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世界の中の日本

朝鮮紀行

2019-06-16 17:24:53 | 日記

朝鮮紀行

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『朝鮮紀行』 (ちょうせんきこう) Korea and Her Neighbours
著者 イザベラ・バード
訳者 朴尚得時岡敬子工藤重雄
発行日 イギリスの旗1898年1905年
発行元 日本の旗1925年(抄訳)、1993年1994年1998年2008年2009年
ジャンル 旅行記
イギリスの旗 イギリス
言語 英語
コード ISBN 4-582-80572-8 ISBN 4-582-80573-6 ISBN 4-8099-0724-4 ISBN 4-06-159340-4 ISBN 978-4-8447-0011-1 ISBN 978-4-256-80572-5 ISBN 978-4-256-80573-2
 
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『朝鮮紀行』の中の1ページ

朝鮮紀行』(ちょうせんきこう、Korea and Her Neighbours)はイザベラ・バード1894年(明治27年)から1897年(明治30年)にかけて、4度にわたり最末期の李氏朝鮮朝鮮王朝)を訪れた旅行の記録。当時の朝鮮の風俗、社会、政治情勢などを知ることのできる歴史的資料である。

バードの印象[編集]

釜山の印象[編集]

釜山に上陸したバードは、高台にある外国人居留地の周りの杉林が1592年からの文禄・慶長の役の際に豊臣秀吉日本軍による植林によるものと記し、また釜山の旧市街が同じく文禄・慶長の役の占領の際に、日本人によって手がけられたと記している(「砦はとても古いものの、中の市街は三世紀前の構想に沿って日本人の手によって近代化されている」[1])。

ソウルの町並みと悪臭[編集]

バードは本書の中で、1894年の訪問時のソウルに関して、道は牛がすれ違えないほど細く迷路のようであり、家から出た汚物によって悪臭が酷く、北京を見るまで「ソウルこそこの世で一番不潔な町」だとし、「紹興へ行くまではソウルの悪臭こそこの世で一番ひどいにおいだ」「都会であり首都であるにしては、そのお粗末さは実に形容しがたい」と記している[2]。また、人工の道や橋も少なく、「あっても夏には土埃が厚くて、冬にはぬかるみ、ならしてない場合はでこぼこの地面と、突き出た岩の上をわだちが通っている。道と言っても獣や人間の通行でどうやら識別可能な程度についた通路に過ぎない」と記している[3]

また、ソウルには芸術品はまったくなく、古代の遺跡もわずかで、公園もなければ、まれな例外を除けば見るべきイベントも劇場もなく、旧跡も図書館も文献もなく、宗教におよそ無関心であったため寺院もなく、迷信が影響力をもつため墓地もない、と驚き、孔子廟と碑を除くと公認の寺院がひとつもなく、城内に僧侶が入ると死刑に処せられかねないため、清や日本ならどんなみすぼらしい町にでもある堂々とした宗教建築物の与える迫力がソウルにはないとしている[4]。他方、金剛山の長安寺では「天国にいるような心地の二日間」を過ごすことができたと賞賛している[5][6]

貨幣通貨の流通については、銀行が町にないと記しており、また日本の円がソウルと条約港で通用したことを記している[7]

ソウル環境改善の印象[編集]

バードによると、ワシントンで市政運営について学んだ知性と手腕の市長(漢城府伴尹)李采淵が、1897年から税関長マクレヴィ・ブラウンの提案のもとに、市内環境改善を行なっており、「不潔さでならぶもののなかったソウルは、いまや極東で一番清潔な都市に変わろうとしている!(講談社学術文庫版p545)」「路地には悪臭が漂い、冬にはあらゆる汚物が堆積し、くるぶしまで汚泥に埋まるほど道のぬかるんでいた不潔きまわりない旧ソウルは、みるみる地表から姿を消そうとしている(同頁)」と記載し、改善点を具体的に列挙し、「首都修復は朝鮮式の法則に従ったもので、西洋化されているのではないことを念頭に置かなければならない(同p546)」と記している。その結果、ソウルの街並み環境は著しく改善し、バードは、1894年当時そのままの姿の残るスラムを写真に撮ろうとしたが、「そんな場所はどこにも見つからなかった」と記載する程の改善を見せた(同p546)。

ロシア沿海州と朝鮮との国境附近[編集]

また、ロシア国境部の沿海州ではロシアの影響により近代化が進んでおり、水路が整備され、衛生にも配慮され、家屋は朝鮮半島の他地域のものより立派だと記述した上で、「朝鮮人というのは屑のような民族でその状態は望み無しと考えていた」がその考えを正すべきかもとして、朝鮮半島でも他国の文明の導入が可能であることを示唆している[8]

両班制度について[編集]

また、身分制度に関して、両班は究極に無能であり、その従者たちは金を払わず住民を脅して鶏や卵を奪っているとしている。両班は公認の吸血鬼であり、ソウルには「盗む側」と「盗まれる側」の二つの身分しかないと述べている。朝鮮の官僚については、日本の発展に興味を持つ者も少数はいたものの、多くの者は搾取や不正利得ができなくなるという私利私欲のために改革に反対していたとし、堕落しきった朝鮮の官僚制度の浄化に日本は着手したが、それは困難きわまりなかったと述べている。

 

 


日本・朝鮮紀行文

2019-06-16 17:09:18 | 日記
 
 
 

部分ブロックに関する方針改訂が6月1日に行われました(詳細)。

 

イザベラ・バード

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満州民族の衣装を着たバード

イザベラ・ルーシー・バードIsabella Lucy Bird, 1831年天保2年)10月15日 - 1904年明治37年)10月7日)は、19世紀の大英帝国の旅行家、探検家、紀行作家[2]、写真家[3]、ナチュラリスト[4]ファニー・ジェーン・バトラー英語版と共同で、インドジャンムー・カシミール州シュリーナガルにジョン・ビショップ記念病院を設立した[5]。バードは女性として最初に英国地理学会特別会員に選出された[6]。1881年(明治14年)に妹の侍医であったジョン·ビショップと結婚し、イザベラ・バード・ビショップIsabella Bird Bishop)、ビショップ夫人とも称された[7]

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1831年10月15日、イギリス・ヨークシャー牧師の二人姉妹の長女として生まれる。妹の名はヘンリエッタ(ヘニー)。宗教色の強い中流家庭で育った[8]。幼少時に病弱で、時には北米まで転地療養したことがきっかけとなり、長じて旅に憧れるようになる。アメリカカナダを旅し、1856年日本では安政3年)、"The Englishwoman in America"を書いた。1857年に父親を亡くし、母親と妹とともにエジンバラに転居[8]。その後、ヴィクトリアン・レディ・トラヴェラー(当時としては珍しい女性旅行家)として、世界中を旅した。『サンドイッチ諸島での六ヶ月』『ロッキー山脈におけるある婦人の生活』を著す[8]

日本の明治政府最初の御雇外国人の一人であったコリン・アレクサンダー・マクヴェイン  (Colin Alexander McVean 夫妻から、1877年から1878年にかけて頻繁に彼らの日本滞在経験を聞いて、日本にいたく興味を持った[9]。1878年2月、日本行きを逡巡していたバードの背中をマクヴェインが押して、旅行の助言と便宜を提供した。紹介された人物を頼りに、バードは4月9日にヨーロッパ大陸を経由して日本に向かった[10]

1878年(明治11年)6月から9月にかけて、通訳兼従者として雇った伊藤鶴吉を供とし、東京を起点に日光から新潟県へ抜け、日本海側から北海道に至る北日本を旅した。多くの行程は伊藤と2人での旅だったが、所々で現地ガイドなどを伴うこともあった。また10月から神戸京都伊勢大阪を訪ねている。これらの体験を、1880年(明治13年)、"Unbeaten Tracks in Japan" 2巻にまとめた。第1巻は北日本旅行記、第2巻は関西方面の記録である。この中で、英国公使ハリー・パークス、後に明治学院を設立するヘボン博士(ジェームス・カーティス・ヘボン)、同志社のJ.D.デイヴィスと新島夫妻(新島襄新島八重)らを訪問、面会した記述も含まれている。1881年にピショップ博士と結婚[8]。その後、1885年(明治18年)に関西旅行の記述、その他を省略した普及版が出版される。本書は明治期の外来人の視点を通して日本を知る貴重な文献である。特に、アイヌの生活ぶりや風俗については、まだアイヌ文化の研究が本格化する前の明治時代初期の状況を詳らかに紹介したほぼ唯一の文献である。

1886年に夫が死去。医療伝道を目的に1889年よりインドからペルシャチベットへ旅する。

1893年(明治26年)、世界各地の辺地旅行記の出版などの功績が認められてヴィクトリア女王に謁見。英国地理学会特別会員となる[8]1894年(明治27年)、カナダ経由で清国、日本、朝鮮を旅し、1897年(明治30年)までに、4度にわたり末期の李氏朝鮮を訪れ、1898年に旅行記"Korea and Her Neighbours"(『朝鮮紀行』)を、翌1899年に『中国奥地紀行』を出版[8]した。

 
 
ディーン墓地のイザベラ・バードの墓碑

1901年には半年間モロッコを旅し[8]、中国への再度の旅行を計画していたが、1904年(明治37年)に73歳の誕生日を前にしてエディンバラで死去した。同地のディーン墓地に埋葬されている。

家族[編集]

『日本奥地紀行』[編集]

1878年(明治11年)6月から9月にかけ『日本奥地紀行』は執筆され、1880年(明治13年)に "Unbeaten Tracks in Japan"(直訳すると「日本における人跡未踏の道」)として刊行された。冒頭の「はしがき」では「(私の)全行程を踏破したヨーロッパ人はこれまでに一人もいなかった」と記し、また「西洋人のよく出かけるところは、日光を例外として詳しくは述べなかった」と記し、この紀行が既存の日本旅行記とは性格を異にすることを明言している[12]

栃木県壬生町から鹿沼市日光杉並木に至る例幣使街道では、よく手入れされた大麻畑や街道沿いの景色に日本の美しさを実感したと書いている。また、日光で滞在した金谷邸(カナヤ・カッテージ・イン)にはその内外に日本の牧歌的生活があると絶賛し、ここに丸々2週間滞在して日光東照宮をはじめ、日光の景勝地を家主金谷善一郎および通訳の伊藤とともに探訪する。[13]

日光滞在10日目には奥日光を訪れるが、梅雨時の豊かな水と日光に育まれた植生、コケシダ、木々の深緑と鮮やかに咲く花々が中禅寺湖男体山華厳滝竜頭滝戦場ヶ原湯滝湯元湖を彩る様を闊達に描写し、絶賛している。街道の終点である湯元温泉にも大変なな関心を示し、湯治場を訪れている湯治客の様子を詳らかに記している。またその宿屋(やしま屋)の大変清潔である様を、埃まみれの人間ではなく妖精が似合う宿であると形容し、1泊したうえで金谷邸への帰途に就く。[14]

山形県南陽市赤湯温泉湯治風景に強い関心を示し、置賜地方を「エデンの園」とし、その風景を「東洋のアルカディア」と評した。[15]

 
 
1889年刊行の別の本で描かれたアイヌ民族の男性。[16]

『日本奥地紀行』では当時の日本をこう書いている。

私はそれから奥地や蝦夷を1200マイルに渡って旅をしたが、まったく安全でしかも心配もなかった。世界中で日本ほど婦人が危険にも無作法な目にもあわず、まったく安全に旅行できる国はないと信じている[17][18]

他には新潟を「美しい繁華な町」としつつも、県庁、裁判所、学校、銀行などが「大胆でよく目立つ味気ない」としたり[19]湯沢を「特にいやな感じのする町である」と[20]記したり、また黒石の上中野を美しいと絶賛したりしている[21]

他方、「日本人は、西洋の服装をすると、とても小さく見える。どの服も合わない。日本人のみじめな体格、凹んだ胸部、がにまた足という国民的欠陥をいっそうひどくさせるだけである[22]」、また「日本人の黄色い皮膚、馬のような固い髪、弱弱しい瞼、細長い眼、尻下がりの眉毛、平べったい鼻、凹んだ胸、蒙古系の頬が出た顔形、ちっぽけな体格、男たちのよろよろした歩きつき、女たちのよちよちした歩きぶりなど、一般に日本人の姿を見て感じるのは堕落しているという印象である[注釈 1]。」と日本人の人種的外観について記している。(ただし、これは高梨健吉による誤訳で、「堕落」の部分は「(鎖国による)退化」と訳すのが正しい。)なおアイヌ人については「未開人のなかで最も獰猛」そうであるが、話すと明るい微笑にあふれると書いている[24]。ほかにもホザワ(宝坂?)と栄山の集落について「不潔さの極み」と表し、「彼らは礼儀正しく、やさしくて勤勉で、ひどい罪悪を犯すようなことは全くない。しかし、私が日本人と話をかわしたり、いろいろ多くのものを見た結果として、彼らの基本道徳の水準は非常に低いものであり、生活は誠実でもなければ清純でもない、と判断せざるをえない[25]」と阿賀野川津川で書くなど、当時の日本の寒村における貧民の生活について、肯定的な側面と否定的な側面双方を多面的に記述している。

なお、現代の阿賀野川では「イザベラ・バード号」と命名された観光船が運航されている[26]

『朝鮮紀行』[編集]

最初の朝鮮訪問は1894年(明治27年)。以降3年のうちに、バードは4度にわたり朝鮮各地を旅し、『朝鮮紀行』を記した。『朝鮮紀行』は、国際情勢に翻弄される李氏朝鮮の不穏な政情、伝統的封建的伝統、文化など、バードが直に見聞きした朝鮮の情勢を伝える。

筆者の犀利な観察眼と朝鮮の資料としての評価により、1925年大正14年)に日本国内でも抄訳され、『三十年前の朝鮮』の書名で出版された[27]


 

 

江戸(幕末)から明治の日本はすごかった!写真で見る日本の歴史にまつわる本 5選

2019-06-16 16:55:21 | 日記

古書古本 | nostos books ノストスブックス

江戸の写真           
書いた人

江戸(幕末)から明治の日本はすごかった!写真で見る日本の歴史にまつわる本 5選

                    中野です。 歴史好きな人って多いですよね? 実は僕も大の歴史好き。特に幕末から明治という大転換期の日本にとても興味があります。当店ノストスブックスも幕末の志士・吉田松陰の祀られる世田谷・松陰神社前にある、というのがなんとも繋がりを感じてしまうのです。
今回は海外から見た日本、生活や文化、学問といった視点で日本を知ることのできるビジュアル本5選をご紹介します。 ご紹介しきれない江戸キーワードの本はこちらからどうぞ。

江戸・明治の貴重な資料を写真で見る

Photography in Japan 1853-1912

Photography in Japan 1853-1912

著者
Terry Bennett
出版社
Tuttle
発行年
2006年
写真コレクター/テリー・ベネット編纂による写真集。当時の産業・文化・生活を記録した貴重な資料が数多く収録されている。
世界中の博物館、図書館、および個人のコレクションから収集された400枚以上の写真の半分以上はこの本で初めて公開され、単に日本を紹介したもので終わらず、日本で発生したこの劇的な変化を理解する資料としても役立つ一冊と言えるでしょう。
薩摩島津斉彬公1857年日本で最初に写真に写された大名といえば薩摩の島津斉彬公。非常に好奇心旺盛で自ら写真も撮影していました。洋学にもいち早く興味をしめし、藩主就任とともに富国強兵に努め、開国を強く主張していましたが、京都上洛の前に死去しています。暗殺説もありますね。
将軍慶喜のフォーマルと日常着の違い徳川最後の将軍慶喜のフォーマルと日常着の違い。さすが将軍だけあってキリッとしてます。慶喜が薩長軍との戦いに挑んでいたら、おそらく徳川は負けなかっただろうと言われています。ですが、「朝敵の汚名だけは避けたい」と言って家臣を置いてさっさと逃げちゃう。ここでもまたドラマが。あぁもっと説明したい。
遣米使節団遣米使節団。真ん中の人の眼光が鋭すぎる。左の写真は、なぜかアメリカでアイドル的人気を博すトミーこと、立石斧次郎16歳。通詞です。
馬関戦争(下関戦争)長州が四国艦隊と戦った馬関戦争(下関戦争)。これを機に攘夷から開国へ突き進みます。しかしよく戦ったな。。

江戸のデザインは海外にも影響を与えていた

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江戸のデザイン

著者
草森紳一
出版社
駸々堂出版
発行年
1972年
評論家・草森紳一が江戸のデザインを語るエッセイ集。「自在の視座に立つ」書と著者自身がいうように、史学者や民俗学者、美術・デザインの研究家などの視点とは違った草森紳一らしい切り口で江戸のデザインを論じる。
1973年毎日出版文化賞を受賞した一冊。装丁は横尾忠則。大判で400ページ以上にわたる文章量と図版の数々。一気にはさすがに読めないですが、一つ一つ納得感があります。デザインにはすべて理由がある。
江戸のデザイン江戸のデザイン江戸のデザイン江戸のデザイン最後の「幕藩体制」では、大名配置はデザインだという話。よく考えられていた配置だったんだな〜。絵や形を作るだけがデザインではないよね、というところが非常に腑に落ちました。 読み応えしかない。 

学問からみた日本:開国への道

図説日本の洋学

図説日本の洋学

著者
惣郷正明
出版社
築地書館
発行年
1970年
江戸時代にオランダを通じて日本に入ってきたヨーロッパの学問・文化、洋学(蘭学)。それらが鎖国や明治維新時の攘夷思想などの苦難を超えて日本に根付くに至るまでの歴史を、多くの図版を交えて語る学術書。
鎖国時代に洋学を学ぶということは命を賭けた学問でした。そのような状況でもいち早く行動したのは医学関係者だと言われています。アルファベット26文字が入っていたというだけで、絶版、没収にあい、洋書を友人に貸しただけで蟄居、閉門という事態。西洋に興味を持つ=命を落とすという、今考えれば全く信じがたい話ですが、数多くの志ある人々が「学問をしたい」という志を持ち、行動しただけで命を落としています。
図説日本の洋学解剖学書『ターヘル・アナトミア』を手にした前野良沢、杉田玄白は辞書もない状況の中、暗号解読のような作業を3年続けついに翻訳し、解体新書を世に出しました。エレキテルで有名な平賀源内も同時代に活躍した学者です。
図説日本の洋学図説日本の洋学図説日本の洋学真っ暗闇を目をつむって走るような洋学を学ぶ人々の歴史の書でもありますが、一方で図版というタイトルからわかるように、手彫りの木版、銅板、鉛製活字まで多くの図版が掲載されていて、タイポグラフィの源流を知る資料としても価値がある一冊でもあります。
幕末から開国前夜、死に物狂いで勉強した蘭学(オランダ語)は、ペリー来航以降一気に英語が主流となったようです。命をかけて学んだ知識が一夜にして無駄になるなんて。。そして嘆きながらも「次は英語だ!」とさらに学んだわけです。この時代の人びとの粘り強さと柔軟性は、現在の平和な日本でも多いに学ぶべき姿勢だと思います。あぁもっと説明したい。。

世界中の100年前はこんなに違う

一〇〇年前の世界一周

一〇〇年前の世界一周

著者
草森紳一
出版社
駸々堂出版
発行年
1972年
20世紀のアメリカ・カナダ・日本・中国などで、地域性が色濃く残る当時の各地の社会を旅した記録。100年前の人々の多様な生活がスナップされている
1905年に一人のドイツ人青年ワイデマールが一年かけて世界を記録した写真回想録。日露戦争直後明治38年の日本と高層ビルが建ち並ぶ欧州を比べるだけでも一見の価値ありです。
100年前のニューヨークニューヨーク。すでに高層ビルが建ち並ぶ。
100年前のニューヨークもうすごい都会。。
100年前の日本かたや日本。マジか。
100年前の日本平和か。
100年前の富士山安定の富士山。うつくしや。
100年前の芸者表紙にもなっている芸者。15歳のヨボキチ。どうしてそんな名前に。。
アメリカと日本の比較だけでも信じられない差があるのがわかります。 他にも世界中の国々の写真が掲載されています。一年間で世界をまわったワイデマールの目を持ちながら、世界各国の違いをワクワクしながら発見できる一冊。

江戸から幕末を駆け抜けた風雲児たちの生き様

風雲児たち

風雲児たち

著者
みなもと太郎
出版社
リイド社
江戸から幕末に駆け抜けた風雲児たちを描く超大作歴史漫画。
なぜ薩摩・長州が江戸幕府を倒すことになったのか?関ヶ原まで遡り、時代ごとに活躍した風雲児にフォーカスしながらじわりじわりと進みます。1979年から30年以上続いていますが、いまだ終わりが見えず。。ご存命の間にどうにか終わらせていただきたいと切に願う日本史漫画の名作です。
こうして歴史の本を読んでいると、いつも「自分が幕末にいたらどうしてたかな?武士だったかな?農民だったかな?」と想像するのですが、おそらくきっと大騒ぎしてすぐ死ぬやつでしょう。 もしくは、「なんか江戸時代終わったらしいよ?」と2年後あたりに気がつく、という人な気がしてなりません。無念です。                
中野
ノストスブックス店主。デザイナー。日本史大好き。カレー大好き。パンク大好き。羽良多平吉と横尾忠則と上村一夫と赤瀬川原平と小村雪岱に憧れている。最近は戦国時代にハマり中。そしてマイベスト漫画・風雲児たちがちゃんと終わるのか気になっている。不眠症。NATURE LIVINGのベースだが活動休止中。バンドやりたい。
 

 
 

 

 


李氏朝鮮の記録

2019-06-16 16:45:45 | 日記
更新日 2017年09月22日               トップページ                  
    
        李氏朝鮮時代の写真 庶民の生活      
        李斯朝鮮時代の庶民の生活
撮影年代不明 貴族階級の結婚式の様子でしょう。           左上に貴族用の帽子が写っています。左側には瓦屋根が見えます。           背景の扉の紙が破れています。修繕のゆとりが無い様です。              
 
        撮影年代不明 貴族階級の結婚式              
 
        撮影年代不明 花嫁を花婿の家に送り届ける行列              
 
        撮影年代不明 写真はがき 田舎の飯家           左下に土で作ったかまどがある。屋根の代わりに上を草で覆っている。           中央左の女性が調理師で、中央右の帽子を被った男性がお客なのであろう。お客の前には白い食器が並んでいる。              
 
        撮影年代不明 飯家              
 
        撮影年代不明 田舎の飯家           他のHPで、Korean Restaurantと紹介している写真であるが、飯家には見えない。検証が必要である              
 
1900年撮影 撮影者不明 漢城(ソウル)の食堂              
 
        撮影年代不明 撮影者不明 食堂              
 
1888年 漢城(ソウル) 南大門大通り 南大門大通りに面して建っているのが商店である。           大通りの中央手前に牛が背中に荷物を載せて運んでいる。荷車・人力車・牛車・馬車は見受けられない。           路面電車は1898年、漢城電気会社設立は1898年である。写真撮影時には、電信柱・線路は存在しない。           民家の屋根が連なっているが、門や庭は見受けられない。家庭菜園・花や庭木等の園芸は存在していない。              
 
        撮影年代不明 A MARKET 朝鮮風俗 市場           店舗を構え営業している商業形態を【廛】(テン)といい、常設の店舗等の特別の施設を有さず,行商人や近辺の農民たちが定期的に集まって商品交換を行う場所【場市】(じょうし)と言った。           李氏朝鮮後期の純祖の時の全国の場市総数は1061ヶ所で、これらは30里ないし40里(朝鮮の1里は392m)の往復1日行程を基準に毎日変えて行って市場が開かれるようになっており、商人が各場市を歩き回って品物を売るのに便利なように作られていた。場市での取引は、主に生産者と消費者との直接的な接触で成り立ったが、負褓商などの行商人も重要な役目を引き受けていた。これらは、その地方の産物以外の商品を樽が無いので重い甕などに商品を入れ、車が無いため背負子で背負って、苦労して各場市を歩き回りながら売り、同業者たちは中世ヨーロッパのギルド的な性格の同業組合を成していた。              
 
1903年 仁川の場市              
 
        撮影年代不明 井戸水を汲み上げ売り歩く男達           両班の家は自前で井戸を持っていたが、           両班以外の者はギルド(職業別組合)の井戸水をお金で買わなければならなかった。      
 
        撮影年代不明 餅を搗く人たち 背景の建物が立派なので貴族階級の住宅であろう。餅を搗いている人達自身で食べるのではなく、貴族達のイベント・お祝い様に用意しているのであろう。              
 
        1904年 漢城 「 韓国の女性、メイド、ソウルの街中で、...韓国 」              
 
1903年 通りでゲーム(ギャンブル)をする男達              
 
1899~1900年に漢城(ソウル)郊外での撮影。 チャンソンと呼ばれるトーテムポールの様な木像と同じで、エベンキ族と朝鮮でだけ見られる。 キリスト教の宣教師によると、異教徒、偶像崇拝、盲目バイ·デビル、迷信韓国人と説明されている。              
 
        撮影年代不明 チャンソンの参考写真              
 
1899~1900年撮影 漢城(ソウル)で豆を挽く男              
 
1903年 Herbert G. Ponting撮影 北京へ向かい道 漢城(ソウル)の郊外               
 
1903年 Herbert G. Ponting撮影 釜山              
 
1903年 Herbert G. Ponting撮影 漢城(ソウル)の寺子屋              
 
1903年 Herbert G. Ponting撮影 ソウル龍山漢江渡し場               
 
1904年 George Rose 撮影 漢城(ソウル)の城壁              
 
1903年 Herbert G. Ponting 撮影 済物浦(仁川の旧名)              
 
1904年 撮影者不明 漢城(ソウル)の郊外              
 
1904年 George Rose 撮影 平壌              
 
1904年 アメリカのCollier`s(コリアーズ)の特派員 Robert L Dunn(ロバート・ドン)が150ドルを釜山で両替した李斯朝鮮の膨大な小判の前で撮影 中央男性がRobert L Dunn(ロバート・ドン)である。 日露戦争を取材しに来たアメリカのコリーアース(Collier's)特派員ロバート·ドン(Robert L. Dunn)が驚異的な小判の山の前で大喜びの表情で記念撮影をしました。これらの硬貨は、北に進撃する日本軍を従軍した記者が使用取材経費であった。ダンは、韓国の通貨の価値がどの程度落ちたのか知らなかった。ソウルを離れる準備をしていた日の朝、日本人通訳栗田に150ドルを変えてくるように指示した。夕方を行うまでポーターに消去されてきた小判の山を見て驚きやジャパジル状況だった。「韓国での現金両替」というタイトルの記事は、1米セントの種類に応じて、小判15〜30に匹敵する額であり、1ドルを両替すると、装丁した人が取得して行かなければならない状況だったと説明した。(Collier's Weekly、1904.6.4)              
 
        撮影年代は、中国人により買収されてからの撮影です [ 大仏ホテル ] 1888年に、日本の海運業者が仁川に建築した韓国初のホテル 日本人が造っただけに240枚の畳を使用し、ベッドの部屋11室とレストランを備えた3階建ての洋館の建物だったと解説。           当時は交通の便が悪く、ソウルまで行くには仁川で1泊は必要だった頃に建てられた。宿泊客のほとんどは外国人だったため、日本語ではなく英語で宿泊客を出迎えた。 このホテルの部屋の価格は当時、上級2円50銭、中級2円、下級1円50銭だった。旅館の上級部屋価格が1円だったことと比べると高い料金だが、人気があったと記録されているという。           現在、大仏ホテルは残っておらず、京仁線が開通されると経営難に直面し、中国人に買収された。その後、1978年まで中国レストラン「中華楼」となった。               
 
    

仲間入りもつかの間、「30-50クラブ」脱落危機の韓国

2019-06-16 16:34:17 | 日記

こりあうぉっちんぐ

 嫌韓ではありません、笑韓です。観ているだけなら、これほど面白い人たちもありませんから。

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    2019年06月16日(日) 13時21分09秒NEW ! テーマ:

2019/6/19 朝鮮日報

【コラム】仲間入りもつかの間、「30-50クラブ」脱落危機の韓国

  

 韓国統計庁の人口時計によると、韓国の人口が5000万人を超えたのは2012年6月23日だった。

当時本紙は「韓国が世界で7番目に20-50クラブ(1人当たり国民所得2万ドル、人口5000万人以上の国)に浮上する」という企画記事を掲載した。

人口5000万人時代の経済的、社会的意味に焦点を当てた内容だった。

 (中略)

 文在寅(ムン・ジェイン)大統領は先月、KBSが行った特別対談でこう語った。

 「我々が明確に認めなければならないことは、マクロ的に韓国経済が大成功を収めた事実だ。昨年韓国は(1人当たり)所得3万ドルを超え、世界で7番目に人口5000万人以上、所得3万ドル以上の30-50クラブに加わった。その国々の中で韓国は(昨年)かなり高成長した」

 

(以下略)

 

キム・テグン経済部次長

 

1 

 

http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2019/06/14/2019061480120.html

 

2 

 

http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2019/06/14/201906148010_2.html

 

引用ここまで

 

 緑色の文字列は関連記事へのリンクです

 

 何度も書いていますが韓国人は変わったクラブ活動が好きですからねえ。

30-50クラブなんて日本じゃ誰も知らないでしょうにねえ。

 まあ韓国人は先進国たらんと青筋を立てていますからねえ。

しかし先進国になるには経済力だけでは無理なんですよ。

 一人当たりGDPで日本やアメリカを抜くアラブの産油国は幾つもあるでしょうが、彼ら自身も自分が先進国であるなどとは考えていないでしょう。

 とにかく韓国の場合は民度が低すぎるんですよね。

だからノーベル賞やアカデミー賞やプリッカー賞・・・・以下略・・・・には縁がないんですが。

 そういう所を改めるには・・・・・韓国人の民度では無理でしょうねえ。何せ李朝という中世または古代国家が500年も続いたわけですから。

 日本社会が江戸時代にどれだけ変化したと思っておる。