日本と世界

世界の中の日本

閔妃暗殺事件

2022-01-10 18:11:22 | 日記

世界史用語解説 授業と学習のヒントappendix list

閔妃暗殺事件

1895年、朝鮮で実権を持っていた親露派の王妃閔妃を、宮中に乱入した日本公使らが殺害した事件。

露骨な手段を採った日本に対する反発が強まり、かえって親露派が勢いづいた。

 みんびあんさつじけん。
朝鮮王朝は、日清戦争の結果の下関条約で清の宗主権が否定され、正式に独立を確定させた。
続いてロシアを中心とした三国干渉で日本が遼東半島を清に返還すると、朝鮮の政府内部にロシアと結んで日本の勢力を排除しようとする親露派が形成された。
その中心が閔妃(明成皇后、びんひ、ミンビ)であった。
 
その動きを危ぶむ日本の公使三浦梧楼は、1895年10月、公使館員等を王宮に侵入させ、閔妃らを殺害し、死体を焼き払った(乙未事変ともいう)。

『閔妃暗殺』

 この事件は一国の公使が在任国の宮廷でその王族を殺害するという前例のない出来事であった。
しかし当時日本では、
事件は閔妃と大院君の内紛に三浦公使が巻き込まれたにすぎないという理解と、
公使の行動も日本の国益を守る愛国心から出たものであるという同情が一般的で、国内から非難がわき起こることはなかった。
また関係者の証言や記録もあえて真実は語らないという態度のものが多く、事件の実情は闇に包まれていた。
そのなかで1988年に角田房子が『閔妃暗殺』を発表してベストセラーとなり、初めて日本でも広く知られるようになった。
歴史書ではないが、両国の史料をよく調べた力作であるので、それにそって事件の詳細を見てみよう。

三浦梧楼という人物

 三浦梧楼は長州出身の軍人であったが、彼が韓国駐在の公使となったのは、前任の公使で同じ長州の井上馨の推薦によるもので、伊藤博文と山県有朋が決定した。
井上は日清戦争後の駐韓公使として閔妃を何とか日本側に引きつけようと努力(例えば300万円の援助を約束するとか)を重ねたが、
閔妃の親ロシア姿勢を変えることができず、最終的な手段として閔妃を除くことが必要と密かに考えるに至った。
そこでその実行に適した人物として三浦が選ばれた。
三浦はある〝決意〟をもって韓国に赴任した。
三浦梧楼は戊辰戦争や西南戦争で活躍し、直情径行の人として知られて、士官学校校長や学習院院長を務めた人物である。

 閔妃殺害事件はさすがに対外的にも問題となったので、公使としての三浦梧楼の責任が問われ、事件後召還されて広島で裁判となった。
 
しかし直接関与の証拠はないとして無罪となった。
 
彼はその後も長州閥の旧軍人として優遇され、晩年には枢密院顧問となっている。彼の回顧録が公刊されていて、様々な自慢話が語られているが「朝鮮事件」の一節は、自分の判断で実行したと語るだけで詳細は言葉を濁しており、「我輩の行為は是か非か。ただ天が照臨ましますであろう。」と結んでいる。<三浦梧楼『観樹将軍回顧録』中公文庫 p.290>

暗殺決行

 三浦の計画では、皇帝が親露派の閔妃に動かされて、日本軍人を顧問としている理由で解散させられることになった訓練隊が反乱を起こし、その混乱に乗じて閔妃を殺害、反閔妃の大物大院君を担ぎ出して親日派政府を樹立するというものであった。
当初、1895年10月10日に決行と決めたが、訓練隊の解散が早まりそうになったため急遽、8日深夜に変更、三浦は公使館員堀口九万一や民間人の漢城新報社長安達謙蔵(後の政治家)、同社員の小早川秀雄らとはかり、実行要員として大陸浪人と言われるようなごろつき連中をあつめ、日本軍の馬屋原少佐にも連絡して態勢を整えた。
大院君の決起という形をとるため浪人の岡本柳之助らがその幽閉先に向かい、寝所に押し入って強引に説得した。
しかし大院君がすぐに腰を上げなかったため予定より時間をくっていまい、王宮に着いたのは明け方になってしまった。
そのため、夜陰に乗じて閔妃を殺害するという計画は不可能となり、王宮に侵入しようとした日本軍と侵入者たちと王宮守備隊との銃撃戦となった。
宮中に乱入した日本兵と抜刀した民間人は、閔妃をさがして駆けめぐり、女官などに手当たり次第に暴行を加えた。たまたま宮中にいたアメリカ人顧問やロシア人技師もそれを目撃した。
この乱戦の中で閔妃は斬殺されたが、直接の下手人はわかっていない。
後の裁判では日本の軍人だったという証言もあったが、他に数名の民間人が自分こそは下手人だと名乗るものがあり、結局は不明とされた。
事件後宮中に入った三浦公使は閔妃を確認するとすぐに焼却を命じ、遺骨は宮中に埋められたとも、池に投げ込まれたとも伝えられている。
<角田房子『閔妃暗殺』1988 新潮社刊 現在は新潮文庫>

事件のその後

 国際的な批判を受けた日本は三浦梧楼らを召還し、裁判にかけたが、証拠不十分で無罪となった。
 
朝鮮の金弘集内閣は日本の圧力を受け、事件の解明を行おうとしなかったために民衆の反日感情は強まり、1896年1月、王妃である閔妃の殺害に憤激して「国母復讐」を掲げ、最初の反日武装闘争である義兵闘争が起きる。
 
日本兵を含む政府軍が義兵鎮圧に向かい、首都の防備が手薄になったすきに、親露派はクーデタを起こし、高宗をひそかにロシア公使館に移し、金弘集政権を倒して親露派政権を樹立した(2月)。
 
閔妃暗殺事件は結局日本に有利な状況を作り出すことはできず、その後、ロシアはさらに朝鮮への影響力を強め、日本との対立が深刻化して日露戦争へと向かっていく。

参考 彼らを駆り立てたもの

 実行犯の一人である小早川秀雄は「朝鮮とロシアの関係をこのまま放置しておくならば、日本の勢力は全く半島の天地から排斥され、朝鮮の運命はロシアの握るところとなり、・・・これは単に半島の危機であるばかりか、まことに東洋の危機であり、また日本帝国の一大危機といわねばならない。この形勢の変動を眼前に見る者は、どうして憤然と決起しないでおられようか」と書いている。
 
彼は韓国に来る前は熊本の小学校の先生だった。
(引用)このように全員が「閔妃暗殺は、日本の将来に大いに貢献する快挙である」と信じて、一点の疑いも抱いてはいなかった。
《逆効果にはなりはしないか。日本を窮地に追いこむ結果になりはしないか》と思い悩んだり、ためらったりした人はいない。
彼らの多くが、殺人は刑法上の重大犯罪であり、特に隣国の王妃暗殺は国際犯罪であることを知らなかったわけではない。
しかしそれが、〝国のため〟であれば何をやっても許される、それをやるのが真の勇気だという錯覚の中で、殺人行為は「快挙」となり、〝美挙〟と化した。
<角田房子『閔妃暗殺』1988 新潮社刊 p.306>
 角田女史の著作は現在では細部で誤りが訂正されているが、大筋では事件を正しく捉えている。
 
最近、〝愛国無罪〟なんていうばかばかしい言葉をよく聞くが、われわれもこの事件をそんな言葉でかたづけてしまうのではなく、事実に目を向けていくことが必要であろう。

輸出額から輸入額を差し引いた貿易収支は1兆3070億円の黒字で、3年ぶりに黒字に転じた。

2022-01-10 17:57:44 | 日記

輸出8.4%減 新型コロナ響く―20年度貿易収支

2021年04月19日11時52分

【図解】輸出額の年度別推移

【図解】輸出額の年度別推移

 財務省が19日発表した2020年度の貿易統計速報(通関ベース)によると、輸出額は前年度比8.4%減の69兆4873億円だった。

12年度以来8年ぶりの低い水準で、減少率はリーマン・ショック後の09年度以来の大きさとなった。

新型コロナウイルス感染拡大による世界経済の停滞が影響した。

10月の輸出、0.2%減 対中・米プラスで前年並みに回復―財務省

 輸出の減少は2年連続。

米国向けが16.5%、欧州連合(EU)向けが12.5%それぞれ減少した。

自動車や同部品、航空機部品の落ち込みが目立った。

経済の持ち直しが早い中国への輸出は9.6%増。非鉄金属や半導体製造装置、プラスチックが伸びた。


 輸入は11.6%減の68兆1803億円。

原油や液化天然ガスなど資源関連が振るわなかった。

輸出額から輸入額を差し引いた貿易収支は1兆3070億円の黒字で、3年ぶりに黒字に転じた。


 同時発表された21年3月の輸出額は前年同月比16.1%増の7兆3781億円だった。

中国向けは4割増の1兆6344億円で、昨年12月以来単月として過去最高を更新。米国やEU向けも伸びた

貿易収支は6637億円の黒字だった。


韓国がここへきてまさかの「貿易赤字」に転落…「資金流出」が進む“不穏な気配”

2022-01-10 17:41:17 | 日記

韓国がここへきてまさかの「貿易赤字」に転落…「資金流出」が進む“不穏な気配”

配信

 
現代ビジネス

20ヵ月ぶりの貿易赤字

 2021年12月、韓国の貿易収支は赤字に転落した。

悪化傾向が鮮明な韓国の交易条件

懸念高まる輸出主導の経済成長

真壁 昭夫(法政大学大学院教授)


朝鮮の混乱と日清両国の動き~甲午農民戦争

2022-01-10 16:49:18 | 日記
  • 日清戦争とは > 
  • 1. 発端と背景:朝鮮の混乱と日清両国の動き~甲午農民戦争

1. 発端と背景: 朝鮮の混乱と日清両国の動き~甲午農民戦争

19世紀末の東アジア―日本、清国、朝鮮

19世紀半ばにアメリカ、イギリス、フランス、オランダ、ロシアといった欧米の国々が次々に東アジア地域へと接近して以降、東アジアの国々の在り方は、欧米各国とのかかわり方によって大きく左右されるようになっていきました。

アメリカによる開国要求の後、江戸幕府の崩壊を招き、明治維新を経験することとなった日本は、それ以来近代国家の建設を推し進めましたが、

その中で、幕末の開国期に欧米各国との間で締結した不平等条約を改正し(治外法権の撤廃、関税自主権の回復)、国際社会でそれらの国々と対等な立場を得ることはもっとも重要な課題の1つとなっていました。

このため明治政府は、明治4年(1871年)から明治6年(1873年)にかけて岩倉具視率いる使節団を派遣したのをはじめとして、欧米各国との間で外交交渉を重ねていきました。

そして、1890年代に入ると、ロシアの勢力拡大を警戒したイギリスとの間で条約改正に向けた動きが加速しました。

このように、国家間の関係が条約によって明確に取り決められるという近代的な外交体制の下で各国との関係が結び直されていく中で、

日本はもともとつながりの深かった朝鮮との関係をも見直そうと考えるようになり、その結果、朝鮮に対する影響力を強めていくことになります。

朝鮮(李氏朝鮮)もまた、19世紀半ば以降、日本と同様に欧米各国から開国を要求され、それらの国々といかなるかたちで関係を結ぶか、という困難な課題に直面していました。

しかし、朝鮮にとっては特に、長らく維持してきた清国との「属国(朝鮮)―宗主国(清国)」という宗属関係(冊封体制)が大きな意味を持ちました。

この頃の清国は、アヘン戦争(1840年~1842年)やアロー戦争(1856年~1860年)でイギリスやフランスからの攻撃を受け、その後もロシアへの領土割譲などを経験する一方で、

19世紀に入るころから、白蓮教徒の乱(1796年~1804年)、太平天国の乱(1851年~1864年)、捻軍の蜂起(1853年~1868年)や回族の蜂起(1853年~1873年)などの相次ぐ民衆反乱によって国内の混乱にも悩まされていました。

こうした清国の状況をうけて、朝鮮政府は鎖国政策を強め、キリスト教を弾圧する(1866年)とともに、接近するフランスやアメリカに対しては、丙寅洋擾(1866年)、ジェネラル・シャーマン号事件(1866年)、辛未洋擾(1871年)などで武力によって激しく抵抗しました。

しかし、日本との軍事衝突である江華島事件(もしくは雲揚号事件)(1875年)(→関係公文書①)の結果、日本と日朝修好条規(1876年2月27日)(→関係公文書②)を結んだのをはじめとして、欧米各国との間でも相次いで不平等条約を締結することとなり、朝鮮は開国に至りました。

朝鮮王朝の混乱

このような緊迫した状況の中で、朝鮮の朝廷では、独立国として自ら近代化を進めることにより諸外国に劣らない力を付けていくべきだと考える開化派(もしくは独立党)と、

あくまで清国の庇護によって国を守っていくべきだと考える守旧派(もしくは事大党)との間で激しい対立が起きていました。

開化派の中心だったのは、当時実権を握っていた、国王高宗の妃である閔妃の一族でした。

彼らは朝鮮に近代化の道を進ませようと働きかけてくる日本との協調を重視して、日本から軍事顧問を招くなどして特に軍隊の近代化(新式軍隊の設立)に力を入れていました。

 

しかし、こうした開化派の動きと日本の姿勢に不満を持つ旧軍と民衆によって、開化派の多くの要人たちが殺害され、日本公使館が襲撃され公使館員の殺害と花房義質公使の追放が行われるという壬午事変(壬午軍乱)(1882年7月23日)(→関係公文書③)が起きると、

朝廷の実権は守旧派の中心であった興宣大院君(高宗の実父)へと移りました。

これに対し日本政府は、この事件の責任を朝鮮政府に問うことと、朝鮮にいる日本人を保護することを目的として掲げながら、朝鮮に軍隊を送り込みました(→関係公文書④)

このような日本の動きに対して警戒を強めた清国は、事変の鎮圧や日本公使の護衛などを名目として朝鮮への出兵を行うと、事変の責任を追及して興宣大院君を拘束しました。

こうして清国の軍事力が大きな影響力を示した一方で、日本が済物浦条約(1882年8月30日)(→関係公文書⑤)によって日本軍の駐留を朝鮮政府に認めさせたことにより、首都漢城には日清両軍が駐留する事態となり、朝鮮における日清間の緊張が高まりました

興宣大院君が清国で幽閉されると、壬午事変で難を逃れていた閔妃は再び政権を担い、清国への依存を強める政策へと方針を転換させました。

これに危機感を強めた開化派の金玉均らは、日本の支援を期待して甲申政変(1884年12月4日)(→関係公文書⑥)を起こし、高宗の承認も得て政権の奪取をはかりましたが、即座に清国軍が新政府を攻撃して政変を鎮圧しました。

この時、国王の警護を名目として王宮に配置されていた日本軍と、王宮に攻め込んだ清国軍との間で戦闘が起こり、また兵士以外の多くの日本人も清国軍の攻撃による被害を受けたことから、

日清間での戦争に至る危険性が高まりましたが、両国は天津条約(1885年4月18日)(→関係公文書⑦)によって、朝鮮からの双方の撤兵と、将来的に朝鮮にやむを得ず出兵を行う際には相互に通知し合うことなどを取り決めました。

こうして日清開戦は回避されたものの、以降も朝鮮の朝廷では政治的混乱が治まらず、これをめぐって両国の警戒は続いていくことになります。

甲午農民戦争の勃発

甲申政変鎮圧後の朝鮮では、清国による指導のもとで閔氏政権による国の立て直しが進められていきました。

その一方で、国王高宗は独立国家として各国との関係を築こうとするようになり、ロシアへの接近をはかったほか、欧米各国に公使を派遣するなどしました。

このような動きに対して警戒を強めた清国は、興宣大院君を復帰させ、また、朝鮮の外交に対する監督を厳しく行いました。

こうして清国の影響力の強化と欧米各国との交流とが並行する中で、朝鮮ではさまざまな近代化政策が進められることとなりましたが、1890年代に入るころには次第に財政が厳しくなっていきました

特に農民たちは、増税や役人の不正の蔓延、そして日本人商人による穀物の買い占めなどにより、貧困に苦しめられるようになっていきました。

そして、1894年の春頃には各地の民衆が地方役人に対する不満などから暴動を起こしつつある中(→関係公文書⑧)、全羅道の古阜郡の農民たちが起こした武装蜂起が拡大し、甲午農民戦争が勃発します。

この蜂起に参加した人々は、指導者をはじめその多くが、当時多数の農民が信仰していたといわれる民衆宗教の「東学」の信者だったため、蜂起した農民軍は「東学党」とも呼ばれました。

人間を平等とし封建的な階級社会を否定する「東学」の思想を掲げ、日本人の追放と閔妃一族の政権の打倒を目指したこの蜂起はたちまち全国に拡大して勢力を強め、鎮圧にかかった朝鮮政府軍を撃破しながら首都漢城を目指して北上していきました。

5月末に農民軍が全羅道の中心地である全州を占領する頃には(→関係公文書⑨)、朝鮮政府内では、蜂起を鎮圧するために清国に軍隊の出動を要請するか否かの議論が起こっていました。

そして同じ頃、日本政府内でもまた、清国の朝鮮出兵を警戒し、これに対抗するために日本も朝鮮に軍隊を派遣すべきであるとの意見が強まっていました。こうして、天津条約以来の10年間近くにわたり、朝鮮の情勢をめぐる互いの動きに注意を払い続けてきた日本と清国の間で、再び急激に緊張が高まったのです。

 

 

 

 


民族問題 学ばぬ習政権

2022-01-10 16:27:23 | 日記

民族問題 学ばぬ習政権

中国人民解放軍とスクリーンに映し出された習近平国家主席(ロイター)
中国人民解放軍とスクリーンに映し出された習近平国家主席(ロイター)

『毛沢東選集』は全5巻からなる。

全巻日本語に訳されており、第1~4巻(中国語版は1951~60年に刊行)は、古本市場で容易に入手できる。

対して中国語版が77年に刊行された第5巻は入手が難しい。

中国共産党内部の路線対立のために82年に廃刊となったからだ。

第5巻に「十大関係について」と題する、56年4月25日に毛沢東が中国共産党中央政治局拡大会議で行った講話の記録が収録されている。

この年の2月にはソ連共産党第20回大会が開催され、同月25日にフルシチョフ第1書記がスターリンを批判する秘密報告を行った。

この秘密報告は国際共産主義運動に激震を走らせた。

毛沢東の「十大関係について」の講話は、フルシチョフのスターリン批判に対する毛沢東の応答という性格を帯びている。

毛沢東は、スターリンについて功績七分、誤り三分という評価をしている。

後に鄧小平は毛沢東について功績七分、誤り三分という評価を下している。

さて「十大関係について」で、毛沢東は《漢族と少数民族との関係にたいするわれわれの政策は、比較的穏当なものであり、わりあい少数民族の賛同を得ている。

われわれは主として、大漢民族主義に反対する。

地方民族主義にも反対すべきであるが、一般的にいって、それは重点ではない》(『毛沢東選集第五巻』外文出版社、77年刊)と述べている。

毛沢東はマルクス・レーニン主義の立場から、原則としてあらゆる民族主義を批判するが、少数民族の民族主義の方がより小さな悪と考えている。それは以下の理由からだ。

《わが国の少数民族は人数が少なく、占めている地域が広い。人口についていえば、漢族は九四パーセントを占め、圧倒的に優勢である。

もし漢族の人たちが大漢民族主義をふりかざし、少数民族を差別するならば、それはきわめてよくないことである。

では、土地はどちらのほうが広いか。土地は少数民族のほうが広く、五〇ないし六〇パーセントを占めている。

中国は土地が広大で物産が豊富、そして人口が多い、というが、実際には「人口が多い」のは漢族、「土地が広大で、物産が豊富」なのは少数民族であって、すくなくとも地下資源については、少数民族のほうが「物産豊富」だろう。

各少数民族はいずれも中国の歴史に貢献があった。

漢族は人口が多いが、これも長い期間にわたって数多くの民族の混血によって形成されたものである。

歴史上の反動支配者、おもには漢族の反動支配者が、かつて各民族のあいだにさまざまなみぞをつくり、少数民族をしいたげてきた。

これによってもたらされた影響は勤労人民のあいだでも、早急には消しがたい》(同)

広大な土地と地下資源を持つ少数民族の感情を尊重した方が国益になると毛沢東は認識している。

だからウイグル族に対しても毛沢東時代には、「民族ジェノサイド」との疑念を招くような漢民族への極端な同化政策は避けていた。

毛沢東は、ソ連におけるロシア人と少数民族の関係がきわめて不正常であると批判する。

《われわれは誠心誠意、積極的に、少数民族の経済建設と文化建設の発展を援助しなければならない。

ソ連では、ロシア民族と少数民族とがきわめて不正常な関係にあるが、われわれはこの教訓を汲(く)みとるべきである。

天上の空気、地上の森林、地下の資源、これらはすべて社会主義建設に必要な大事な要素であるが、あらゆる物的要素は、人という要素をつうじてのみ開発利用される。

われわれは、漢族と少数民族との関係をうまく処理し、各民族間の団結をうち固めて、ともに偉大な社会主義祖国の建設につとめなければならない》(同)

習近平国家主席は毛沢東が危険視した大漢民族主義を上回る「中華民族」を上から創設することで、ウイグル族やチベット族の同化を実現できると信じているようだ。

上から民族を創り出すことはできない。

ソ連は民族問題の処理に失敗して自壊する道を進んでいった。

習体制下の中国政治エリートは、この教訓からほとんど学んでいないように思えてならない。