25日に発売された最新の「6s」をはじめ、世界で累計7億台以上売れている米アップルの「iPhone(アイフォーン)」。その生産を、京都の企業が支えている。

 アップルが2月に公表した納入業者約200社のうち、七つは京都に本社を置く企業グループだ。

 中でも村田製作所は、大きな存在感を放っている。電気を一時的にためる積層セラミックコンデンサーで、世界最大のシェアを占める。1台のスマートフォンに500個ほど使われるこの部品で、世界最小のものをつくる技術を持つ。

 iPhoneに部品を供給するメーカーの役員は「アップルと韓国サムスンの『2強』はもちろん、世界中のスマホメーカーが取引を求める別格の存在といえる」と話す。

 村田の原点は、京都の伝統工芸、清水焼だ。創業者の故村田昭氏が、耐熱性や電気を通さない性質を持つ「特殊陶磁器」をつくるようになり、それが化学材料を焼き上げてつくるセラミックコンデンサーにつながった。さらにその他の電子部品へと事業を拡大した村田の売上高は昨年度、初めて1兆円を超えた。

 村田だけではない。京セラオムロン日本電産、ローム……。京都には、その分野で世界に知られる企業が集まっている。

 東京へ行く企業が少ないのも特徴だ。帝国データバンクの2005~14年の調査では、京都から東京に本社を移した企業は66社にとどまった。659社と約10倍にのぼる大阪や、福岡(132社)などと比べ、全体の企業数を考えても、ぐっと少ない。

 京都市が08~09年、市内の中核企業29社に聞き取り調査をしたところ、本社を移す考えの企業はゼロだった。島津製作所の上田輝久社長は「世界的な観光都市だから、海外の顧客を呼びやすい」と語る。

 島津は売上高の約半分を海外であげる。昨年建てた新社屋は、海外の来客用の商談スペースを広げ、イスラム教の礼拝室もつくった。上田社長も自ら海外の顧客に京都を案内してきた。桜の時期などは鴨川を散策し、京料理と日本酒でもてなす。「そういうときポロッと本音が出る。顧客の考えが分かれば、開発の大きなヒントになる」

 ロームは、毎年秋に首都圏で開かれる見本市で、京都を紹介する自社製の冊子を配っている。今年で21年。「これを縁に、次は京都でお会いしましょうという意味なんです」と、編集を担う広報担当者は言う。

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 京都企業が独自の技術を持ち業界をリードするようになるきっかけは、「遷都」への危機感だった。

 「都が東京に移ってから京都は経済が衰退したが、ピンチをチャンスに変えて乗り切った」。京都の歴史や文化に詳しい河原典史・立命館大教授は説明する。

 明治2(1869)年、当時の明治天皇江戸城に移ると、宮家や公家、武家が東京へ移動した。30万人規模だった京都の人口は、数年で10万人減ったとされ、主力産業だった織物や工芸品の市場が縮小した。

 「このままでは街がさびれてしまう」。京都府は、新しい産業をつくり出して経済を立て直すことに取り組んだ。遷都の翌年には、理化学の研究施設「舎密局(せいみきょく)」を設立、外国人教師を雇って新技術の導入や教育に力を入れた。

 島津の創業者、初代・島津源蔵は、ここで学んだ一人だ。もともと鋳物の仏具職人だったが、「舎密局の近くに住んでいたこともあり、実験器具の修理などを頼まれるようになった」(島津製作所創業記念資料館の川勝美早子学芸員)。

 源蔵は1875年、学校用の理科の実験器具などをつくり始める。避雷針の模型や真空ポンプなど、頼まれれば何でもつくった。創業2年後には、理科教育を盛り上げるイベントのため、日本で初めて有人の気球を空に浮かべた。2代目・源蔵の時代に、国産初の医療用X線装置や蓄電池などを開発。様々な精密機器を手がける世界的なメーカーに成長していく。

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 島津は、新興ものづくり企業を育む役割も担った。

 オムロンは創業者の故立石一真氏が、友人の島津社員との会話からX線撮影に必要なタイマーの開発を思いついたのが原点だ。製陶所だった村田は、島津が探していた航空機用の部品を手がけたことをきっかけに、販路を広げていく。

 人のつながりも好循環を生む。日本電産を創業した永守重信社長は、立石氏によく相談に行った。「壁にぶつかったときの心の支えだった」と振り返る。永守社長は最近、毎月のように若い経営者たちに会っているという。

 企業の経営戦略に詳しい同志社大の村山裕三教授はこう指摘する。「京都企業は『マネをしない』『一つの技術を極める』といった職人文化の伝統を引き継いでいる。各社の事業領域はほとんど重ならず、人の輪が広がってネットワークができた。それが京都の大きな強みになっている」