子ども時代は本当に貧乏でそれがトラウマ。梅沢富美男が語る「子どもの貧困」の実情
9/2(金) 10:22配信
8月30日、政府は来年4月に発足する「こども家庭庁」の初年度概算要求額を4兆7510億円と発表した。
喫緊の課題のひとつに7人に1人とされる「子どもの貧困」問題がある。
物や情報が溢れ、豊かに見える現代社会だが、取りこぼされた子どもたちは大人や社会から見えづらい存在になっている。
今回、子ども時代に貧困を味わったと明かすのは俳優の梅沢富美男さん(71)。
目の前の困窮に、はたして救いはあるのか。子ども目線でどう映るのか。原体験を振り返りながら語ってもらった。(ジャーナリスト・中村竜太郎/Yahoo!ニュース Voice)
「子ども時代は僕にとって正直トラウマ。とにかく本当に貧乏でした」
「天才子役」と人気を博した当時の梅沢富美男さん
――梅沢さんの子ども時代はどんな暮らしでしたか?
うちは両親が剣劇一座をやっていて全国を巡業していました。
僕は8人兄弟の7番目で五男。
1歳7か月で初舞台を踏み「天才子役現る」と人気にもなって、みなさんから「トンコ」「トンちゃん」という愛称もいただいた。
それほど当時は大衆演劇が盛り上がって華やかだったのですが、やがて映画やテレビに押されて衰退してしまう。
そこで経済的事情と、父が役者でも義務教育はきちんと受けた方が良いという考えから大人は地方巡業、子どもたちは福島の祖母の家でばらばらに生活するようになりました。
その時の暮らし、子ども時代は僕にとっては正直、トラウマです。
とにかく、本当に貧乏でしたね。いい思い出がほとんどなかったからこれまであまり話したことはないし、以後、過去は振り返らないのが僕の信条になりましたね。
いつも空腹で、ご飯は朝昼晩食べられなくて一日一食がいいとこ。
こういうものが食べたい、ああいうものが食べたいって年がら年中頭の中で想像していました。
当然家にお金はないから、給食費が払えない。
今とは違い、当時は給食費を払ってない子どもに給食は出してもらえなかったので、お昼になると先生が気をつかって「富美男、ちょっとおいで」と手招きして、教室の外に誘導してくれるんです。
その時は僕だけじゃなくて他にもそんな生徒がいたので少しだけホッとしましたが、やっぱり傷つくし卑屈な気持ちにもなります。
そしてなによりつらいのは、ずっとお腹が空いていること。
けれどお金がないからしょうがない。
「金持ちと違って、うちはそもそも貧乏なんだ」と何度も自分に言い聞かせていましたね。
――なぜ貧乏なのかと思いませんでしたか。 子どもですし、わかりませんでしたね。
両親は不器用ながら必死で頑張っていたと思います。
どうにもならなくて仕送りも滞っていたのでしょう。
けれど子どもは大人の事情がまったくわからない。
ノートや鉛筆が買えない。習字や絵の道具もない。
遠足や運動会でうちだけ弁当がない。
なんでこんなに貧乏なのか。
それと、なんで自分とこだけ親がいないんだ、と。
人恋しさのあまり、両親を恨んだことは覚えています。
大人になって事情が理解できるようになりましたが、それを踏まえたうえであえて言わせてもらうと、なるべく子どもにはそんな寂しい思いはさせてはいけないと思いますね。
百歩譲って、できないならできないでいい。
しかし、その事情を親の口から子どもに伝えるのが一番大事だと思います。
子どもって頭がいい。良し悪しはちゃんとわかりますし、親の言うことは聞きますから。愛情も受け止めるし、その愛情を返そうともする。
「実は、うちはこうなんだからこうなのよ」と噛んで含めるように話してあげれば、子どもなりに理解してくれるもの。
昔気質のうちの両親はそこまで気が回らなかったけれど、幼い僕が望んでいたのはその説明だったかもしれません。
だから今子育てしている親御さんにはぜひそうしてほしい。大人だからとか、子どもだからとかじゃなく、家族としてコミュニケーションしてほしいですね。ちゃんと話せば、きっとわかりあえますよ。
節目節目で救ってくれた人がいて、人生が変わってきた
周囲の人たちの”人情”が自分を救ってくれたと語る梅沢富美男さん
――両親不在で経済的に困窮。おばあちゃんや兄弟がいても不安ですね。周囲の助けはありましたか。
祖母は一生懸命でしたし、兄弟は助け合って暮らしていましたが、貧乏は解消できなかった。
放っておけば僕自身グレてしまってもおかしくなかったと思いますが、そうならなかったのは周囲の人たちの人情のおかげです。
忘れられないのが小学校2年生の時、福島駅前にあるデパートでのこと。
裏面が白紙なのでノートにするため、チラシを大量に持ち帰ろうとしたら警備員さんに見つかって連れて行かれそうになった。
それを止めてくれたのが宇野さんという女性店員さん。
子役の僕を知っていてくれたのが幸いだったのですが、ついでに貧乏だったことがバレた。
そしたら「家においで」って住所を渡してくれて、兄貴と二人で農家だった彼女の家に訪ねていくと、お米や野菜を「持って行きなさい」とリュックに入れてくれました。
10キロぐらいはあったのかな、それを両手で抱えて、阿武隈川沿いを2時間かけて歩いて帰りました。
ちょうど冬で、雪が積もっていて、靴下も履いていないし、一足しかない靴はパカッと前に穴が開いているから紐でぎゅっと縛って。
逆に、靴底にかかった紐は雪道の滑り止めになるからちょうどよかった(笑)。
しかし寒かったですねえ。けれど食料を持ち帰ると祖母がすごくよろこんでくれて、これでご飯が食べられるかと思うと、気持ちがふわあっと温かくなって寒さも吹き飛びました。
――ご苦労されていますね。 そういえばこんなこともありました。
福島にいた頃、お金欲しさに自動車工場からくず鉄を持ち去ろうとして、従業員さんに捕まったことがあったんです。
「こんなガキは警察に突き出そう」、するとそこの奥さまが「そういうことしちゃダメ。この子だってなにも人さまの物を盗みたくて来たわけじゃないでしょうし、きっと誘いに乗ってきたんだろうから勘弁してあげなさい」と制してくれた。
で、僕の手をとって「いい? 坊や、人さまの物を盗むなんてことは」って言いかけたとたんハッと顔を見て、「トンちゃん?」。
そして「うわぁ」って僕を抱きしめて泣いた。
たまたま彼女は母親の知り合いで、そこから「息子さんが苦労している。迎えに来てあげてください」と話してくれ、そのことがきっかけで僕はいったん福島を出て、群馬にいた兄に引き取られることになります。
あの時諭されていなかったら、もしかすると僕だって悪い道へ流されていたかもしれない。
愛情をもって叱ってくれるとわかります。
あの時の奥さまの表情は今でも忘れられませんね。
こうして節目節目で救ってくれた人がいて、そんな出会いで僕の人生が変わっていきました。
もしも今本当につらい思いをしているならば、誰かに助けを求めてほしい
――もしも私たちが子育てしながら貧困に陥る状況、“子育て困窮世帯”になってしまった場合、どうしたらいいですか。
自分が生んだ子ですよ、まずは親が頑張るしかない。
現実的に赤の他人は手を差し伸べることはなかなか少ないと思うので、お父さん、お母さんが何とか子どものために努力する。
生きていくのは大変です。
子どもができたらそれまでの生活から変わるのが当たり前。
子どものための人生を作らなきゃ。
好きなパチンコや遊園地に行きたかったとしても、いったんは我慢しましょうよ。
楽しみは子どもが自立したあとでも満喫できるじゃないですか。
今どき古い考えと言われようが、とにかく子どものことを最優先に考えて努力するのが親のつとめ。
それは変わらないと思います。
でも、もしも今、本当につらい思いをしているんだったら、行政やボランティアの支援を受けてみるのは必要だと思います。
頼るのが恥ずかしいとか、人に面倒見てもらうのが格好悪いとか、世間体があるなんて考えない。
どこかに見栄があったとしてもそれは払拭して、まずは頼ってみましょうよ。
僕の体験から言えるのは、世の中冷たい人ばかりじゃなくて、やさしい手を差し伸べてくれる人もたくさんいるということ。
それを信じてください。
――最後に、あの頃の「トンちゃん」に何か言ってあげるとしたらどんな言葉ですか?
「えらかったね、よく貧乏に負けなかったね。でもおまえが負けなかったのは、隣のおばちゃん、牛乳屋のおじさん、ブリキ屋のおじさん、宇野さんや奥さま…、救ってくれた人がたくさんいたからだよ。
その人たちの言うことをよく聞いたな。
しっかり『ありがとうございました』って言えたよな。
もしも『関係ねえ、ばかやろう』となっていたら、きっと今のおまえはいないよ」。
トンちゃんにはそう言いたいですね。