だけをまもっているようにしか思えないのである。
これでは単なる偶像崇拝である。 旧約聖書の神とよばれるものが禁じた十戒の一つである。
そろそろ精神的に見るべき方向を改める時期なのかもしれない・・・。
さて、画像は京都、下賀茂神社の参道の糺すの森です。 あいにくの雨だったのですが、うす曇の天気が参道の雰囲気を一層神聖な物にしてくれるようで、なんとも云えない清々しさ。 後ろから歩いてきた紋付の和服姿のご老人の居づまいがまわりの緑に溶け込んで、思わずシャッターを切ってしまいました。 うーーん、京都だなぁ・・・。