波と狛のつれづれ日記

日本スピッツ波と狛と、ときどき箔

野田城の戦い

2023-01-28 00:56:17 | お城

こんばんは、白黒茶々です。

昨年の最後の波狛日記で決意表明したのですけど、今年は大河ドラマ「どうする家康」の放送に伴って、私は今まで以上に徳川家康に関連する歴史スポットを巡ります。 もちろん、も巻き込んで その今年最初の訪問先は、長篠・設楽原の戦いや野田城の戦いがあった愛知県の新城(しんしろ)市にしました。 矢奈比賣神社霊犬神社で初詣をして、さらに磐田市内の旧見付学校旧赤松家を巡った翌日の1月9日の休日に、私は波&狛とともに………

まずは新城市石田西末旨にある、喫茶ぽあんかさんに立ち寄りました。 こちらでの目的は……… もちろん、モーニングですよ ということで、私にとっての今年のモーニング初めは、新城モーニングとなりました。 お城や旧跡を巡る前に腹ごしらえをするというか、腹が減っては戦ができぬ(?)というか。 とにかく、お店に入りましょう

外観と同様にモダンな造りのその店内は、常連と思われるお客で賑わっていました。 朝の時間帯のメニューはモーニングのみということなので、メインとなるドリンクを選びました。 それから間もなくして………

モーニングのセットが運ばれてきましたよ 半トーストとゆで玉子、バナナが入ったマカロニサラダなどが、コンパクトにまとめられていました。 これらは、コーヒー代の450円のみでいただくことができました。 お腹も心も満たされた私は再び波&狛を伴って、喫茶ぽあんかさんから車で7分程のところにある………

野田城跡に行きました。 こちらのお城は、16世紀の初めに菅沼定則によって築かれました。

規模は小さいのですけど、舌状に張り出した丘陵が谷や沼に囲まれているという、天然の要害を利用しました。 菅沼氏は当初は今川氏に属していたのですけど、松平清康徳川家康の祖父)が東三河に進攻してきた際に、清康の配下に入ることに。 ところが、清康の死後に再び今川氏に寝返ったのですよ それで終わりではありません。今川義元が桶狭間で討死したのに伴って、菅沼家の3代目となる定盈(さだみつ)は、再々度徳川方に寝返ったのでした。 以降は徳川家康のもとで、東三河の重要な拠点となる野田城に就きました。

そうしたら、その野田城の跡を散策しながら、その後の話をいたします。 お城は樹木に覆われていながらも、主要部の保存状態は良く、土塁空堀を見ることができます。
元亀3年(1572年)12月に三方ヶ原の戦いで快勝した武田信玄は、刑部城(浜松市北区細江町)で年を越して、翌年の1月に西上作戦を進めるために2万5000とも3万とも云われる大軍を率いて三河に進攻していきました。 さらに、菅沼定盈が守る野田城を取り囲んだのです。 この時、城兵は500人程しかいませんでした。 一方の徳川家康は、三方ヶ原の戦いによる敗戦によって戦線を維持できるような状態ではなく、後詰をしにくい状態で、援軍を送ることはできませんでした。 どうする定盈

私たちはお城の本丸跡に行き着きました。

その土塁の上には、城址碑が建てられていて………

さらに本丸内には、井戸の跡もあります。
野田城は立地に恵まれ、堅固なお城だったので、武田信玄の軍はなかなか攻め落とせませんでした。 包囲してから1ヶ月ほど経って、信玄は甲斐の金掘り人足を呼び寄せました。 なんと、彼らを使って野田城に横穴を掘らせ、お城の水源を絶つ作戦を取ったのです 追い詰められた定盈は、降伏し開城する決意をしました。 そして元亀4年(1573年)2月16日に、彼は城兵の命と引き替えに、武田軍の捕虜となりました。
信玄は難問をクリアし、新たなステージに進むところだったのですけど……… 彼の病が悪化したことによって、武田軍は甲斐に引き返すこととなりました。 その途中の4月12日に、信玄は亡くなりました。 享年53歳。

前の日記でも触れたのですけど、私は今季初めてのスキーの帰りに、長野県根羽村にある信玄塚に立ち寄りました。

武田信玄の終焉の地としてはいくつかの説があるのですけど、「ねばね」と呼ばれたこのあたりもその候補に挙げられています。 国道153号線の脇には、信玄を供養する宝篋印塔(ほうきょういんとう)が建てられています。

実は武田信玄の死についても、諸説あるのですよ。 野田城の本丸跡の一角には「伝信玄公、狙撃場所」という案内板があって………

お城の南側の谷だったところは、現在は法性寺さんというお寺となっています。その山門は、野田城から移築されたと云われています。

その境内には、わかりやすい案内がありますね。 もちろん、今からそちらに向かいますよ

谷にあるお寺からは、野田城の対岸に上れるようになっています。 そして、私たちが行き着いた先には………

小さなと………

「信玄公が撃たれた場所」という案内板が立てられています。 野田城を包囲していた武田信玄は、城内からの篠笛の懐かしい音色に聴き入っていました。 そんな彼を、お城の本丸から鉄砲の名手の鳥居半四郎が狙撃したのです 銃弾は信玄に命中。 その時のケガがもととなって、信玄は亡くなったとも云われています。

その時に使われたという火縄銃の銃口が、新城市設楽原歴史資料館に保存・展示されています。

しかし、のちに信玄は野田城の開城の交渉に応じていますし、本当に撃たれたのでしょうか? いや、油断していてやられたとなってはあまりにも不名誉なので、必死に堪えて隠していたのかも知れません。 いずれにしても、菅沼定盈らの1ヶ月にも及ぶ籠城は、信玄から残された時間を奪いました。
武田信玄は、「風林火山」の旗を立てて京の都に入る夢を見ながら亡くなりました。

そんな彼の想いを汲んで、根羽村の信玄塚の近くの国道153号線に沿った護岸には、その姿を描いた壁画が設けられています。 とてもいい話のコシを折るようで申し訳ないのですけど………

「風林火山」は武田信玄の旗印の通称で、正確には「疾(はや)きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如く、………」という長いものでした。

あと、武田方の捕虜となった菅沼定盈は、城兵の身代わりとなって切腹する覚悟をしていたのですけど、その後武田勝頼と徳川家康との人質交換の対象となったことから、生かされました。 さらに天正2年(1574年)に家康が長篠城を攻略したのに伴って、野田城を奪還 天正18年(1590年)に家康の関東移封に定盈が付いていき、野田城は廃城となりました。


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