波と狛のつれづれ日記

日本スピッツ波と狛と、ときどき箔

願いを叶えて!事任八幡宮と粟ヶ岳

2025-02-22 00:59:01 | お出かけ

こんばんは、白黒茶々です。

年の瀬が迫った12月15日に、私は波と狛を伴って掛川市を訪れました。 掛川城掛川古城を散策してからも、まだ時間と体力に余裕があった……… というよりは、もともとそれだけで終わるつもりはなかったので、さらなる目的地に向かいました。 そのような勢いで、私たちが向かったところは………

掛川市東部の旧日坂宿の近くにある、事任(ことのまま)八幡宮さんでした こちらは由緒ある神社なのですけど、ワンコにも優しくて、一緒に参拝することができます。

事任八幡宮は、成務天皇の御代(西暦190年頃)に創建され、平安時代の大同2年(807年)に現在の場所に移されたとされています。 「枕草子」にも名前が記され、“願い事がことのままに叶う神社”として信仰されています。 ちなみに、主祭神は己等乃麻知媛命(ことのまちひめのみこと)であります。

願い事を口に出して言うとより叶うというので、私は「癌の手術で体が弱った母が、元気になって長生きできますように」と、お願いしました。

神社の境内にはいくつかの巨木があって、厳かな雰囲気がより漂っています。 拝殿の右奥には、「八幡宮の大杉様」と呼ばれる御神木の大杉があります。 根回り11.2m。 高さが35.6mもあるそうです 祈願ロウソクを立てて祈願すると、願い事が天に届くと云われていて、パワースポットでもあるみたいです。
事任八幡宮でのお詣りを終えたら、この日の最終目的地となる粟ヶ岳に向かいますよ その山は車で上れないこともないのですけど………

山頂に続く道は、幅が車1台がなんとか通れるぐらいしかないうえに、かなり曲がりくねっています。 ヘアピンカーブもありますし、頼むから対向車来ないで〜 ………なんて言っていたら、来てしまいましたっ それでも、退避スペースの近くだったので、なんとかやり過ごすことができました。 その後も、もう2台程すれ違いました。 そんな険しい道が4km程、続くのですよ。 そうしているうちに………

ようやく山頂の駐車場まで行き着くことができました 粟ヶ岳は標高が532mもあるので、「高い」を通り越して天界に来たような気分になりました。 こちらは標高の高い山ということもあって………

テレビ局やラジオ局などの電波塔が林立しています。 さらにその奥には………

阿波々神社……… あなみなみじんじゃ? いや、アババ神社? 読み方はわからないのですけど、立派な神社がありました このような山岳にこれほどの規模の社殿を造るなんて、スゴいことです
※阿波々神社は「あわわじんじゃ」と読みます。(編集部調べ)

せっかくなので、標高500m以上もある天空で「狛(犬)と狛」をやっておきましょう 注文したワケではないのに、狛は吽形の狛犬に合わせて口を閉じてくれました。
話は変わって、阿波々神社は天平8年(736年)に創建されたと云われる、歴史のある神社です。 掛川(古)城主だった朝比奈氏に代々崇拝され、近代に山頂まで自動車道が開通したのに伴って、社殿や社務所も整備されました。 また、その神社の裏側には………

粟ヶ岳の頂上があるのですよ しかし、そのまわりは木が茂っているので、見晴らしは良くありません。 それはさておき、粟ヶ岳には「無限の鐘」の伝説があります。

第45代聖武天皇の天平年中(西暦729~748年)のことである。小夜の中山の東の坂を下ると、菊川の里という所があり、その里(菊水の滝)に仙人が住んでいた。その仙人が常に信仰している不動明王の誓願によって、鐘を供えることを考え、小さな釣り鐘を作り、粟ヶ岳の頂上の古い松の枝に掛けた。 この鐘を一度突くと災難を免れ、二度突くと病難を除き、三度突くと家が栄え、四度突くと運が開けて出世をし、五度突くと子孫までも栄え、六度突くと武運長久となり、七度突く者は末永く長者になれるという噂が広まった。 この噂を聞いて、鐘を突こうとして登山する者が多くなった。しかし、当時は道も小さく、しっかりできていないので、足を滑らして谷底に落ち、怪我をしたり、死ぬ者が多く出た。そのため、誰れ言うとなく「地獄へ落ちる鐘」と恐れられた。 小鮒川の畔に、一人の長者がいた。この人は強悪無道な人なので、人々は、荒石長者と呼んでいた。この長者も、世の常の人のように、人に勧められ、末長く長者になれると信じ、欲に誘われて鐘を突きに出かけた。どうやら粟ヶ岳の頂上に登り、松の枝に釣ってある鐘を張り合い込んで突いた。ところがどうしたところであろう、鐘を突くと同時にそのまま地獄の底に落ちていった。
三度の食事は、みんな蛭となってしまって、食べることができず、大変な苦しみにあって、憐れな最期を遂げたということである。
それから「女房の朝寝と無間の鐘は、朝のご飯が蛭(昼)になる」という歌が歌われ、今も伝わっている。 このように、罪多い人たちが鐘を突いたので不幸を招いたのであるが、この鐘があるために世人を惑わし、更に罪を作り出しているということは発願者の意図に反することである。そこで、天禄二年(西暦972年)住僧は、この鐘を外して頂上の井戸(約百米)の底に埋めてしまった。この井戸を無間の井戸という。(「史跡と伝説」掛川市商工観光課)より)
阿波々神社の境内にはその「無間の井戸」の跡があるのですけど、私は気付かずにスルーしてきてしまいました。

………が、私が無間の井戸の存在を知ったのは、今回の散策から帰った後のこと。 なので、この時点では何の澱みもなく、粟ヶ岳世界農業遺産茶草場テラスからの見晴らしを堪能していました。 そこに広がる風景は天界から見下ろしているかのようで、大井川の流れや島田市街を手に取るように眺めることができました。 そうしている中で、「後ろ姿のお坊さんみたいな像は何?」という声が聞こえてきたみたいなので、お答えします。

こちらは栄西禅師という、平安時代末期から鎌倉時代初期の僧です。 彼は、中国から茶種を持ち帰り、喫茶の法を普及させた「茶祖」でもあります。 今は粟ヶ岳から、お茶の生産が盛んなこの地域を見守っています。

あとその近くには、今年の干支となる巳も造られていました。 年賀状の写真に使いたくなるのですけど、今年は出すことはできませんでした。 なので、この巨大なヘビでもって、今回の日記を締めさせていただきます。



にほんブログ村 犬ブログ スピッツへ   にほんブログ村 犬ブログへ
 「『DRAGONBALL』の主人公は、実は孫悟空ではなく神龍かも」と思われている方は、こちらに投票してやってください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アートになった掛川城

2025-02-19 01:01:36 | お城

こんばんは、白黒茶々です。

今回は紅葉狩りのような季節感のあるネタではないのですけど、昨年の話になります。 それでも、その年のストックは今回と次回の日記で使い果たすので、安心して(?)読み進めていってくださいませ ということで、話は昨年の12月15日にまでさかのぼります。 その年の私はお城運に恵まれていて、それまでに16ヶ所のお城を巡っていました。 そのような中で、静岡県内でもしばらく行ってないところがありました。 それはどこかといいますと………

掛川城でした 大手門駐車場の屋上からそのお城を俯瞰する眺めを、私は気に入っています。 寒空のもとで、風に吹かれながらその風景を撮影したら、お城に迫りますよ

………という勢いで、先程の画像の手前にも写っていた、大手門の前にまで来ました この建物は、本来あった場所から北に50mほどずらして、平成7年(1995年)に復元されました。 お城の正門にふさわしい大きくて立派な建物ですね。 その門を潜ったところには………

大手門番所があります 以前は魔改造を受けて他の場所に移築されていたのですけど、大手門の復元に合わせて、本来の姿に戻してこの場所に持ってこられました。 実は今からン十年前の昭和の頃に、私は魔改造時代の番所を見たことがありました。 そこから西に100mほど行ったところには………

観光名所によく置かれているような、顔出しパネルがあります。 安土桃山時代に城主となり、掛川城を近世の城郭に大改築した山内一豊と、内助の功で彼を支えた妻の千代をモチーフにしていますね。 を後ろで支える役は私一人しかいなかったので、2回に分けて撮った写真を切って繋げて、我ながら上手く合成しました。 ここまでだったらよくある顔出しパネルなのですけど、実はこちらのヤ ツには違うイジり方があるのですよ そいつとの角度や距離を調節して撮ると………

後方にある天守太鼓櫓が、一豊公の顔の穴にスッポリと収まるのですよ それは…………

マグリットさんの絵のようだと、SNSで話題になりました。 確かにアートといえなくもないのですけど、お城が飲み込まれているようにも見えてしまいます。 そのトラップ(?)をやり過ごしたら………

三の丸広場まで来ました。 このあたりは掛川城の三の丸だったところで、30年ほど前までは市役所が建っていました。 今ではその場所から、道路を隔てて掛川城の天守四足門太鼓櫓などを仰ぎ見ることができます。 そうしたら、踏み幅の大きい石段を上っていって………

本丸跡まで来ました 「ゆるキャン△」の主要メンバーのパネルがあるのは、掛川市がその作品のモデル地&聖地になったからだと思われます。 しかし、彼女らは掛川城は訪れてはいないのですよね。 ちなみに「ゆるキャン△」では、志摩リン(CV: 東山奈央)が同市内にあるきみくら本店(作中ではたかくらという名前で登場)に立ち寄っています。

また一段下がった二の丸には、二の丸御殿があります 御殿は城主の住まいや政庁として使われた建物です。 嘉永7年(安政元年・1854年)の安政の大地震の翌年から文久元年(1861年)にかけて建てられ………

明治以降は学校や役所、消防署などに転用されました。 現存する城郭御殿は全国に4つしかないことから、現在は国の重要文化財に指定されています。 もちろん、その内部まで皆さまをご案内いたします

順路の序盤に、御殿の魅せ場となる次の間が来てしまいました。 こちらは、城主と謁見できる身分の高い者だけが通された部屋です。 さらに、その城主が藩の政治をつかさどった公的な部屋となる御書院上の間大書院)に続いています。 それから、このあたりは廊下まで畳敷きとなっております。

こちらは長囲炉裏の間ですね。 城主や奥方が使用した部屋で、現在は杉良太郎さんから寄贈された甲冑が展示されています。

大目付部屋は、藩内の監察・警備などを主要な任務とした大目付の部屋であります。 この畳敷き、竿縁天井の落ち着いた佇まいは、いいと思いませんか?

御殿の北側は一転して、板敷きの部屋や廊下が続いています。 このあたりには吟味奉行部屋や、下級武士を対象とした足軽目付徒目付などが並んでいます。

あと、私がしばらく来ていないうちに御殿の販売コーナーが拡充していました。 お城グッズだけではなく、お茶やお菓子、レトルト商品といった食品の類も。 さらには、要冷凍の食べ物が入ったケースも置かれていましたよ 御殿を見学したら、共通券(410円)で入れる天守にも行きますよ

その建物は、長い石段を登っていった小丘の上にあります。 そういえば、波と狛をここまで連れてくるのは初めてでした。 そうしたら、せっかくなので………

天守をバックにして、写真を撮っておきましょう かなり至近距離なのですけど、なんとかフレームに収めることができました。 しかし二の丸御殿と同様に、建物内はワンコ不可なので、ここから先の案内は後撮りしたものとなります。

掛川城の天守は、山内一豊によって建てられたものを、平成6年(1994年)に全国で初めて本格的に木造で復元しました。 私たちが訪れた昨年で、ちょうど30年になりますね 1階は天井が高くて、そのぶん長くて角度が急な階段を上らなければなりません。

2階はやや狭められるのですけど、内側から花頭窓を覗くことができます。 また、お城のビデオを観たり、実物大のシャチホコの模型に肉薄することも。

3階は隠し部屋となっているのですけど、せっかくなので載せておきます。 天守の高欄の下の屋根裏の空間みたいなところで、窓はありません。

そして、最上階に到達しました その外側には黒漆塗りの回廊と高欄が廻っているのですけど、安全上の理由からでしょうか? そこを歩くことはできません。

それでも、窓(引き戸)から外を眺めることはできるのですよ 見晴らしがいいのはもちろんのこと、かなり切り立ったところからの高さを感じられます。 この日は空気が澄んだ冬の時季ということもあって、そこからは………

富士山を眺めることもできました 日本100名城にもなっている近世の掛川城の散策は、天守の最上階で締められるのですけど、私には時間と体力に余裕があったので………

掛川城から近いといえなくもないところにある、中世の掛川古城跡にも寄っていきました。 こちらは15世紀末頃に、駿河守護の今川義忠朝比奈泰煕に築かせたお城です。 のちに、徳川家康今川氏真による攻防戦がおこなわれました。 現在は、土塁堀切りなどが残っています。 さらにその一角には………

龍華院大猷院霊屋があります。 明暦2年(1656年)に掛川城主だった北条氏重によって建立されました。 ちなみに現在の建物は、文政5年(1822年)に掛川城主・太田資始によって再建されたもので、県の文化財に指定されています。 この掛川古城が、私にとっては昨年の18つ目のお城となりました。 さらにその城跡には「どうする家康」にも出てきたお愛の方西郷局)の記念碑も立てられています。 掛川古城も見応えがあるので、近世の掛川城とセットで巡ることをオススメします。


にほんブログ村 犬ブログ スピッツへ   にほんブログ村 犬ブログへ
 マグリット氏の巨大な顔が浮いている作品を、体を張って再現しようとしている方は、こちらに投票してやってください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

珈音モーニングとデカケルわんこ

2025-02-15 01:10:26 | ワンコイベントの類

こんばんは、白黒茶々です。

最近の波狛日記は昨年のネタと今年にあったことが交錯していますけど、今回は今年の1月にあった新鮮な話となります。 とはいっても、前回の日記のオマケの話より1週間前のことになるのですけど。 ということで、1月19日の日曜日の朝から入らせていただきます。 この日は浜松市でワンコイベントがあったのですけど、朝は雨模様だったので………

豊橋市浜道町にある、カフェ珈音さんに行きました。 私にとっては初めてとなるこちらのお店での目的は……… もちろんモーニングですよ 駐車スペースが限られていたものの、なんとか入ることができました。 珈音さんはカラオケ喫茶なのですけど、モーニングもやっています。

その店内は、常連と思われるお客で賑わっていました。  当初は混んでいて相席となったのですけど、間もなくしてその先客はお腹を満たして帰っていきました。

そうしたら、注文するメニューを選びましょう とはいっても、私にはすでに心に決めてきたものがあるのですけど。 それからしばらくして………

私の席に、お待ちかねのモーニングのセットが運ばれてきましたよ こちらはドリンク代(ホットコーヒーの550円)のみで食べることができるレギュラーモーニングなのですけど、トーストゆで玉子サラダだけではなく、味噌汁小倉あん小おかずも付いてきました しかもサラダの中身と小おかずは、日替わりときたもんだ なかには、手製ハンバーグおでんになることも 何に当たるのか楽しみにして来たら、この日はサラダがポテサラ入りで、小おかずの皿は鶏唐揚げみかんでした。
ところが、それで終わりではありませんでした。 インスタで珈音さんをフォローすると………

初回に限り、食後にお店特製のパフェをサービスしてくれるのですよ それらを美味しくいただきながら、お店のママさんとはインスタから話に花が咲きました。 私は豊橋市のモーニングのお店を食べ歩いていることもあって、その情報を伝えたりもしました。 カフェ珈音さんは行く度にモーニングの内容が変わるので、同じお店でもバラエティーに富んでいて、楽しませてもらえます。 それに、ママさんも気さくで話しやすかったですし。 近いうちにまた訪れたくなりました。 天気予報では、この日は午後から晴れるというので、そうなるのを待ってから………

浜松城公園に向かいました。 到着したのは14時過ぎで、イベントは終盤に入ったところでした。 ちなみにこちらは「どうする家康」の放送に合わせて開設された大河ドラマ館の前の葵広場で、イベントなどがある際に開放されています。

先ほど私が言っていたワンコイベントというのは、デカケルわんこびよりのことだったのですよ そのイベントは葵広場を中心にしておこなわれているので、そちらに向かいます。

こちらでは何回か開催されてきたのですけど、私たちは今回初めて来ました。 待ち合わせや来場の予告はしてないのですけど、どなたか知り合いに逢えるのでしょうか?

………なんて言っていたら、いきなりいました 特大サイズの白ふわなので、遠くからでも目立っていました。 はい、グレートピレニーズのいちごちゃんまめ吉君にございます。 久しぶりに逢うことができて、嬉しいです。

その会場には、ワンコ関連の出店がたくさん並んでいました。 それらをぐるっと巡ってから、会場に設けられていたフォトスポットで写真を撮っておきました。 これは小型犬サイズで、スピッツなら1頭ってトコなのですけど、ムリヤリ2頭押し込みました。

葵広場の外側には、人間用のキッチンカーが並んでいました。 気にはなるのですけど、15時過ぎの微妙な時間なので悩みますね。

それはさておき、ここまで来たら浜松城(の主要部)にも寄っていきますよ! ちなみにこちらは、本丸跡に立っている「若き日の徳川家康公」の像にございます。 そういえば、その像の前で波&狛と撮るのは、今回が初めてでした。 それが済んだら、いざ天守曲輪跡

天守門を潜ったところで、模擬天守が出迎えてくれました。 そういえば私たちが浜松城を訪れるのは昨年の12月30日以来で、3週間ぶりとなりますね。

せっかくなので、その建物をバックにして撮っておきましょう

さらに違う位置からも。 ここからではギリギリ……… というか、模擬天守のシャチホコが切れてしまいました。 これにてデカケルわんこびより巡りと浜松城の見学は終わりなのですけど、私にはまだ心残りがありました。 そう、まだ他のスピッツと逢っていなかったのです。 以前はワンコイベントの類に行けば、知り合いも含めて誰かしらのスピッツと行き逢ったりしたのですけど、ここのところはそれがない状態が続いています。 なので、会場に戻ってイベントが終わるまで待ち構えることにしました。 そんな調子で30分近く粘っていたら、遠くにそれっぽいワンコがいるのを見つけました 大きさといい、フワフワ感といい、スピッツに間違いありません そうしたら、直ちに突撃インタビューをしますよ

その子は正真正銘の日本スピッツで、ももちゃんという名前の女の子でした。 1歳というので、まだまだ若い また彼女は、私たちにとっては今年初スピとなりました。 スゴく得した気分になることができて、粘ったカイがありました。 もう少し暖かくなったら、このようなワンコイベントや触れ逢う機会も増えていくと思います。 それまでは、スキーに行ったりおでんを食べたりして、冬の寒い時季を有意義に過ごす所存にございます。



にほんブログ村 犬ブログ スピッツへ   にほんブログ村 犬ブログへ
 「実はトーストと味噌汁は相性がいいのでは?」と、感じ始めた方は、こちらに投票してやってください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

普門寺さんで紅葉締めなるか!? と、銭湯復活!

2025-02-12 02:03:56 | 探求シリーズ

こんばんは、白黒茶々です。

前回、今年度の紅葉狩りを締めるつもりで新城市内を巡って、そこそこ綺麗に色付いた木々を見ることができました。 しかし、それらの紅葉は実力を出し切っていなくて、「真っ赤に塗られた鳥居強右衛門で締めるのは、強引過ぎるのでは 」という声も聞こえてきそうです。 正直言って私の中でも不完全燃焼だったので、そのまたさらに1週間後に近場で紅葉狩りをすることにしました。

………という流れで、やって来ましたよ 普門寺さんに。 こちらのお寺は静岡県との県境に近い愛知県豊橋市雲谷(うのや)町にあります。 「豊橋のもみじ寺」を謳っていることもあって、毎年紅葉狩りの時季になると、たくさんの来訪者で賑わいます。 私は今まではその混雑を避けるために朝の早い時間帯に訪れていたのですけど、今回はスケジュールの都合もあって、午後からとなりました。 その頃には混んでいて、お寺までは少し離れた臨時駐車場から歩いていくことになりました。 仁王門の前の紅葉は赤く染まっていますね。 これは期待できそうです

その先の参道を進んでいったら………

鐘楼門に行き着きました。 こちらでは大晦日には除夜の鐘……… ではなくて、参拝者の安全確保のために昼に鐘を突く「おおみそかの鐘」がおこなわれます。 檀家や108つの回数の制限はなく、誰でも突くことができるので、ご希望の方は12月31日の午前11時半までに、お寺にお並びくださいませ。

その境内には、イチョウの大木もあります。 異常気象の影響もあって、綺麗な黄色ではなかったのですけど、離れたところから見たらいい感じになりました。

境内の東側まで来ました。 このあたりは私たちにとっては撮影スポットで、訪れる度に撮っています。 また、その近くには………

動物の供養塔があります。 飼い主さんによって大事に葬られたペットたちの名前が刻まれているのですけど、ついウチの子と同じ名前を探してしまいます。

普門寺さんは1300年もの歴史がある、真言宗の寺院です。 船形山の麓に伽藍が構えられていて………

この石段を上がっていくと………

その途中に、お地蔵さんが並んでいます。 それらを眺めつつ、さらに上っていったら………

本堂に行き着きました。 こちらの建物は元禄6年(1693年)に建てられ、本尊の聖観世音菩薩さまをお祀りしています。

その北側には、弘法大師さま空海)をお祀りした大師堂があります。 色付く紅葉の下で、2つのお堂が並ぶ風景はとても美しいです。 あとは来た道を引き返していき………

仁王門の裏側まで来ました。 こちらから眺めた風景は「名残もみじ」と呼ばれていて、色付いた枝葉が建物にかぶさる感じがいいですね 最盛期(?)には真っ赤な紅葉に囲まれるのですけど、色が分かれていてもОKです
12月8日までかかってしまいましたけど、普門寺さんで私がようやく納得&満足できる赤さの紅葉を見ることができました。 なので、今年度の紅葉狩りシリーズも、今回をもってめでたく(?)締めさせていただきます。 その翌年となる今年は酷暑の反動からなのか、大寒波が押し寄せて、例年以上の異常なまでの大雪に見舞われています。 そうしたら、今年の夏の暑さの具合や紅葉の時季はどうなるのでしょうか? 極端にならないことを祈りつつ、待ち構えるようにします。

今回の日記は以上で終わりなのですけど、やや短めでそのまま早仕舞いするのも惜しいので、オマケのネタを付けようか、と。 ほら、あらかじめ予算を決めて手土産を買いに行ったのに、思っていたより安く済んでしまう事ってあるでしょう? そのような場合は、もう一品足してお得感を出したくなるなることが、多々あると思います。 ………ということで、問答無用で今年に入ってから私が体験した話をさせていただきます。

1月最後の日曜日となる26日は、私の実家の菩提寺での一周忌の法要がおこなわれました。 それは午前だけで終わり、午後からは時間が空きました。 を連れて出かけることも考えたのですけど、行き先がなかなか思いつかなかったので、私が以前から気になっていたところに行くことにしました。 それはどこかといいますと………

豊橋市の街中にある、人蔘湯さんでした 見た目からして昔ながらの銭湯で、昭和25年(1955年)に創業しました。 それから長い間、地元の方たちに愛され、交流の場にもなってきたのですけど、ボイラーが修理が難しい故障をおこしました。 さらに他にも不安な箇所があったことから、店主はやむなく閉業を決意。 惜しまれつつも、令和2年(2020年)に銭湯を閉めました。
………が、それで終わりではありませんでした。 その知らせは、ゆとなみ社という企業に入りました。 それは「銭湯を日本から消さない」をモットーにした会社で、銭湯の再生や継業を専門的に行っています。 人蔘湯さんはそんなゆとなみ社の協力を得て………

復活しました クラウドファンディングで資金を集め、昔からの趣きをなるべく残すために改修は必要最低限に抑えたのでした。 今まで番台を挟んで男女別々だった入口を1ヶ所に改め………

入浴の受付はカウンターでおこない、その空間をロビーにしました。 さらにそこではグッズの販売もしています。 また、カウンターにはゆとなみ社の社員と思われる若い女性が座っていました。 そこで入浴料の500円を払ったら、いざ男湯へ

床や壁は換えられていたのですけど、大きな鏡やロッカー、脱衣籠などは昔からのものでした。 さらに、お風呂や洗い場も昔のまんま 風呂桶も、黄色くてケロリンの広告が入っているのは、お約束ですよね。 その一方で、全身で浸かれないほど強力な電気風呂が設けられ、かつてラドン風呂だった小部屋は追加料金が必要なサウナに改められていました。 それから、脱衣所から先は撮影禁止となっているので、内部の様子はゆとなみ社のHPから引用させていただきました。

人蔘湯さんは小ぢんまりとしていながらも、内容は充実していて、スーパー銭湯に負けないぐらいの満足度を保ちながら湯から上がることができました。 それにたくさんのお客で賑わっていたので、リピーターを抱えつつ、新たな名所として人を集めそうです。 私が家に帰ってから人蔘湯さんのことを話したら、箔母さんたつぴも行きたがっていましたし。 近いうちに私も家族を伴って、再び訪れることになりそうです。


にほんブログ村 犬ブログ スピッツへ   にほんブログ村 犬ブログへ
 「うる星やつら」に出てきたあしゅら湯での亜空間アルバイトを所望されている方は、こちらに投票してやってください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

廃校とお寺とお城の紅葉

2025-02-08 01:48:59 | お出かけ

こんばんは、白黒茶々です。

前回からの続きで、私はとともに新城市内で紅葉を追い求めています。 12月初旬の日照時間が短い時季なのですけど、果たして私たちは日没までに満足&納得いく紅葉を見ることができるのでしょうか? 道の駅もっくる新城でちょっと遅めのお昼を済ませてから、私たちは車1台がようやく通れる険しい山道を上っていきました。 その坂道の途中に………

ちょっと開けた広場がありました。 実は、こちらは市川小学校があったところなのですよ 創立した年などは不明なのですけど、3つの教室に職員室、給食室だけの、小ぢんまりとした学校でした。 しかし、昭和48年(1973年)に周辺の小学校との統合によって、閉校してしまいました。 校舎校門は撤去されたのですけど………

その敷地の一角に、二宮金次郎さんの石像が残っています。 こちらの像は昭和31年(1956年)に設置されたもので、その台座には「尊徳像」と刻まれています。

こちらの古いフェンスも、学校があった頃からのものと思われます。 そういえば、このあたりは新城市内でも標高の高いところなので、紅葉は………

一部ですけど、いい感じに染まっていました。 対向車が来ることを恐れながらも、ここまで来たカイがありました。 そうしたら、これにてミッション終了 ………にしてもいいのですけど、このあとに予定していたところの様子も気になるので、そちらに向かいます。

………ということで、市川小学校跡から30分ほどかけて、醫王寺さんにやって来ました お寺の裏山は、天正3年(1575年)6月の長篠・設楽原の戦いの際に、武田勝頼が陣を構えたところで、現在は木造の物見櫓展望台)が設けられています。 ちなみに時刻は15時半。 かなり日が陰ってきていますけど、まだ大丈夫です。

そんな醫王寺さんの境内を、散策しますよ 蓮池の向こうに、いい感じの紅葉が見えて来ました。

山門の前で写真を撮ったら………

「片刃の葦」の伝説がある、弥陀池を眺めました。 池と句碑と紅葉の3点セットが揃った風景は、趣があっていいですね

そして私たちは、本堂の前に行き着きました。 冬の夕暮れに近いからなのか、私たち以外に参拝者はいませんでした。 まだなんとか間に合うので、もう1ヶ所寄ってもいいでしょうか?

長篠・設楽原の戦いといったら、やっぱり長篠城はハズせませんよね ということで、日本100名城にも指定されているこちらのお城にやって来ました。

しかし、本丸跡を含めた主要部は、ワンコと一緒に入ることはできません。 なので、その周辺を歩いて周り………

鳥居強右衛門「呼びかけ」の伝承地に至りました。 彼は一昨年の大河ドラマ「どうする家康」で有名になりましたね。 長篠・設楽原の戦いで、長篠城が武田勝頼の大軍に包囲されている中をかい潜って、強右衛門は徳川家康がいる岡崎城まで走りました。 援軍を向かわせる約束を取り付けたのですけど、そのことを長篠城まで報告に行く途中で、武田の軍に掴まってしまいます。 勝頼は「城兵に『援軍は来ない』と言えば、命を助けて褒美もやろう」と持ちかけたのですけど、強右衛門は「援軍は向かっているから、もう少し持ちこたえよ 」と叫んだのです。 怒った勝頼は、強右衛門を別の場所で磔(はりつけ)にして処刑。 それでも、長篠城の兵は一致団結して城を守りきり、やがて設楽原での織田・徳川軍の勝利へと繋がっていったのでした。 こちらには、以前は文字が消えかかった木の案内看板があったのですけど、新しいものに替えられていました。
このあと私はお城に入っていきたいので、波と狛は車の中で待機していてくださいませ。

閉館時間が迫っている長篠城址史跡保存館をスルーしていき………

本丸の土塁空堀を眺めました。 それらはかなり堅固なのですけど、かつては土塁がもっと高くて、空堀も今よりは深かったのですよね。

それらに守られた本丸跡は、かなり広い空間となっています。 さらにお城の東側に宇連川、南側には寒狭川が流れ、長篠城はそれらが合流する天剣の地に位置しています。

その寒狭川を挟んだ対岸で、鳥居強右衛門は磔にされたと云われています。 武田勝頼は見せしめのつもりでお城からよく見えるところで処刑させたと思われるのですけど、城主の奥平貞昌信昌)や兵士たちはその時、どんな気持ちだったのでしょうか?

そうそう長篠城の本丸跡の真横には、飯田線の線路が通っています。 ちょうどそこに列車が来たので、大急ぎでスマホカメラを起動させたのですけど、ちょっと遅れてしまいました。 そういえば、紅葉のことをすっかり忘れていました その頃の長篠城の木々は………

こうなっていました 場所によっては、綺麗に色付いていますね。 さらにお城の近くを歩いていったら………

国道151号線から長篠城址に入るところには、磔にされた鳥居強右衛門が描かれた看板があります。 敵兵の落合佐平次は強右衛門の勇気と忠誠心に感服して、彼の最期の姿を描いて旗印にしました。 それは強右衛門の姿を知ることができる唯一の史料となります。 しかし「だもんで豊橋が好きって言っとるじゃん!」吉田ちぎりは、この絵がトラウマとなっています。 以前の看板はこうだったのですけど………

今は全身真っ赤になっておられる さらに夕日の光を浴びて、その赤さがより際立っていました。 これは、私たちがこの日見てきた紅葉よりも赤いといっていいでしょう そんな強右衛門に、不謹慎ながらも私から紅葉大賞を捧げます。



にほんブログ村 犬ブログ スピッツへ   にほんブログ村 犬ブログへ
 「強右衛門は赤いけど、紅葉狩りとは関係ないじゃん!」と突っ込まれた方は、こちらに投票してやってください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今更ながらの紅葉狩りと鹿カレー

2025-02-05 00:47:25 | お出かけ

鬼は〜そと、福は〜うち!白黒茶々です。

節分の時季に則って、豆まきのかけ声で挨拶させていただいたのですけど、今回は節分の話ではありません。 とはいっても、今回の日記を更新する頃には節分も終わっているので、そのフレーズを使うのも考えものなのですけど。 それどころか、今回は季節を思いっきり無視して、昨年に載せきれなかった紅葉狩りの話をさせていただきます。 ということで、話は昨年の12月1日にまでさかのぼります。

その日の午前は、私はとともに豊橋競輪場で開催された犬ハピに行きました。 さらにそのあとは新城市になだれ込んでいき、冨賀寺さんに行き着きました。 その時は紅葉がかなり遅れていて、11月はほとんど色付いていませんでした。 それならば12月まで待って、さらに山間部の新城市まで行けば、きっと綺麗なものを見られるハズ そんな思いを抱いて、紅葉の名所としてはあまりメジャーではないのですけど、その見どころとなりそうな、こちらのお寺に来てみました。

冨賀寺さんは1300年もの歴史のある、高野山真言宗の寺院です。 ちなみに御本尊は十一面観音 朱塗りの薬医門を潜っていった先には………

江戸時代に造られた池泉式の庭園があります。 傾斜した山と水の流れが、優美な自然景観を演出していますね。 こちらの庭園は、新城市の文化財に指定されています。

こちらの弁財天庭園も、江戸時代に造られました。 その風景を眺めながら、境内を進んでいったら………

本堂に行き着きました。 こちらの建物は、江戸時代後期の寛政5年(1793年)に建てられました。 モデル犬もポーズや立ち、いや、座り位置はいいのですけど、波ちゃが目をつぶっちゃった

そういえば、今回こちらに来たのは紅葉が目当てでした。 来た道を引き返していき、境内の木々を見て回ったら………

う〜む……… まだ色付いていませんね。 弁財天庭園のあたりはちょっといい感じでしたけど、まだ実力を(?)出し切っていません。 あ、それでも冨賀寺さんは庭もお堂も立派で見応えがあるので、紅葉の時季とは関係なく、また訪れたいです。

その冨賀寺さんの手前には、廃校となった宇理尋常高等小学校がありました。 企業の所有となってからは、改造されながらも木造の校舎が残っていました。 4年ぶりにそこを訪れたら………

そんな……… 企業は撤退したみたいで、昔の校舎もきれいさっぱり無くなっていました。

廃校の朽ちた建物は、このようになる運命にあるのですけど、もう1回ぐらい見ておきたかったです。

あ、それでも校舎の土台や校門の門柱は残っていたので、まだマシかと。 あと、できることなら、その外のほうに立てられた学校跡の石碑が植え込みに飲み込まれているので、枝を払うなどしてもらいたいです。 そんなお寺と廃校をあとにした私たちは………

次に道の駅もっくる新城に向かいました。 こちらでの目的は……… もちろんランチですよ 予定がズレ込んで、もうじき14時になるのですけど、これから腹ごしらえをします。 実は私にはすでに決めてきたメニューがあって、それは何かといいますと………

しかのこ……… ではなく、鹿肉を使ったジビエ料理といえなくもない料理の………

鹿カレー(800円)にございます 温玉も乗っているので、食べている途中で割ってカレーに混ぜることもできますね。 こちらの道の駅では、猪の骨から出汁を取り、さらに猪肉を乗せたししラーメン(900円)なるものも、売られているのですよ! 以前は熊ラーメンもあったのですけど、私が食べる決意をする前にメニュー表から消えてしまいました。 それよりも鹿カレーのほうは、鹿の肉は臭みがなくて柔らかく、カレーのルーにも馴染んでいました。 ただ「大」を謳うほどの量ではなく、ライスに対してカレーの量が負けているのが、悔しかったです。

それはさておき、もっくる新城は「負けヒロインが多すぎる!(負けイン)」のモデル地と聖地にもなりました。 八奈見杏菜(CV: 遠野ひかる )がこちらで売られている五平餅を見ながら、温水和彦(CV: 梅田修一朗)に糖質について語ったり、月之木古都(CV: 種﨑敦美)と小鞠知花(CV:  寺澤百花)がレトルト鹿カレーと梅ジャムを手にしつつ、それらの攻めと受けの立ち位置について議論したり、………と。 そういうこともあって、「負けイン」の何かがあることを期待して来てみたら、八奈見ちゃん焼塩さん小鞠ちゃんの3人ののぼりが立っていました。

あと、こちらには無料で利用できるドッグランもあります。 小規模で、10kg以内の小型犬のみを対象としているので、波と狛ならギリギリセーフ ………ということにしておきましょう その中で、居合わせたワンコたちと交流することができたのですけど、狛ちゃは他の飼い主さんに甘えまくっていました。
道の駅でお昼ご飯を食べて、軽く食後の運動も済ませたので、私たちは紅葉狩りの続きをすることにしました。 時刻は14時半、日没までに私が納得・満足できる紅葉に行き当たることができるのでしょうか? そんな季節外れの紅葉狩りに、皆さまもお付き合いくださいませ


にほんブログ村 犬ブログ スピッツへ   にほんブログ村 犬ブログへ
 シカ神様がエキスを出しまくったツノ汁が実在したら、飲んでみたいという方は、こちらに投票してやってください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

名前をつけてやる

2025-02-01 01:29:13 | ニャンコ

こんばんは、白黒茶々です。

「スピッツの名前をつけてやる」と突然言ったら「白い子にいい名前をつけてあげて」とお願いされそうです。 いや「何?その上から目線は 」と、あらぬ反感を買うかも。 ここでいうスピッツは4人組のロックバンドのことで、「名前をつけてやる」は………

彼らが平成3年(1991年)の11月に出した2枚めのアルバムのタイトルであります。 さらにその収録曲の3つ目には、「名前をつけてやる」という曲があるのですよ 気になるその内容は……… スピッツのボーカルで、その曲を作詞作曲した草野マサムネさんによると「その辺の猫や草木に名前をつけてやると強がっている曲」とのことです。 それよりも、なぜここで私がそのタイトルを持ち出したのかというと、実は6年ぶりに名前を考えることになったからでした。 話せば長くなるのですけど、辛抱強い皆さまはきっと最後まで聞いてくださるので、包み隠さず(?)語らせていただきます。
※善良な読者の皆さまに、トイレの「いつもきれいにご利用いただき、ありがとうございます」の貼り紙的な圧をかけるのはおやめなさい。(編集部横ヤリ)

箔母さんが「これからはもう新たにペットは飼わない」と宣言してから、例外的にを迎え入れたりはしたのですけど、5年前の秋にサビトラ猫の銀ちゃを、さらに昨年の夏には黒ふわ猫の晃ちゃを亡くしました。 特に晃ちゃは突然旅立ってしまったので、それ以来私はずっと寂しさと喪失感を抱いていました。 それは家族みんな一緒だったのですけど、誰も口にしないようにしていました。しかし、箔母さんは耐えられなかったみたいで、あの宣言を撤回して「また猫を飼いたい」と言い出したのです。 亡くなった子は戻ってこないので、その子との思い出を大切にしながら過ごすようにしたいのですけど、正直言ってそれだけでは心に空いた穴は埋めきれません。 新しい家族を迎え入れるのが、悲しさや寂しさを癒やす近道になり、私もそうしたいと思っていたので、二つ返事で了解しました。 もちろんたつぴも。 そうと決まったら、次はどこから猫を調達、いや、探してくるのかという話になります。

年が改まって間もない1月2日は、箔母さんのきょうだいと集まって彼女の両親のお墓をお参りするのが、恒例行事となっています。 その際に箔母さんは、彼女のお兄さんに仔猫をお願いしていました。 彼の自宅があるあたりでは外猫が発生(繁殖)しているみたいで、それらの中から人馴れした仔猫を連れてくることができると仰っていました。 その日以降はメールや送られた画像などを見ながら吟味や交渉をしていくことになったのですけど、「この白っぽい子は確定 もう1匹は………」箔母さんは最初から2匹飼うつもりのようでした。 ま、まあ、主にお世話をするのは彼女ですし、ウチの猫は以前にも4匹にまで増えたことがあるので、大丈夫です。
そして1月11日の「犬の日」に、いよいよ仔猫を迎え入れることになりました。 その日は土曜日で、私だけは仕事に行っていたので、どの子を選んだのかは箔母さんからのメールでの報告を待つしかありませんでした。 それにしても気になる〜 そうしているうちに………

仔猫キターーー!! \(≧∇≦)/
その日の午後に、箔母さんから画像付きのメールが送られてきました。

これは、先住猫の京(きょう)ちゃ(13歳)との初めてのご対面のシーンですね。

彼女は姉御肌で面倒見がいいこともあって、仔猫たちを難なく受け入れてくれたみたいです。

ちなみにもう1匹の先住猫の緑(りょく)ちゃ(9歳)は、隔離された場所にいます。 彼はビビりなうえに神経質なので、仔猫たちとはすぐには逢わせられませんでした。

改めて見てみると、1匹は頭に頭髪のようなグレーの模様が乗った白い子みたいですね。 目はブルーなのですけど、これは成長とともに変わるかも知れません。

もう1匹は、全身がグレーですね。 ロシアンブルーのようにも見えるのですけど、目は黄土色です。 ともに生後3ヶ月ぐらいの女の子にございます。

そうしたら、私の返信のほうでも触れたのですけど、次には彼女たちの名前を考えなければなりませんね。 これは、直接顔を見てインスピレーションで決めるか、会心の名前が突然降りてくることもあるので、その過程を味わいながら入っていくことにしましょう。 いや、もしかしたら箔母さんたちはすでに決めていて、私が帰った時には名前で呼んでいるのかも知れません。

実際には、まだ決まっていませんでした。 なので、各自で持ち寄った候補の中から選ぶことになりました。 白黒茶々家ではペットの名前は漢字一文字、読みは二文字程度というのが暗黙のルールとなっています。 やはり呼びやすさからで、読みを三文字以上にすると略してしまうことが多々あるので。 例えば「おしるこ」という名前をつけた場合は、「おし」とか「おしちゃん」になってしまうのですよね。 ………といいつつも、私はのことは「波ちゃ」「お波さん」と呼んでいるのですけど。 二文字では物足りないというより、やっぱりオマケのトサカや尻尾を付けたくなるので。 彼女だけではなく、もついつい同じようにしてしまいます。

それよりも、仔猫たちの名前ですよ 箔母さんは「練(ねり)」と「墨(すみ)」、たつぴは「紗(すず)」と「玄(しず)」という名前を用意してきました。 一方の私は「桂(けい)」と「琴(こと)」あたりを考えてきたのですけど、我ながらどうもシックリしません。 名前は仔猫たちにとっては大事なことなので、じっくりと考えることにしましょう。

グレーの子は目の色や肉球が小豆のようなので、それにちなんだ名前にしたいですね。 そうしたら小豆ちゃん、いや、豆ちゃん、餡ちゃん、……… しかし、どれも違うような気がします。

そのような中で、私は茶臼山高原スキー場に行っていました。 この日は吹雪いてはいなかったのですけど、視界が悪かったです。 それならば、白っぽい子は「白」とか「雪」にしてみては? う〜む……… 今季2回目の滑走をしながらも、私は命名のことで悶々としていました。 今、滑っているのは茶臼山高原。 ………とはいっても、正確には茶臼山はスキー場の向かいに見える山のことで、ゲレンデがあるのは萩太郎山というのですよね。 グレーの子の名前は、「萩」なんていうのはどうでしょうか? 秋のお彼岸の時季に食べるあんこ餅もおはぎと言いますし、今では春のお彼岸のほうもおはぎになりつつあるのですよね。

それに、私とたつぴが毎年浜松まつりで出させてもらっているのは萩丘組で、「萩」と染め抜かれた法被を着た人たちの手によって、「萩」の凧印の大凧が揚げられますし。 なんか、みんなで萩ちゃん(仮名)のことを大々的に祝ってくれているようにも見えてしまいます。 しかし、我ながらおはぎの萩ちゃんなんて……… ちょっとなんちゃって感があるのですけど、一応その候補を持ち帰ってみます。

さらにその茶臼山高原には、芹沼池というのもあります。 そこから「芹」という名前もアリかも、と。 あとで調べてみたら、芹は仔猫たちを迎え入れた1月11日の誕生花で、さらに「清廉で高潔」という花言葉もあります。 それに、芹ちゃんという響きも、いい感じじゃないですか

その夜には、何回か目の家族会議がおこなわれました。 とはいっても、猫のお世話係で、最も多く猫たちの名前を呼ぶ機会のある箔母さんの意見を優先して、話を進めていきました。 そうしたら「グレーの子の名前は、私は萩ちゃんがいいな」。  なんと、すんなりと受け入れられたのです さらに「白っぽい子は、紗ちゃんか芹ちゃんのどちらかだな」とも。 ここまできたら、名前の決定は秒読みと思っていました。
ところが、箔母さんはどちらにするのかなかなか決められず、1週間が過ぎてしまいました。 こうなったら引き分けで、両者優勝にしてしまおう ………なんて、ひと昔前の全国高校サッカー選手権大会みたいなワケにはいきませんし。 どうする白黒茶々さん

そこで再び、家族会議を開くことになりました。 それに先立って、私が「紗」の名前に込められた意味を調べてみたら……… 人の名前にもよく使われるこの漢字は、地の薄い絹織物のことを示しています。 それは、仔猫の白くてふわふわな毛からきていると思われます。 そこから、強さとしなやかさと繊細さを併せ持っているということに そのことをみんなの前で話したら、意見はまとまりました。 もう1匹の子の名前は、紗(すず)ちゃんにします それはたつぴが提案した名前で、彼は初めて名付け親になることができて、喜んでいました。 それだけに留まらず、得意なお絵描きで………

2匹のイメージ画というか、擬人化した姿を書き上げました。 彼女たちが人化するのは、現実的にはまったくあり得ないとは言い切れないので、もし皆さまがこのような姿の子を見かけたら、名前で呼んであげてくださいませ。 白黒茶々家に新たに仲間入りした紗ちゃと萩ちゃ。 彼女たちがこれからどのように成長していくのか楽しみですけど、時間をかけてでも波や狛とも慣らしていきたいです。



にほんブログ村 犬ブログ スピッツへ   にほんブログ村 犬ブログへ
 おはぎと聞いて、サザエさんのご先祖の磯野藻屑源素太皆のことを連想された方は、こちらに投票してやってください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

移築門に導かれて(金華山・岐阜方面散策その3)

2025-01-29 03:28:28 | お城

こんばんは、白黒茶々です。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、織田秀信清洲会議織田信長の後継者に決められた三法師)が追放され、それに伴って彼が居城としていた岐阜城は廃城となりました。 その石垣や建造物などを転用して築かれたのが………

加納城であります こちらは高くて険しい金華山を利用した山城の岐阜城とは対照的で、平地に築かれたフラットな平城です。 また私たちにとっては、前回岐阜を訪問した時以来で、4年ぶりとなります。

かつては川や水堀に囲まれていたのですけど、それらは埋め立てられ、現在はそのあたりもフラットとなっています。

それでも、本丸を囲む石垣はほぼ完全な状態で残っていて、国の史跡に指定されています。 そうしたら、今からその本丸内に入っていきます

その入口には、このような高札仕立ての案内が。 終戦まで、本丸跡には陸軍第51航空師団司令部という軍の施設が置かれました。 さらに昭和50年(1975年)までは自衛隊の駐屯地となっていました。 今でも夜間に重厚な扉を閉めて封鎖するのは、その名残りでしょうか? それよりも、加納城主を名乗っているのは誰ですか?

その内側は、かなり開放的な広場となっています。 そこで子供たちが遊んでいる風景には、休日感がありました。

その頃には、は疲れが取れたみたいで、表情にも余裕が出てきました。 私はもう少し加納城を探求してくるので、車の中で待っていてくださいませ。

加納城の石垣には、主にチャート(珪岩)が使われています。 本丸の北側の立派な石垣を眺めてから、私が向かったところは………

かつて二の丸があったところでした。 現在は岐阜地方気象台の敷地となっているところには、天守に相当する御三階櫓の土台の一部が残っています。 こちらには岐阜城天守を移築改造した建物があったのですけど、享保13年(1728年)の大火で焼失してしまいました。 加納城からの現地レポート(?)は以上で終わりです。 そういえば、日記のタイトルにもなっている「移築門」がまだ出ていませんでしたね。 それは、私たちがこれから向かう最終目的地にあるので、そちらにたどり着くまでお待ちくださいませ。 ということで、加納城がある旧加納宿から東に4里半(約18km)行った旧鵜沼宿に移るところなのですけど………

その前に、その1年前に行った大垣城を挟ませていただきます。 そのお城の大半の建物は、明治時代初期に取り壊されました。 なんとか残された天守や艮櫓も、昭和20年(1945年)7月の空襲で焼失し、城跡には昔からの建物は現存していません。
………なのですけど、波と狛の視線の先あたりにあった本丸の鉄(くろがね)門が、そこから遠く離れた各務原市の旧鵜沼宿に………

移築されて残っているのですよ この建物は大垣城が廃城となった際に、各務原市蘇原の安積家が譲り受け、その地に移築。 さらに近年になって、旧鵜沼宿の現在地に移されました。 その名前の通り、柱や門扉には鉄板が打ち付けられているのですけど、屋根は重厚な本瓦ではなく、簡略的な桟瓦葺となっています。 私はこの移築門のことが気になり、さらにそのまわりのことを調べていったら………

そのあたりは宿場町として一部が復元・整備され、さらに無料で公開されている施設もあるというではありませんか 向こうに見える旧武藤家住宅町家館となっていて、内部も見学できるので、さっそく見させていただきます

そこは昔ながらの佇まいでした。 江戸時代には「絹屋」の屋号で旅籠を営んでいたのですけど、昔の建物は明治24年(1891年)の濃尾大震災で倒壊。 その後再建された建物を近年になって修復し、公開しています。

そんな旧武藤家住宅も含めて、旧鵜沼宿にはチェックしておきたいところがいくつかあります。 そうしたら、西に向かいながらそれらを順に見ていきましょう。

菊川本蔵の酒蔵は、現在でも使われているみたいです。 かつてその場所では、旅籠が営まれていました。 そこに良質な井戸水が出たこともあって、明治時代に酒蔵を営むようになって、現在に至ります。 その斜め向かいには………

脇本陣があるのですよ まだ真新しさが感じられるこの建物は、かつての図面や、他で現存している脇本陣の意匠などを参考にして、平成22年(2010年)に復元されました。 しかも無料で見学できるというので、遠慮なく入らせていただきます

脇本陣は普段は一般の旅人を受け入れる旅籠として営業していました。 また、大名や公家が本陣に入りきれなかった際には彼らも受け入れる、いわゆる臨時の本陣としての役割りも持っていました。 そういうこともあって、土間からの入口は広めで立派です。 しかし、最も見応えのある上段の間がなぜか撮影禁止となっていたので………

湯殿を撮っておきました。 やはり実際に使うのはムリなのですけど、お湯をなみなみに入れて、ザッパ〜ン ぷはぁっ ………と、やってみたいです。

旅籠の丸一屋坂井家住宅、茗荷屋梅田家住宅、梅田家住宅、若竹屋安田家住宅が連なっている風景も、壮観です それらは普段は人が住んでいて公開されていないのですけど、昔の宿場町の面影がありありです。

あと、話の流れの都合で順番が逆になってしまいましたけど、大安寺川と国道21号線を渡った東側には、宿場町の起点に設けらた高札場が復元されています。 私たちがこちらを訪れたのは夕暮れ時で、日没と各施設の閉館時間が迫る中だったので、駆け足で廻らざるを得ませんでした。 旧鵜沼宿は私が期待していた以上に魅力的で見どころ満載だったので、次に来る際にはゆっくり見学できるようにしたいです。

その鵜沼宿は、木曽川を隔てた犬山の対岸に位置しています。 そういうこともあって、江戸時代の「木曾街道 鵜沼ノ驛 犬山遠望」には犬山城がデフォルメされた姿で描かれています。 そのあたりは帰りに通っていくので………

ホンモノの犬山城を眺めていきました まわりはかなり暗くなっていたのですけど、ライトアップされた国宝天守の美しい姿を見ることができました。 そのあとは小牧ICから高速道路に乗っていき………

ドッグランがある豊田上郷SA(上り)に寄ったりしながら、21時頃に無事に帰宅。 秋の金華山・岐阜方面散策シリーズは、これにてお仕舞いとなります。  レポートは年をまたいでしまいましたけど、また歴史散策をしつつ波&狛との楽しい旅の思い出を刻むことができました。 皆さまもそんな旅日記を最後まで読んでくださり、ありがとうございました。


にほんブログ村 犬ブログ スピッツへ   にほんブログ村 犬ブログへ
 「デフォルメ犬山城の天守はロッククライミングでもしなければ登れないのでは?」と突っ込まれた方は、こちらに投票してやってください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金華山の麓の大仏様(金華山・岐阜方面散策その2)

2025-01-25 01:37:49 | お寺

こんばんは、白黒茶々です。

前回の日記の終盤あたりから、私・の白黒茶々家の1人と2頭は岐阜市の金華山の山頂に留まっています。 私たちがそこに行き着いた頃はまだ静かだったのですけど、ロープウェイや登山などによって、観光客が続々と増えていき………

前回の日記の最後の画像からはうって変わって、賑やかになりました。 私たちは(波狛日記の中では)2話にまたがって山頂に居座っていたことですし、そろそろ下山することにしましょう。 行きはロープウェイで一気に来たのですけど、帰りは波の様子を見ながら、山道をゆっくりと降りていくことにしました。 金華山にはいくつかの登山道があって、傾斜や足元の状態によって難易度が変わってきます。 今まで私たちは最も優しい七曲り登山道をよく利用していたのですけど、今回はもう少し厳しくても早く降りられそうなめい想の小径を選びました。
※一度そのルートに足を踏み入れたら、後戻りできませんよ。 途中でリタイアもできないのですけど、本当にそちらでいいのですか?(編集部最後通告)

いけそうな気がするので、きっと大丈夫です ところが、降り始めてから間もなくして、岩肌が露出する険しい道へと変わっていきました。 さらに道幅は狭く、登ってくる人たちに道を譲ったりしながら降りていったら、余計に時間がかかりました。

若いほうの類で元気が有り余っている狛はともかくとして、シニアに入った波も頑張って付いてきてくれました。 しかし、麓が近付いた頃にヘバッてしまいました。 こうなったらやむを得ません。 私は彼女を抱っこして、残りの道を歩いていきました。 ところが、「………もうムリ 」間もなくして私のほうも限界となり、再び波に自力で歩いてもらうことに。 お互いにギブアップを繰り返しながら、目安より1,5倍の時間を要してようやく麓の岐阜公園に行き着くことができました。

その公園内には、朱塗りの三重塔があります。 これはお寺のものではなくて、大正天皇の即位を祝う御大典記念事業として企画され、市民から寄付を募り、大正6年(1917年)に岐阜市が建立したものです。

また、近年になって発掘・整備された織田信長の館跡もあります。 それらを含めた岐阜城の一帯は、平成23年(2011年)に国の史跡に指定されました。

今回の訪問は紅葉狩りも兼ねていたのですけど、金華山の山頂などの一部を除いて色づきはイマイチでした。 この年は紅葉が大幅に遅れていて、12月に入ってから見頃となりました。

それと「ボーイズ・ビー・アンビシャス」のセリフで有名な、板垣退助の像もあります。
※容姿は似ている……… いや、似ていないのですけど、そのセリフはクラーク博士によるものです。(編集部突っ込み)
明治15年(1882年)4月6日に、彼は現在岐阜公園となっている場所での演説を終えた直後に、刺客に襲われました。 なんとか一命を取り留めたのですけど、その時に「板垣死すとも自由は死せず」と言ったと云われています。

さらにこの時季には公園内で菊人形・菊花展がおこなわれています。 しかも無料で、綺麗に咲いた菊の花や、凝った菊人形などを見ることができます。

岐阜公園の西側の入口には、このような立派な門や青年期の織田信長の像があります。 その背後には、頂上に岐阜城の模擬天守を冠した金華山が見えますね。 朝に来た時に撮ろうとしたら思いっきり逆光だったので、撮影は帰り際まで持ち越しとなりました。 それらを仰ぎ見たら、次の目的地に向かいましょう

………とはいっても、岐阜公園のすぐ近くなのですけど。 公園の道路を隔てた反対側には、このような背の高いお堂を有する金鳳山正法寺さんがあります。 裏側からでは掴みにくいので、お寺の正面に回ります。

正法寺さんは、天和3年(1638年)に開山した黄檗(おうばく)宗の寺院です。 後方に見える印象的な建物は大仏殿で、寛政12年(1800年)に完成しました。 「今、大仏殿って言いました?」と喰い付いてきた大仏好きな方のためにも……… いや、「岐阜大仏」といえばその姿が思い浮かばれることと察しますけど、今からその大仏様とご対面致します。 波と狛には車の中で待っていてもらって、その間に私が大仏殿で仰ぎ見たのは………

高さ13,7mもある、巨大な大仏様でした 見事な福耳で、見る人の心が安らぐお顔をしていますね。 しかし、この大仏様は構造上露座できないこともあって、大仏殿のほうが先に造られました。

………というのは、実はハリボテ……… というか、岐阜大仏は乾漆仏なのですよ 大きな木の支柱に竹で骨組みを作り、そこに粘土を塗って、一切経が書かれた和紙を貼り付けました。 さらにその上に漆を使って金箔を施し、全体を仕上げたのです。 なので「籠大仏」とも言われています。 その作業は大変だったみたいで、38年もの年月を費して天保3年(1832年)に完成しました。 そして現在は奈良の大仏鎌倉大仏とともに、日本3大大仏の1つに数えられています。 見応えとありがたみはあるのですけど、あまりにも大きくて、見上げていたら首が疲れてきてしまいました。

正法寺さんをあとにした私たちは、岐阜市内にあるもう1つの国指定史跡のお城に向かいました。 なので、次回の日記はそのお城と、ついでに寄った宿場町のレポートを録画で(?)お伝えします。



にほんブログ村 犬ブログ スピッツへ   にほんブログ村 犬ブログへ
 板垣退助氏が描かれた100円札を家宝にされている方は、こちらに投票してやってください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

目指すは金華山!(金華山・岐阜方面散策その1)

2025-01-22 03:42:33 | お城

こんばんは、白黒茶々です。

1月も後半に入り、皆さまもようやく軌道に乗られた頃と思います。 それに伴って、波狛日記のほうも今年の新たなネタを続々と綴っていくところなのですけど……… ここで昨年の秋まで戻らせていただきます。 というのは、昨年の終盤あたりはお出かけ運が良かったというか、書きたいネタがたくさん溜まっていたのに、日記のコマが足りなくてそれらの話を保留にせざるを得なかったのです。 だからといって、ボツネタにしてしまうのはあまりにも惜しいですし。 なので、年が改まって落ち着いたこのあたりで、腰を据えてゆっくりと語らせていただきます。

………ということで、話は令和6年(2024年)の11月23日の夜にまでさかのぼります。 そのあたりはまだ寒さは弱めで紅葉が見ごろにもなるので、行楽の時季でもありました。 なので私はを伴って、土曜日の夜立ちで車で遠出をすることにしました。 音羽蒲郡ICから高速道路に乗っていき、豊田上郷SA(下り)での休憩を経て………

日付をまたいだ0時42分に、尾張一宮PA(下り)に到着しました。 この日の行程はここまでで、今からこちらで車中泊をするのですよ そうしたら翌朝は早いので、すぐに寝る支度をします。

皆さま、おはようございます まだ日が出る前の6時台ですけど、天気は大丈夫そうです。 そうしたら、まずはPA内にあるドッグランに入りましょう。

こちらは先客のワンコが出たばかりで、私たちの貸し切り状態となっていました。 思いっきり走ってもらいたいのですけど、波と狛は手紙の解析(ニオイをクンクン)や、それに対してのお返事(マーキング)ばかりしていました。 ま、まあ、それで気が晴れるのなら、いいでしょう。

そのあとは、彼女らにご飯を食べさせてから私も身支度をして、尾張一宮PAをあとにしました。 そのようにして、その日最初に向かったところは………

岐阜市にある、かなんカフェさんでした。 こちらでの目的は……… もちろんモーニングですよ 私たちは7時半頃にお店に到着したのですけど、すでにたくさんのお客で賑わっていました。 そうしたら、いざ店内へ

ドリンク代のみでいただけるレギュラーモーニングは、トーストサンドウィッチおにぎりの3種類。 岐阜モーニングらしく、いずれのものにも茶碗蒸しが付いていますね。 それらの中で、私が選んだのは………

Cのおにぎりモーニングでした 岐阜モーニングは、茶碗蒸しが付いてくる代わりにゆで玉子が省かれることが多々あるのですけど、かなんカフェさんでは両方とも出してくれるので、嬉しいです。 それから、Cセットはサラダ味噌汁に変わっているのですけど、私はそのサラダを追加で頼み、最強のラインナップにしました こんなに充実していて合計550円なんて、良心的過ぎです それらを美味しくいただいて、朝の活力を注入したら………

有料駐車場に車を止めて、岐阜公園に繰り出していきました。 その公園の近くの駐車場はいつも駐車待ちの列ができるぐらい混んでいるのですけど、私たちが入っていった8時台にはまだ空いていました。 私たちが見上げた標高329mの金華山の頂上には、岐阜城模擬天守が聳えています。 そうしたら、今からそちらに向かいますよ

………と言いつつも、私たちはロープウェイ乗り場に並びました。 できることなら、自然に触れながら金華山の山道を登っていきたかったのですけど、波は10歳を過ぎたら足腰が弱くなりました。 は13歳を過ぎてからも、金華山より高くて険しい鳳来寺山を難なく登れたのですけど、彼を基準に考えてはいけませんよね。 波にムリをさせないためにも、運行を始めたばかりでまだ空いているロープウェイに乗ることにしました。

こちらのロープウェイは、ワンコを連れたまま屋内の券売所まで入っていってもいいみたいです。 ちなみにヒトの片道の運賃は800円、ワンコは400円なので、合計1600円ということに。 さらにこのメンバーでの往復料金は、2600円となります。

ただしワンコを乗せる際には、ケージが必要になります。 また金華山ロープウェイでは、ケージも含めて14kg以内の動物を乗せることができます。 ケージは貸し出しもやっているので使わせてもらったのですけど「一緒に入れてもケンカしないから大丈夫 」と言って、特大サイズのものにまとめました。 ところが、1つに集約したら思っていたよりズッシリ感があって、そいつを提げてロープウェイ乗り場の階段を上るのは大変でした。 中型サイズを両手で持ったほうが、重さが分散されてやりやすかったのかも。 ちなみに波と狛を合わせると、20kgにもなります。

それでも、ロープウェイが動いてからは快適でした。 金華山の登山道を歩いていくと、息が上がって足や膝がガクガクになるうえに、1時間程要することに。 なのに、こちらなら5分で山頂駅まで行けるなんて、なんかズルいです。

それはさておき、あっという間に天界に行き着きましたよ 自力で登るよりは楽だったのですけど、征服感みたいなものはありました。

とはいっても、まだゴールではありません。 私たちが目指している岐阜城は、もう少し先にあります。 向こうに見える冠木門形式の天下第一の門を潜って………

昔の石垣が残る二の丸門を上がっていくと………

模擬天守が顔を出します。 なんか擬人的な表現になってしまいましたけど、さらに迫っていきますよ

それから間もなくして、私からもオススメのビュースポットに行き着きました 私たちがこちらに来るのは、4年ぶりとなります。

模擬天守の近くの木は、紅葉していました。 今はワンコを連れているので、この建物や………

二重櫓を模した岐阜城資料館の中には入ることはできません。

それでも、眼下に広がる長良川の流れや、球場陸上競技場体育館などが集約された岐阜メモリアルセンター、岐阜の街並みを臨むことができました。

せっかく山頂まで来たので、しばらく征服感と優越感に浸っていてもいいでしょうか? しばらくって……… 次回の日記の冒頭まで。 ということで、今回は金華山の頂上で締めさせていただきます。


にほんブログ村 犬ブログ スピッツへ   にほんブログ村 犬ブログへ
 岐阜市を舞台にしたアニメ「〈小市民〉シリーズ」にハマられた方は、こちらに投票してやってください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする