世界史用語解説 授業と学習のヒントappendix list
閔妃暗殺事件
1895年、朝鮮で実権を持っていた親露派の王妃閔妃を、宮中に乱入した日本公使らが殺害した事件。
露骨な手段を採った日本に対する反発が強まり、かえって親露派が勢いづいた。
『閔妃暗殺』
この事件は一国の公使が在任国の宮廷でその王族を殺害するという前例のない出来事であった。三浦梧楼という人物
三浦梧楼は長州出身の軍人であったが、彼が韓国駐在の公使となったのは、前任の公使で同じ長州の井上馨の推薦によるもので、伊藤博文と山県有朋が決定した。閔妃殺害事件はさすがに対外的にも問題となったので、公使としての三浦梧楼の責任が問われ、事件後召還されて広島で裁判となった。
暗殺決行
三浦の計画では、皇帝が親露派の閔妃に動かされて、日本軍人を顧問としている理由で解散させられることになった訓練隊が反乱を起こし、その混乱に乗じて閔妃を殺害、反閔妃の大物大院君を担ぎ出して親日派政府を樹立するというものであった。事件のその後
国際的な批判を受けた日本は三浦梧楼らを召還し、裁判にかけたが、証拠不十分で無罪となった。参考 彼らを駆り立てたもの
実行犯の一人である小早川秀雄は「朝鮮とロシアの関係をこのまま放置しておくならば、日本の勢力は全く半島の天地から排斥され、朝鮮の運命はロシアの握るところとなり、・・・これは単に半島の危機であるばかりか、まことに東洋の危機であり、また日本帝国の一大危機といわねばならない。この形勢の変動を眼前に見る者は、どうして憤然と決起しないでおられようか」と書いている。(引用)このように全員が「閔妃暗殺は、日本の将来に大いに貢献する快挙である」と信じて、一点の疑いも抱いてはいなかった。
《逆効果にはなりはしないか。日本を窮地に追いこむ結果になりはしないか》と思い悩んだり、ためらったりした人はいない。
彼らの多くが、殺人は刑法上の重大犯罪であり、特に隣国の王妃暗殺は国際犯罪であることを知らなかったわけではない。
しかしそれが、〝国のため〟であれば何をやっても許される、それをやるのが真の勇気だという錯覚の中で、殺人行為は「快挙」となり、〝美挙〟と化した。
<角田房子『閔妃暗殺』1988 新潮社刊 p.306>角田女史の著作は現在では細部で誤りが訂正されているが、大筋では事件を正しく捉えている。