【海峡を越えて 日・韓・朝芸能始末記(3)】
ピカソも金日成も虜にして…「半島の舞姫」崔承喜(さい・しょうき)
「半島の舞姫」と呼ばれた崔承喜
女流舞踊家、崔承喜(チェスンヒ=1911~69年)。
日本語読みは「さい・しょうき」。オールドファンには『半島の舞姫』のニックネームが懐かしいかもしれない。
東洋人離れした170センチ近い恵まれた体とエキゾチックな美貌。
現代舞踊と朝鮮の伝統舞踊をミックスした独創的な踊りで、ピカソやコクトー、川端康成ら世界中の文化人を虜(とりこ)にした不世出のアーティストだ。
崔は日本統治時代の朝鮮・京城(現韓国・ソウル)の良家の出身(出身地は別説あり)。モダンダンスの石井漠(ばく)門下に入って日本へ渡り、次第に頭角を現す。
昭和9(1934)年、東京で開いた第1回新作舞踊発表会で川端ら文化人・知識人に称賛されたときはまだ20代前半だった。
映画「半島の舞姫」(今日出海=こん・ひでみ=監督)に主演し、化粧品やお菓子などの広告モデルや、写真雑誌のグラビアページを軒並み席巻していたのも、このころだ。
現代のアイドルが束になってもかなわないほどのブームを呼んだと言っていい。
当時、川端康成が書いた一文が残っている。《女流新進舞踊家中の日本一は誰かと聞かれ、洋舞踊では崔承喜であろうと、私は答えておいた…第一に立派な体躯(たいく)である。
彼女の踊りの大きさである。力である。(略)また彼女一人にいちじるしい民族の匂いである…肉体の生活力を彼女ほど舞台に生かす舞踊家は二人と見られない》(「朝鮮の舞姫崔承喜」から)
「半島の舞姫」と呼ばれた崔承喜
13年には米ニューヨーク、ロサンゼルス公演、翌年にはパリなどヨーロッパを回り、ピカソ、コクトー、ロマンロランらを魅了する。
当時、フランスに留学中だった周恩来(後に中国首相)も崔のステージを見たという。
帰国後、写真雑誌のインタビューで崔は《アメリカでもヨーロッパでも随分たくさん写真を撮られてきましたわ…欧米人に日本をよく理解させるには芸術が一番だと思いましたわ》(「アサヒカメラ」16年1月号)と自信たっぷりに語っている。
19年1月、東京・帝国劇場で開催した20日間、23回の連続公演は「伝説」となっている。
戦時下にもかかわらず、観客が殺到し、連日満席の大入り。
敗色が濃くなり、モノがなくなっていったご時世に日本国民が朝鮮出身の舞姫のステージに熱狂していたのだ。そこに民族の違いなどない。“我らがスター”であったことが分かるだろう。
仕事が次第に限られてゆく中で崔は、日本軍の依頼で満州や北支方面で慰問公演を続けながら20年8月、終戦を迎える。
戦後、その行動が栄光から非難へと暗転させてしまう種になるとはツユ知らずに…。
□ ■ □
「親日派」と呼ばれることは朝鮮民族にとって今も昔も売国奴に等しい極めつきの悪罵(あくば)である。
21(1946)年5月、米軍占領下の朝鮮南部(現在の韓国)へ戻った崔は戦争中、日本軍の部隊慰問公演へ協力したことなどをあげつらわれ、思わぬ批判を浴びてしまう。
そのころ夫の安漠(アンマク=後に北朝鮮文化省次官)はソ連軍を後ろ盾にした金日成(同首相、国家主席)が実権を握っている北の平壌へ入っている。
安は日本統治時代、左翼色が強い「朝鮮プロレタリア芸術同盟(カップ)」のメンバーとして活躍。中国で地下活動をしていた朝鮮独立運動組織ともつながっていた。
懐かしい故郷である南の地で同胞から「倭奴(ウェノム=日本人への蔑称)」という酷(ひど)い言葉まで投げつけられた崔は夫の誘いに乗って北へ向かう。
これには金日成の意向が強く働いていた。世界的な舞踊家は格好の広告塔になる。金日成はVIP待遇で崔を迎えた。
平壌の中心を流れる大同江のほとりに建てられた舞踊研究所には「崔承喜」の個人名が冠せられた(後に国立に移管)。
白亜の殿堂のような4階建ての研究所は1、2階が300人に及ぶ研究所員の宿舎、3階が事務室、4階がけいこ場。
そこへ金日成がよく訪ねてきた。崔は直にこの独裁者と話ができたという。
崔は朝鮮民族の舞踊を体系化し、金日成の意向に沿うような作品も創作した。やがては北朝鮮の文化芸術全般を仕切る立場にまで上り詰めてゆく。
だが、栄光は長く続かない。崔ほどの大スターであっても、しょせん、「日本とつながりがあった人物」が信用されることはないのだ。礎(いしずえ)さえ築いてくれれば後は邪魔者になる。
33(1958)年10月、金日成は《作家、芸術員の中にある古い思想に反対する闘争に力強く取り組むことに対し》という論文の中で、「舞踊大家」の名で崔のことを「個人英雄主義」と厳しく批判する。
背景には金日成による政敵粛清の嵐に巻き込まれた夫・安漠の失脚もあった。
要職から外された崔が命じられたのは、34年12月から始まった帰国事業で北朝鮮へ着いた在日朝鮮人の迎接委員だった。そこでは広告塔としての「崔承喜」の名前もまだ利用価値があったからであろう。
□ ■ □
日本一の美声と謳(うた)われた名テナー歌手、永田絃次郎(げんじろう=1909~85年、朝鮮名・金永吉=キムヨンギル)もまた金日成が三顧の礼で北朝鮮へ迎えたスターのひとりだった。
永田は35年1月29日、一家6人で帰国船「クリリオン号」に乗って新潟から北朝鮮の清(チョン)津(ジン)(チョンジン)へ向かう。
港で永田を迎えたのが、失脚した崔だった。もちろん永田の前で本当の事情は、おくびにも出せない。
当時の様子が新聞記事に写真入りで紹介されている。熱烈な歓迎の後、清津では崔も参加して座談会が開かれた。
興奮を隠せない永田は、送別公演でも歌った「キン(長い)アリラン」を披露。
崔は永田のはしゃぎぶりをどんな思いで見ていたのだろう。
「あなたはとんでもない国に来てしまったのよ。
くれぐれも日本のことには触れないようにしなさいね…」。ひそかにそう教えて上げたかったのかもしれない。
果たして、永田も数年後には“使い捨て”にされてしまう。ソ連(当時)、中国、東欧など東側諸国での華々しい海外公演が許されたのもわずか1、2年だけ。
永田が望んだイタリアオペラのアリアを歌う自由もなく、やがては後進の指導に追いやられる。
仕事だけではない。平壌の高級住宅地に与えられた果樹園付きの自宅も、自家用車も奪われ、肺の持病を悪化させた永田は地方でひっそりと病死した。
金正日(当時・総書記)が語った永田の業績が音楽雑誌に掲載され、事実上の名誉回復が図られたのは死去から18年もたった平成15(2003)年のことである。
一方の崔は、昭和42(1967年)に決定的な失脚が伝えられ、2年後の44年に57歳で死去した。
それが突然、平成15年に一般人として最高の栄誉である「愛国烈士陵」に葬られていることが発表された。
永田と同時期の名誉回復はおそらく偶然ではない。前年には金正日が日本人拉致を認めて謝罪した小泉訪朝があり、対日宣伝だった可能性もある。
ただ、同時に語られる彼らの物語は《日本統治時代の厳しい差別や酷い仕打ちの中でも民族の誇りを忘れず、北朝鮮へ帰って金日成主席の温かい配慮の下で才能を開花させた》という式の荒唐無稽なプロパガンダである。
「酷い仕打ち」は日本ではなく北朝鮮の方ではないか。
一方、終戦直後に崔の「親日的行状」をやり玉に挙げた韓国でも後になって再評価の動きが広がっている。
生誕100年となる平成23(2011)年には韓国、北朝鮮双方で記念の行事が行われた。
“上げたり、下げたり”…忙しいことである。政治と時代に翻弄され続けた泉下の崔はきっとこう言うだろう。「私は好きな踊りを踊りたかっただけなのに」と。 =敬称略、毎週土曜日掲載
(文化部編集委員 喜多由浩)
ピカソも金日成も虜にして…「半島の舞姫」崔承喜(さい・しょうき)
「半島の舞姫」と呼ばれた崔承喜
女流舞踊家、崔承喜(チェスンヒ=1911~69年)。
日本語読みは「さい・しょうき」。オールドファンには『半島の舞姫』のニックネームが懐かしいかもしれない。
東洋人離れした170センチ近い恵まれた体とエキゾチックな美貌。
現代舞踊と朝鮮の伝統舞踊をミックスした独創的な踊りで、ピカソやコクトー、川端康成ら世界中の文化人を虜(とりこ)にした不世出のアーティストだ。
崔は日本統治時代の朝鮮・京城(現韓国・ソウル)の良家の出身(出身地は別説あり)。モダンダンスの石井漠(ばく)門下に入って日本へ渡り、次第に頭角を現す。
昭和9(1934)年、東京で開いた第1回新作舞踊発表会で川端ら文化人・知識人に称賛されたときはまだ20代前半だった。
映画「半島の舞姫」(今日出海=こん・ひでみ=監督)に主演し、化粧品やお菓子などの広告モデルや、写真雑誌のグラビアページを軒並み席巻していたのも、このころだ。
現代のアイドルが束になってもかなわないほどのブームを呼んだと言っていい。
当時、川端康成が書いた一文が残っている。《女流新進舞踊家中の日本一は誰かと聞かれ、洋舞踊では崔承喜であろうと、私は答えておいた…第一に立派な体躯(たいく)である。
彼女の踊りの大きさである。力である。(略)また彼女一人にいちじるしい民族の匂いである…肉体の生活力を彼女ほど舞台に生かす舞踊家は二人と見られない》(「朝鮮の舞姫崔承喜」から)
「半島の舞姫」と呼ばれた崔承喜
13年には米ニューヨーク、ロサンゼルス公演、翌年にはパリなどヨーロッパを回り、ピカソ、コクトー、ロマンロランらを魅了する。
当時、フランスに留学中だった周恩来(後に中国首相)も崔のステージを見たという。
帰国後、写真雑誌のインタビューで崔は《アメリカでもヨーロッパでも随分たくさん写真を撮られてきましたわ…欧米人に日本をよく理解させるには芸術が一番だと思いましたわ》(「アサヒカメラ」16年1月号)と自信たっぷりに語っている。
19年1月、東京・帝国劇場で開催した20日間、23回の連続公演は「伝説」となっている。
戦時下にもかかわらず、観客が殺到し、連日満席の大入り。
敗色が濃くなり、モノがなくなっていったご時世に日本国民が朝鮮出身の舞姫のステージに熱狂していたのだ。そこに民族の違いなどない。“我らがスター”であったことが分かるだろう。
仕事が次第に限られてゆく中で崔は、日本軍の依頼で満州や北支方面で慰問公演を続けながら20年8月、終戦を迎える。
戦後、その行動が栄光から非難へと暗転させてしまう種になるとはツユ知らずに…。
□ ■ □
「親日派」と呼ばれることは朝鮮民族にとって今も昔も売国奴に等しい極めつきの悪罵(あくば)である。
21(1946)年5月、米軍占領下の朝鮮南部(現在の韓国)へ戻った崔は戦争中、日本軍の部隊慰問公演へ協力したことなどをあげつらわれ、思わぬ批判を浴びてしまう。
そのころ夫の安漠(アンマク=後に北朝鮮文化省次官)はソ連軍を後ろ盾にした金日成(同首相、国家主席)が実権を握っている北の平壌へ入っている。
安は日本統治時代、左翼色が強い「朝鮮プロレタリア芸術同盟(カップ)」のメンバーとして活躍。中国で地下活動をしていた朝鮮独立運動組織ともつながっていた。
懐かしい故郷である南の地で同胞から「倭奴(ウェノム=日本人への蔑称)」という酷(ひど)い言葉まで投げつけられた崔は夫の誘いに乗って北へ向かう。
これには金日成の意向が強く働いていた。世界的な舞踊家は格好の広告塔になる。金日成はVIP待遇で崔を迎えた。
平壌の中心を流れる大同江のほとりに建てられた舞踊研究所には「崔承喜」の個人名が冠せられた(後に国立に移管)。
白亜の殿堂のような4階建ての研究所は1、2階が300人に及ぶ研究所員の宿舎、3階が事務室、4階がけいこ場。
そこへ金日成がよく訪ねてきた。崔は直にこの独裁者と話ができたという。
崔は朝鮮民族の舞踊を体系化し、金日成の意向に沿うような作品も創作した。やがては北朝鮮の文化芸術全般を仕切る立場にまで上り詰めてゆく。
だが、栄光は長く続かない。崔ほどの大スターであっても、しょせん、「日本とつながりがあった人物」が信用されることはないのだ。礎(いしずえ)さえ築いてくれれば後は邪魔者になる。
33(1958)年10月、金日成は《作家、芸術員の中にある古い思想に反対する闘争に力強く取り組むことに対し》という論文の中で、「舞踊大家」の名で崔のことを「個人英雄主義」と厳しく批判する。
背景には金日成による政敵粛清の嵐に巻き込まれた夫・安漠の失脚もあった。
要職から外された崔が命じられたのは、34年12月から始まった帰国事業で北朝鮮へ着いた在日朝鮮人の迎接委員だった。そこでは広告塔としての「崔承喜」の名前もまだ利用価値があったからであろう。
□ ■ □
日本一の美声と謳(うた)われた名テナー歌手、永田絃次郎(げんじろう=1909~85年、朝鮮名・金永吉=キムヨンギル)もまた金日成が三顧の礼で北朝鮮へ迎えたスターのひとりだった。
永田は35年1月29日、一家6人で帰国船「クリリオン号」に乗って新潟から北朝鮮の清(チョン)津(ジン)(チョンジン)へ向かう。
港で永田を迎えたのが、失脚した崔だった。もちろん永田の前で本当の事情は、おくびにも出せない。
当時の様子が新聞記事に写真入りで紹介されている。熱烈な歓迎の後、清津では崔も参加して座談会が開かれた。
興奮を隠せない永田は、送別公演でも歌った「キン(長い)アリラン」を披露。
崔は永田のはしゃぎぶりをどんな思いで見ていたのだろう。
「あなたはとんでもない国に来てしまったのよ。
くれぐれも日本のことには触れないようにしなさいね…」。ひそかにそう教えて上げたかったのかもしれない。
果たして、永田も数年後には“使い捨て”にされてしまう。ソ連(当時)、中国、東欧など東側諸国での華々しい海外公演が許されたのもわずか1、2年だけ。
永田が望んだイタリアオペラのアリアを歌う自由もなく、やがては後進の指導に追いやられる。
仕事だけではない。平壌の高級住宅地に与えられた果樹園付きの自宅も、自家用車も奪われ、肺の持病を悪化させた永田は地方でひっそりと病死した。
金正日(当時・総書記)が語った永田の業績が音楽雑誌に掲載され、事実上の名誉回復が図られたのは死去から18年もたった平成15(2003)年のことである。
一方の崔は、昭和42(1967年)に決定的な失脚が伝えられ、2年後の44年に57歳で死去した。
それが突然、平成15年に一般人として最高の栄誉である「愛国烈士陵」に葬られていることが発表された。
永田と同時期の名誉回復はおそらく偶然ではない。前年には金正日が日本人拉致を認めて謝罪した小泉訪朝があり、対日宣伝だった可能性もある。
ただ、同時に語られる彼らの物語は《日本統治時代の厳しい差別や酷い仕打ちの中でも民族の誇りを忘れず、北朝鮮へ帰って金日成主席の温かい配慮の下で才能を開花させた》という式の荒唐無稽なプロパガンダである。
「酷い仕打ち」は日本ではなく北朝鮮の方ではないか。
一方、終戦直後に崔の「親日的行状」をやり玉に挙げた韓国でも後になって再評価の動きが広がっている。
生誕100年となる平成23(2011)年には韓国、北朝鮮双方で記念の行事が行われた。
“上げたり、下げたり”…忙しいことである。政治と時代に翻弄され続けた泉下の崔はきっとこう言うだろう。「私は好きな踊りを踊りたかっただけなのに」と。 =敬称略、毎週土曜日掲載
(文化部編集委員 喜多由浩)